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「え? え? 嘘でしょう、これ、私がするの……!?」
王宮の前庭を埋め尽くすように集まった民衆を見下せる高さのバルコニーで。
儀式当日、私は、我ながら情けない声を上げた。
十二の月、十二の日。神託の通りに今日、私の結婚相手が定められようとしている。
時刻は、予告された十二時ちょうどまであと十数分と言ったところか。
今日の天気は神事に相応しい快晴。少しだけ風が肌寒いけど、雨でなくて良かった。悪天候の所為で参加人数が振るわず、前庭が閑散としていたら花嫁として侘しいもの。王女としてのプライドもズタズタになっただろうしね!
私はお父様お母様と並んでバルコニーの手摺りの内側に立ち、観衆に向かってにこやかに片手を振った。
「王様ー」「王妃様ー」「姫様ー」「シルヴィアナ姫ー」「中の国バンザーイ」
歓声が聞こえる。今日も我が王家の人気は衰えていないようで何よりだわ。お父様は善政君主で有名だから。
あら、なかには「姫様ー、俺を選んで下さい」と叫ぶ強者の声もする。人が多過ぎて特定は出来ないけど。ごめんなさい、選ぶのは私ではなく黄金の弓矢なのよ……。
神託の儀式に王女本人(私だ)も賛成しているのだと内外に示すために、意識して私は微笑んだ。気が進まぬそぶりなど、国民には欠片も見せてはいけない。
「笑顔が引き攣っていますよ。……大盛況でよろしかったですね、姫様」
宰相が後ろから声を掛けてくる。
「そうね、ありがとう。素直に嬉しいわ……まあ、このうちの半分以上は興味本位なのだろうけど」
私は振り向きもせずに答えた。お父様お母様と同じく、目線は前庭に向け、微笑を保ったままだ。
宰相の嫌味は気にしない。顔が引き攣っていても遠目には分からないはずだもの、うん、多分。
「分かっておられるなら結構です。内訳は貴族2割、平民8割といったところでしょうか。他国民も混じっているようですが、身元確認は入城の折済ませておりますので、ご安心を」
怪しげな人物は丁重に参加をお断りしたという事なのだろう。嫌味を言っても仕事は丁寧。さすが長年仕えてくれているだけのことはある。
「分かったわ」
私達王族三人の背後に控えるのは、宰相と王の小姓二名だ。バルコニーに繋がる廊下の隅には、目立たないように警護役の騎士も数人配置されているけど、これは念の為。うちは平和な国だから。
神官長は私達より手摺りに近い位置に立っている。彼が今日の儀式の進行役を務めるのだ。
「皆さん、ようこそお集まり下さいました。静粛に。まもなく神託の儀式を執り行います」
張りのある声を上げて歓声を静めると、神官長は前庭に集まった人々へ語り掛けた。
「良いですか。矢に選ばれた人物こそ、シルヴィアナ姫様の伴侶となる栄光を与えられた唯一人の方なのです。これは神事。ここに居る皆が証人です。どのような人物が選ばれようとも、どなたも異議を唱えられる事などゆめゆめありませんように」
観衆は、水を打ったように静まり返った。
さすが神官長。人心を捉える説法は手慣れたものだ。
そこで神官長から私へと、意外にずっしりとした重量感のあるものが手渡された。
「え?」
一国の王女としてどうなの? と思うような間の抜けた声が、私の唇から零れてしまう。
―――そう、それこそが陽光に燦然と輝く、黄金の弓矢だったのだ。
「私が矢を射るってこと? まさかそんな、出来ないわ……!」
驚愕の事実に、私が思わず泣き言を漏らしてしまっても無理はないと思うの。
「説明しておりませんでしたか? その為に姫様には入念に禊をして頂いたはずですが」
戸惑う私に神官長が怪訝そうな表情を見せる。
ええ、確かに私は昨日から精進潔斎に入っていたわ。食事は果物と水だけ、凍えるように冷たい清流でこの身を清め、神殿の一室で一晩お祈りをして。神託の乙女に相応しく、これ以上ないくらい清らかに過ごしたのだ。
でも、本番で黄金弓の射手まで務めないといけないなんて聞いてない。肝心な事説明されてないわよ、神官長!
