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 ―――『いいんですよ、ちゃんと幸せになっても』。




 不意にぎったのは、いつ、誰から掛けられた言葉だったのか。

 不確かな記憶の底を、砂金を探す動きにも似て浚えば、その声音はまだ年若い男性のもの。そこには、泣きじゃくる幼い女の子を宥める手段など到底思い至らないといった、弱り切った響きがあった。


 『でも、ダ……メなんだって……! わたしはおうじょだから……すきなひととケッコンしたり……で、できない……って。ふ、ふぇ……っ。みん……みんなのためになるケッコンをしなきゃ……いけない……って』


 あの日、私は家庭教師から諭されたのだ。王女としての心構え。政略結婚という生き方を。


 『わたし、しあわせには……なれないの? うっ……ユ……バートのよんでくれた……えほんのおひめさまみたいに……す、すきなひととケッコンするのは……ダメ、なの?』


 幼い私には、とてもショックな宣告だった。

 授業が終わってから中庭に抜け出し、植え込みの陰に隠れて膝を抱え大泣きした。

 今にして思えばそのせいで、私の姿が見当たらないと騒ぎになったのだろう。手の空いていたものが総出で城中を探索し、たまたま私を発見してしまった彼が理不尽にも泣き喚く王女に付き合うという困った役目を背負わされたのだ。


 『そんなの……そんなの、やだぁ……!』


 ぽろぽろと涙が零れた。

 だって、信じていたの。小さい頃から憧れていた物語のお姫様のように、自分もいつか大好きな人と巡り合えると。唯一人の相手と運命的な恋に落ちて幸せに結ばれるんだと。


 『馬鹿な事をおっしゃらないで下さい……!』


 それまでひたすら遠慮がちに私の頭を撫でてくれていた掌に、急に怒気が籠められたのを感じて、私の両肩がびくりと跳ねた。


 『あ……すみません、怯えさせてしまいましたね……でも、姫様。姫様は、ご両親の事をどう思われますか? お幸せではないように見受けられますか?』


 思いもよらない事を言われて、驚きのあまり私の涙は引っ込んでしまった。

 だって、当時からお父様とお母様は、子供の目で見ても相思相愛の仲睦まじい夫婦だったから。


 『……そんなこと、ない……』


 すん、と私ははなを啜る。


 『そうでしょう? ですから姫様だって大丈夫です。たとえ政略結婚だったとしても、結婚してから相手の事を好きになればいいんです。そうすれば、こんなに可愛らしい姫様の事を、旦那様の方だって好きにならない訳がありません。私が保証しますよ』

 『ほん、と……?』

 『ええ。任せて下さい。姫様に相応しい最高のお相手を、世界中を回ってでもこのユーバートが探して参りますから』


 ユーバート。


 そうだわ、思い出した。

 幼い頃、時々私に絵本を読んでくれていた彼のことを、私はそう呼んでいたのだ。

 責任ある地位に就いた彼が多忙になり、私には専属の家庭教師が付くようになってから、すっかり疎遠になっていた懐かしい人の名前。

 ――宰相の本名。


 『くだらない考えを姫様に吹き込まないように、家庭教師せんせいには私の方からきっちりと指導をしておきます』

 ユーバート……若き日の宰相は、まだどこか怒った顔をしながら、泣き過ぎて瞼を腫らした私にもう一度言い聞かせた。

 『ですから、どうか――もう泣かないで下さい。大丈夫です。姫様は、ご自分の幸せを望まれてもいいんですよ』、と……。





 川底の石の下に閉じ込められていた泡が些細な揺らぎで水面へと浮かび上がってくるように。

 宰相の怒った顔から、私は遠い日の記憶を呼び覚ました。


 「そうだったわ、あの時も宰相は怒っていた……」


 自分自身に向けられた憤怒ではないと分かっていても、幼心に私は、豹変した宰相の事を怖いと思ってしまった。だからだろうか。無邪気に懐いていたはずの"ユーバート"をいつしか他人行儀に"宰相"と呼ぶようになったのは。

 今なら分かる。あの時、宰相は私の為に怒ってくれていたのだ。王女の義務を果たしつつも、幸せになりなさいと……幸せになる事を諦めるなと……。

 一連の出来事は忘れてしまっていたのに、彼の言葉だけは私の中にしっかりと根付いていた。

 少し大きくなった今では、それが必ず叶えられる願いではないと理解しているけれど。

 でも、政略結婚だろうと、神託による婚姻だろうと―――私はちゃんと幸せになりたいと思っているもの。宰相に言われた通り。叱られる筋合いなどないわよね。


 では、さっき宰相が怒っていたのはなんでなの?


