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宰相が着任したのはいつだったか。
十年前には彼はもう、周囲からその役職名で呼ばれていたように思う。
その前――微かな記憶を辿れば、幼い私と今よりも若い彼の姿が、ぼんやりと脳裏に浮かぶ気がする。あの時私は、彼の事を名前で呼んでいなかったかしら。今はもう思い出せない遠い記憶だけど。
神託の儀式で選ばれた私の婚姻相手が、かなり年上の宰相だった―――思ってもみなかった結果を私が受け入れるのに、数分ほど時間が掛かった。
壇上の動きのなさに焦れたのだろう。波のようにざわざわと広がり始めた民衆の囁きに気が付いて、ハッとする。
いけない。ここは私が率先して事実を受け入れ、王女として度量の広さを示すべきところではないの?
「まあ、少し年齢が離れているけど……北の国の王ほどじゃないもの。神託なら仕方ないわ。えっと、よろしくね? 宰相……」
無言で見つめ合っていた宰相の方へ、私は近付いていった。動きは多少ぎこちないかもしれないが、唇には微笑みが一応載せられているはず。
(これも宰相には"引き攣っていますよ姫様"って言われるのかしら)
ほんの少し前のやり取りを思い返すと、微笑むのが少し気楽になる。
私は、許容のしるしに彼へ片手を伸ばした。
けれど宰相は私の手を胸元へと素っ気なく押し返し、頑是ない子供に言い聞かすような口調でこう答えた。
「すみません、姫様。無理です」
そしてそのまま私に背を見せて、お父様へと向き直った。
……あれ?
私、今、もしかして……。
……………………フラレた?
「うむ、宰相。そなた今年、何歳じゃったかのぅ……」
お父様は腕組みをして複雑なお顔で考え込んでいらっしゃる。
宰相はその前で最敬礼に近いレベルで頭を下げた。
「再考慮をお願いします、王よ」
「くどいですよ宰相殿。やり直しはしないと先刻も申し上げたはず」
横から割って入った神官長の非難を受けて、でもあくまでも王への奏上という体で宰相は言葉を続ける。
「やり直しではなく再考慮です。黄金の弓矢の選択した人物が私であると断定するのは、いささか早計かと」
「……それはまた、どういう意味で……?」
剣呑だった神官長が疑問を声に出した。お父様も興味を引かれたご様子だ。
「ほう、そなたの考えを述べてみよ」
王の許可を得て、宰相は姿勢を真っ直ぐに戻した。
「はい。私の見解では三人の人物が該当するのではないかと思われます」
宰相が話し始めようとした時、廊下の方から足音が響き、ようやく宮廷医師が現れた。先導してきた小姓が荷物を持っているにもかかわらず、老齢の医師の息は切れている。結構な高層であるこのバルコニーまで上ってくるのがキツかったのだろう。担架を運んできた騎士達はとうに待機して出番を待っていた。
医師の呼吸が落ち着くのを待って、お父様はいまだ昏倒している少年の診察を依頼された。
医師は少年の脈を計り、瞼を押し上げて眼球を確認する。触診を終えての診断は、特に異常は見受けられないようだが念の為に医師のもとで一昼夜様子を見る、との事だった。
お父様は肯いて、もう一人の小姓に、同僚にしばらくついておくよう指示を出された。
医師は宰相と神官長の診察をもテキパキと済ませ、少年を乗せた担架を運ぶ騎士達や小姓と共に、室内へ戻っていった。
一応の決着がついたところで、お父様が宰相の話を再開させる。
「……そもそも『選ばれた』とする基準が曖昧なのです。どうなったら選ばれたということになるのでしょうか。それは矢に射抜かれた者なのか、最終的に矢を掴んだ者なのか、あるいは人の動きが介在しないならば矢が到達したであろう地点にいた者なのか。その点が明確にされない限り、候補者は唯一人に断定されるべきではありません」
彼は淡々と自論を展開した。
「まず、黄金の矢が狙っていたのは明らかにあちらの少年でしたよね?」
宰相は、担架で運ばれていった方の小姓を指で示す。
「ジョアンか。そうだな」
お父様が相槌をお打ちになった。
「次に、矢が掠めたのは、神官長でした」
「私が……?」
神官長が、医師に貼られた布越しに頬の傷を押さえる。塗布された軟膏のおかげか、出血は止まったようだ。
「最後に。矢を掴んでいたのは不肖、この私ですが――」
自分自身でも信用が置けないという風に、宰相は肩を竦めた。
「これは転倒のゴタゴタで経緯が定かではないので、単に落ちた矢を私が拾っただけの事に過ぎないのかもしれません。というか、十中八九そうではないかと推察されます」
そこまで言うと、宰相は息継ぎをした。長い説明を一気にしていたのだ。
「よって神託の内容を再確認し、黄金の弓矢の選択が誰を指し示すものなのかを詳らかにする必要があるかと」
「成程……」
「一理……ありますかしらね?」
お父様とお母様がいつの間にか寄り添って肯き合われている。
仲良し夫婦の反応に、我が意を得たり、とばかりに宰相は食いついた。
「では、審議に掛けるのでこの件は一旦保留という事でよろしいですか?」
「そうじゃのう」
「ならば王、前庭で待っている民に向かって、是非一言お願い致します。このままでは収まりがつかないでしょうから」
畳み込むような宰相の誘導に乗って、お父様は観衆に語り掛けた。予想外の事態が起こったけれど大事には至らなかった事、神事はつつがなく遂行されたが怪我人が出たために発表は後日に持ち越す事、皆の忍耐強く落ち着いた態度に感謝している事、等を述べ、儀式の終了を宣言された。
「ちょっと待って、宰相!」
儀式の為に集っていた人々が三々五々に解散した後。
私は、政務室に戻ろうとする宰相を、中庭に面する廊下でようやく捕まえた。この人、無駄に足が早いので追い付くのに苦労してしまったわ。
でも、お父様お母様は勿論、他者の耳が無いところで、どうしても宰相に確認しておきたかったのだ。
まったく失礼にも程があるわ。なんで私が婚姻を断られたみたいになっているのよ……!