私はただその場に立ち会えばいいのだとばかり、呑気に思っていたのに……!
狼狽えて周囲の人々を見回しても、皆、当然のような顔をしてこちらを見ている。
え、決定事項? 決定事項なの、これ? 知らなかったのって私だけ……!?
「待って待って、私、弓なんて一回も引いた事ないのよ……!」
これでも私は深窓の王女なのだ。箱入りも箱入り、生まれてこのかた、武器と名のつくものに触れた事すらない。
辛うじて危険と分類される道具で私が満足に使いこなせる物なんて、食事の時のナイフとフォークくらいよ……!
「大丈夫です姫様。これは畏れ多くも女神シルヴィア=ナディラが愛用されていた弓矢。紛う事なく女性用です」
満面の笑みで神官長が保証した。
いや、神様と一緒にされても!
というか一般女性であっても、弓の心得がある人と無い人とでは技量に雲泥の差があると思うのだけど、そこは言及しないの?
美形だからって微笑めば誤魔化されると思ってない?
最初から私が弓を引くと決まっていたのなら、禊よりも行射の練習でもさせて欲しかったわよ、神官長……!
「良いではないの、シルヴィアナ。あなたの婿選びですもの、自分でやった方が納得できるでしょう」
お母様が思い遣り深いようで丸投げな発言をなさり、
「なに、簡単な事じゃ、シルヴィアナ。矢をつがえて弦を放つ。それだけだ。今回は的を狙う必要も無いぞ。気楽に気楽に」
お父様は的確なようでいて微妙に的外れなアドバイスをくださった。
「観衆が皆、期待して見ていますよ」
神官長が笑顔で私のプレッシャーを煽り、
「大丈夫です姫様、どれほどへなちょこな射でも笑いません」
そして、無表情な宰相が私を追い込む。
し、四面楚歌……!
小声だったせいか、バルコニー上のやり取りは観客までは届いていなかった様子で、城内は未だ緊張感のある静寂に包まれていた。前庭に集った大勢の人々が、今か今かと固唾を飲んでこちらを見上げているのが分かる。
とても後に引けるような気配じゃないわね、これ……!!
「姫様、お時間です」
宰相が懐中時計を片手に最後通牒を突きつけた。
「もう! 分かりました……!」
こうなったら見様見真似でやるしかない。
否応なしに持たされた黄金の弓矢を、私はじっくりと眺めた。ピンと張った弦の長さは一メートルくらいだろうか。優美に湾曲した弓身には矢をあてがうために窪みがついている。微細な紋様が刻み込まれていてとても美しいけれど、黄金で出来ている事以外は至って普通のショートボウだ。一本だけ渡された矢も、矢羽までが金色に輝いてはいても、形は多分普通の矢と同じ。
私は決死の覚悟で一歩前に出た。
まず深呼吸を一つして、両足を肩幅に開く。次に震える手で黄金弓に黄金の矢をつがえ、肩の高さに持ち上げてみる。
う、重い。
「姫様、持ち手は弓の中央に。人差し指、中指、薬指の三本指で弦を引いて、中天を狙ってください」
神官長の指示通りに左手の位置を持ち替えて、狙いを水平ではなく少しだけ上の角度へ向ける。遠くまで飛ぶようにとの意図なのだろうけど、駄目だわ、重くてこれが限界。もう腕がプルプルしてきた。
その時、十二時の鐘が鳴った。
ええい、ままよ。
あえて狙いを定めないように目を瞑る。私は弦を引き絞り、思い切りよく空に向けて黄金の矢を放った。
びゅう、と向かい風が吹く。
初心者の私が射たせいで、もともと勢いが足りなかったのだろう。前庭に向けて放たれたはずの矢は、中天で突風に煽られてその軌道を変え、そして……。
あろうことか、私達の居るバルコニーに向けて垂直に落下してきた。
前庭の民衆にどよめきが走った。
黄金の矢自体の重さと重力加速度で勢いがつく。唸りを上げながら落ちてくる黄金の鏃が狙う先には、お父様の小姓の一人がいた。予想外の事態に、凍りついたように立ち竦んでいるようだ。
「危ない!」
咄嗟に少年を庇おうとその身を挺したのは、近くに居た大人。神官長と宰相の二人だった。
矢が突き刺さらんとする寸前、三人が縺れあうように倒れ込み、私は息を飲む。お母様が悲鳴を上げた。
「皆、そのままじゃ!」
お父様が動揺する観客を制し、つかつかと三人の方へ歩み寄った。弾かれたように警護の騎士達も駆け寄る。
「担架と医師を」
お父様の指示に、無事だった方の小姓と、騎士数名が室内に向かって走って行った。
「シルヴィアナ」
お母様は蒼褪めたお顔ながらも、私に寄り添って肩を抱いてくださった。それで私は自分が震えていた事を知る。
私の射た矢の所為で、もしも誰かが酷い怪我をしていたらどうしよう……!