 ……私と結婚させられそうなのが、それほどに嫌ってことかしら……?




 




 「神官長、少しいい?」


 私は神殿内の神官長の部屋を訪れていた。


 「どうなさいました、姫様」

 事前の約束も無く単身で現れた私を見て、神官長が不思議そうに立ち上がったけど、すぐにその表情は歓待の笑顔に替わった。如才がない。

 「神託の結論はどうなったのかと思って」

 寸前まで神官長の向っていた机に目をやれば、羊皮紙が幾巻も開かれて積み重ねられていた。おそらくは神託の正確な解釈の為に、過去の記録を紐解いていたのだろう。


 「申し訳ありません、いまだ審議中です。しかるべき結論が出ましたら速やかに王へ奏上いたしますので、姫様におかれましては今しばらくお待ち頂きたく」

 「あなたはどう思うの?」

 神官長の口上を途中で遮る。私が知りたいのは神殿の公式見解ではなく、忌憚ない個人の意見だ。

 神事のエキスパートである彼が最初に下した判断の事を、今ではどのように捉えているのか聞きたかった。


 「私……ですか」

 けど神官長は私の質問の意図を聞き違えたようだった。

 「正直、戸惑っております。まさか私の名が候補にあがろうとは……夢想だにしておりませんでしたので。私は女神シルヴィア=ナディラに生涯を捧げた身。本来なら辞退するしかないのですが」

 躊躇いがちにそこまで言うと、しばらく逡巡してから小声で続ける。

 「しかし……もしその女神ご自身が、この私を姫様の伴侶として選ばれたのだとしたら……」

 ぽっと神官長の頬が赤らんだ。そこには黄金の弓矢によって付けられた傷がある。


 神官長は私の右手を取り、彼自身の両手でそっと包み込んだ。

 決して押しつけがましくなく、産まれ立ての雛鳥を保護するかのように。

 そして私との距離を数歩分詰める。


 こうやって神官長を間近で見るのは二度目だけど、やっぱり溜息が出る程に細部まで整った顔立ちだ。

 照れる青年美形。なんて麗しい光景なのかしら。

 王女である私よりも神官長の方が女子力高いような気がする。


 「シルヴィアナ……シルヴィアナ姫様」

 私の名を、神官長はまるで甘露を味わう如く口の中で転がした。

 「女神の名を冠する姫様あなたを、私がお慕いしてしまうのは必然だったのかもしれません」


 生ける彫刻のような男性に熱の籠もった視線で見つめられ、甘い言葉を囁かれて。

 本当なら私の鼓動は早鐘を打っていてもおかしくはないはずなのに。

 ほんの数日前には手の甲に口付けられてドキドキしていた相手だというのに。

 ……何故かしら。あまり嬉しくない。


 どうして今この時、私の脳裏に浮かぶのは無表情な宰相の顔なの?

 

 「でも、あなたから見たら私なんてまだまだ子供なんじゃないのかしら」


 いやだわ。私らしくもなく、卑屈な言葉が出てしまった。

 年齢を理由に宰相から拒絶されたのが、どうやら地味に堪えているらしい。


 「真に美しい花は、蕾の頃からその華麗さを予感させずにはおかないものです」

 神官長は熱心に私を見つめながら、心からの言葉のように囁く。

 「姫様は、花なら蕾――もうあと数年もすれば、美しい大輪の花となって絢爛と咲き誇られることでしょう」


 ……よくまわる舌だこと。

 口から先に生まれてきたの?