「いったいどうして無理なのか、きちんと説明して頂戴」
どうやら私だけだったみたいだ。宰相の発言を聞いていて、内容は正しいのに、どうしようもなく漂うあの詭弁臭を感じていたのは……。
私は誤魔化されないんだから。だって、腹が立つ。宰相、明らかに嫌がってたでしょう……!
確か宰相って独身だったわよね。"宰相閣下は仕事が恋人"って、口さがない侍女達が噂していたもの。
王女の婿になれるのに、何が不満だっていうのよ――!?
「ああ……お気に触ったならすみません。別段、姫様に難がおありになる訳ではなくてですね……」
宰相は言い淀んでいる。
かなり不機嫌だった私は、そこである可能性に気がついた。怒りの炎が急速に冷える。
「あ、ごめんなさい。もしかして宰相、好きな人でもいたの?」
侍女達の憶測は間違っていたのかもしれない。
……なら、しょうがないわよね。仮にも夢見る乙女として、恋人同士の仲を裂くわけにはいかないわ。
「いえ、そんな相手は微塵も存在しておりませんが」
じゃあ何故!?
「だって考えるまでもなく無理でしょう。姫様から見られたら私はもういい歳なんでしょうし」
口ではへりくだりながらまったく悪びれない態度が、再び私の癇に障る。
ああでも、これって宰相の通常運転だ。
「それに私の方だって無理です。姫様の事はお小さい時から存じ上げてますし、そういう趣味は私にはありませんので」
「そういう趣味? ……って何?」
「口が滑りました忘れて下さい姫様」
宰相はまじまじと私を見ると、深い溜息をついた。
「いや本当無理……いくらなんでも、自分の半分くらいの歳の相手とは」
「え?」
半分?
私は思わず吹き出した。
「それはさすがにサバを読み過ぎではないの?」
おかしい。生真面目を絵にかいたような宰相でも、冗談なんて言うのね。たまに出る嫌味がせいぜいかと思っていたわ。
淑女らしからぬ笑い声が漏れるのを堪えようとして、涙が滲んでしまう。
「お父様よりは若いんでしょうけど……半分って、ふふふ。それでは三十代になってしまうわよ、宰相?」
「……姫様は私の事をどれだけ年寄りだと思っているんですか」
「え、四十とか……ひょっとしてお父様と同じ五十代だった?」
あら? 気の所為かしら。
なんだか宰相の纏う空気が徐々に黒く重いものになっていってる……?
「そうですか……よく言われるんですよ、年の割に落ち着きがありますねって……。私は当年とって三十歳の、いまだ若輩者なんですが」
え? あれ? あれれ?
「よくもそんな年上だと思い込んでいた男に嫁ぐ気になりますね……まあ姫様にはどうでも良い事でしょうが」
吐き捨てるように言うと、宰相は私を置いて足早に歩き去って行った。
私はしばし呆然と佇む。
中年だと思っていた宰相が、存外に若かった―――それだけの事にこれほどショックを受けている訳ではない。
むしろ私は、唐突に露わにされた宰相の怒りの方に驚いていた。
全然宰相らしくない……いつも穏やかで生真面目な、時折僅かな皮肉を挟むくらいで、基本無表情な彼があれ程に怒るだなんて……。一体何に怒ったの? 歳の話題が鬼門だったのかしら。
でも、何故だろう。あんな風に怒った宰相を、私はいつかどこかで見たことがあるような気がする―――。