私の心臓は不安でバクバクと鳴っていた。
お父様が倒れ込んだ三人の前に屈んで、お声を掛けられた。
「三人とも、息災か?」
「……はい」
イタタ、と頭を左右に振りながら、片手をついて宰相が起き上がった。
「私は打ち身だけですが……」
愛用の片眼鏡に亀裂が入っている事に気がつき、顰め面で眼窩から取り外す。それから宰相は、自分が下敷きにしてしまった少年の様子に気がついた。
「どうやら、この子は気を失っているようです」
「外傷は無いようだな。では医師が参るまで動かすな。神官長の方はどうじゃ。怪我を負ったようだが」
宰相に続き、無言で身を起こした神官長から点々と滴り落ちる鮮血を見て、お父様が眉根を顰められる。髪に隠れて神官長の負傷の程度が判別できないのだ。
「……御心配には及びません。かすり傷ですゆえ」
顔を上げた神官長の頬には、一本の線のように矢傷が刻み込まれていた。痛みがあるのだろうか、端正な美貌を苦々しく歪めている。
ああ、でも、目に見える怪我はそれだけのようだ。三人とも、大怪我は負っていないみたい。良かった……!
私とお母様はホッと息を吐いた。
しかし神官長は淡々と言葉を続ける。
「それより我が王よ、黄金の矢は姫様の運命の相手を選んだようです」
「は? こんな時に何を言って……」
不信感も露わに神官長に問い掛けようとした宰相が、目線を自身の下におろす。バルコニーの床に付いていた方の彼の手は、拳の形だ。黄金の矢の箆ごと、固く握り込まれていた。宰相は大きく目を見開いた。
まあ、人の顔から血の気が引く瞬間って初めて見た。面白いくらい一気に青くなるのね。
「…………!」
慌てて宰相が黄金の矢を投げ捨てる。カランカランと、矢がバルコニーの床を転がる音がした。
「丁寧に扱って下さい、神具なんですから」
咎める神官長の言葉を気にもせず、先刻まで痛みに呻いていた人とは思えない俊敏さで立ち上がった宰相は、必死の形相でお父様に縋り付いた。
「無効! 無効ですよね、王!! いくら何でもこれは有り得ません。神事のやり直しを要求します!」
「やり直し、のぅ……」
お父様は顎に手を当てられてのんびりとおっしゃる。
私もそうだけど、酷い怪我人はいないようで安堵されたのね。医師に小姓の容体を確認してもらわないとならないけど、ひとまずは良かったわ……!
「やり直しなど行いませんよ、宰相殿。最初に宣言したでしょう。神事の結果についての異議は、たとえ本人であろうと認めません」
黄金の矢を拾い上げた神官長は、宰相にひどく辛辣な視線を向けた。神具を粗雑に扱われて怒っているのかしら。
「照れておいでなのですか? 素晴らしい幸運に見舞われたのだから、もっと喜ばれたらいかがです。宰相殿、あなたはめでたく姫様の伴侶として選ばれたのですよ」
あ――――……。
神官長の言葉に、私と宰相は長い間見つめ合った。