 宰相にもこれくらい美辞麗句を並べる才能があればね……。


 あの時宰相は何と言って私を断ったのだったかしら。ええと……確か……。


 「……もしかしてそういう趣味があるの?」

 「ごふぉっ」

 いきなり神官長がむせた。

 「ごっ、ごか、誤解です。とんでもない。姫様、私には不埒な考えなど欠片も」

 「?」

 神官長が物凄く焦って弁解しているみたいだけど、意味が分からないわ。

 今度宰相に確認しておこう。


 神官長は数回咳払いをして、気を静めたようだった。

 重ねられた手に先程よりも力が籠もる。目線を合わせるためにだろうか、神官長の美貌が私の目と鼻の先にまで近付いてくる。

 「けれどもし……シルヴィアナ姫様、あなたが私を望んで下さるのなら。いっそ私は神官職を辞してでもその気持ちにお応えしたいと……」



 「何をしているんですか」

 物凄く低い声が響いた。

 開けていた扉の間口に立って室内にいる私達をねめつけているのは宰相だった。

 相変わらずの無表情。しかし声が途轍もなく冷たい。

 「神官長という重要な立場にある人物が神殿内で示す態度としてこれっぽっちも適当ではないようですが」


 宰相の嫌味を受けて神官長がたじろいだように私から離れた。

 そうして「これは……」とか「私は真面目に……」とか、真っ赤な顔をして口の中でモゴモゴと呟いている神官長を意にも介さず、

 「姫様は連れて参りますので」

 と言うと、宰相は私を神殿から連れ出した。そこからお小言の連続だった。


 「一体何をされているんですか、あなたは。神託の件は審議の結果が出るまでお待ちくださいと申し上げたでしょう」

 「だって私は当事者よ」

 「だからといって伴も連れずにひょいひょい出歩くなど、王女として迂闊すぎます」

 「いいじゃない、候補者に会うくらい。そもそもあなたが神官長を候補に挙げたんじゃないの」

 「あの場では他に選びようがなかったでしょう」


 婚姻の申し出を断った挙句に責任転嫁した人に言われたくない。

 私は宰相に向かって、心の裡で盛大にしかめっ面をしてみせた。

 「聖職者なら安全牌だと思ったのに……まったく神官長もいい歳をして何を惑わされているのやら……!」

 宰相は宰相で、何やら憤っている。


 「とにかく、あの男は駄目です。姫様とは年齢が離れ過ぎています」

 「また年齢の話……宰相、あなた、そこにこだわり過ぎだと思うわ。それに、神官長が何歳いくつなのかは知らないけど、私とそう大して違わないんじゃない?」

 呆れて言った私の言葉を聞いて、宰相は片眉を上げた。

 「ちなみに彼は私よりも年長者です」


 え、え――!?


 思わず私は声なき声を上げる。


 何それ、怖い。美形補正? 美形補正なの? 神官長、20代前半にしか見えないわよ!! 時を止める禁断の技でも使っているんじゃないでしょうね!?

 ちょっと自信を無くした。マズイわ、私ってよっぽど人を見る目が無いのかしら。でも為人ひととなりを見極めるのと年齢を読み取るのとは別スキルよね。王女として絶対必要な素質の中に年齢鑑定能力は、た、多分、含まれていないはずだし……。神官長と宰相の二人だけがレアケースなのかもしれない。

 そうよ、むしろここは素直に宰相の老け顔みために驚いておくべきなのだわ。きっと苦労性なのがいけないのね……!


 「……見えないんでしょう、無理しなくていいですよ」

 憮然として宰相が言った。

 フォローする言葉が全く思いつかない。有耶無耶にしてしまおうと、私は誤魔化し笑いを浮かべた。

 「なんにせよ、助かったわ」

 聞きたい事も聞き出せずに神官長の独り語りに巻き込まれていた所だったのだ。だから素直に感謝の意を示したのに、

 「……何から助かったのか本当に分かっていらっしゃるとは思えませんね」

 なんて、また宰相に嫌味を言われる。もう受け流すことにして、私は肩を竦めた。


 「それで、結局神殿まで私を迎えに来た理由は何?」

 横を歩く宰相の顔を見上げて問う。

 いつも着けていた片眼鏡が無いので、宰相は少しだけ若く見えた。でもこれは実年齢を知ったせいなのかもしれない。人の認識とは不確かなものだ。見慣れた無表情の中に記憶の中のユーバートの面影を探してみるけれど、あるといえばあるような、ないといえばないような、あやふやな手応えしかなかった。


 「ああ、そうでした。私は、取り急ぎ姫様を呼びに参ったのです」

 神殿から王宮に繋がる通路を過ぎ、宰相が曲がった先は医務室のある区画だった。

 「ジョアンとの面会許可が下りましたので」


 変なの。侍女を使いに寄越せばいいのに。

 ジョアンって誰だったかしら、と一瞬訝しんでから思い出した。

 黄金の弓矢に選ばれた三人のうちの一人、気絶していた小姓だ。


 「ジョアンと直接お話しされたことはなかったでしょう? 私から見れば、彼が一番、姫様と釣り合いが取れていると思いますよ」


 成程、"お勧め"ってわけね。

 自分以外の候補者を斡旋しようとする宰相の分かりやすい態度に、私は何故かイラッとくる。

 宰相は私の気持ちに気付きもせずに話を続けた。


 「歳は13……まあ姫様より幾分か年下ではありますが、許容範囲内ですよね。南の国の出身で……皆には内緒にしているのでわざわざ私がご案内するのですが……実は彼、れっきとした王子なんです」




 ………………はい?

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