歪んだ願い
──今夜も、あの人が来る。
少々足を速めた馬車の、騒がしい音がだんだん近づいてくる。しばらくすると音は止まり、しんとした静けさに包まれる。サクサクと土を踏む音がやけに大きく響き、正面の窓がコンコンと優しく叩かれる。
ソファに身を深く沈めていた少女は、気だるげにゆっくりと立ち上がる。布張りのソファは、耳障りに甲高く軋む。長くやわらかな、やや癖のある髪がゆらりと揺れた。
耳飾りだろうか。何かが、シャラシャラと涼しげな音を立てた。ゆるやかに広がったドレスの裾が、絨毯に薄く積もった埃を静かになでる。ふわっと舞い上がったそれらは、ゆるゆると踊り、ふわふわ落ちていく。
室内はひどく暗い。汚れですっかりくすんだ窓の向こうにも、どこまでも濃い闇が広がっている。
明かり一つ、映りはしない。
「ロザリア」
外から、穏やかで優しい、低めの声が呼びかける。端々から愛情があふれ出ている、やわらかな声音だ。
けれど、少女はそっと顔を伏せ、ひと言の返事もしない。キュッと、唇を固く引き結んでいる。
ガラスに、くすんだ肌色がペタリとつけられた。形からすると、右の手のひらか。
「ロザリア、愛しているよ」
窓枠の下で、組まれていた少女の指がピクッとわずかに動いた。だが、顔を上げることも、声を出すこともない。
ただ黙って、窓のそばに立っているだけ。
「ねえ、ロザリア。君が僕のところへ来てくれるなら……たとえば、カナヴィス王国で満月の夜にだけ咲く、美しい愛の花。ナーダー国で採れる、キラキラ輝く金の石に、フーリ王国の国宝。どんなものでも、必ず手に入れて持ってくるよ」
頷くことも、首を横に振ることもなく。少女は無言で、立ち尽くし続ける。
同じ場所に、同じ格好の人形を立たせても、恐らく誰にも気づかれないだろう。そのくらい、彼女は身じろぎしなかった。
「お願いだよ、ロザリア。せめて、声だけでも聞かせて」
懸命にすがって囁く声が、まったく聞こえない風で。彼女はひたすら立っている。
汚れきった窓からは、たとえ明るくとも、彼女のはっきりした姿は見えないだろう。ぼんやりと、輪郭がわかれば御の字といったところか。
月明かりもない夜だから、きっと、外からはほとんどうかがい知れない。
それでも彼は、辺りがうっすら明るくなるまで、ずっと声をかけ続けていた。
馬車の音が徐々に遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。そこでようやく、ロザリアはふうっと息を吐き出す。
フラフラと窓から離れ、ヨロヨロと歩き、ソファにぐったりと身を預けた。強く背もたれをつかむ指は、血の気がすっかり失せている。顔色も、痛々しいほどに青白い。
「やっと、帰ってくれたわ……」
本当は、声も聞きたくない。窓に張りついた手も、見たくない。けれど、ああして窓に寄らなければ、どこかの窓かドアを破って侵入されてしまう。
壊したのが彼であっても、直すのはロザリアだ。割れたガラスを片づける程度は、女手一つでもできる。だが、窓枠に薄い板を打ちつけることは、満足にできはしない。それがドアならなおさらだ。もちろん、助けてくれる人などいない。
修繕の苦労は元より、逃げ場のない室内で対峙する。そんな恐ろしい目に遭うくらいなら。窓一枚隔てて顔を合わせる方が、まだどうにか許容できる。
「本当に、毎晩毎晩、ご苦労なことね」
父が、兄が、戦死した。その知らせを受け取ると同時に、フォスキーア王国は消え去ってしまった。当時の婚約者も、あれから手紙一つ寄越さないままだ。もっとも、あちらの気持ちは理解できる。巻き込むわけにもいかないし、接触は一切していない。
原因は分かりきっている。これ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
疲れ果てた顔で、重い息を吐き出した。静かに淡く差し込んできた朝日が、ロザリアをそっと、優しく照らす。
ところどころ絡まった、白金色のゆるやかな巻き髪。わずかに伏せられた目は、薄い紫色が覗いている。化粧気がないのに、唇は薔薇色でみずみずしく艶やかだ。今はやつれ、顔色は何となく悪いままだが、肌は抜けるように白い。
色あせたオレンジ色の質素なドレスは、あちこちから糸が飛び出している。裾は完全に擦り切れ、ほつれ具合が大きい。胸元や腰の花飾りは、ちぎり取れてしまったのか。先の毛羽だった糸が、そこかしこから何本も生えている。長い髪の隙間から見える背中は、ボタンがいくつか留まっていなかった。
彼女が体を任せているソファは古ぼけて、すっかりくたびれた風合いだ。色も、元はもっと鮮やかだっただろう、あせた深紅。
それでもなお、彼女の楚々とした美貌は、何一つ損なわれることはない。むしろ、気だるげな彼女の様相が、不思議ななまめかしささえ加えている。
しばらくソファにもたれていたロザリアだが、不意に顔を上げた。腕を突っ張り、フラフラと体を起こす。
「……あれを、片づけないと」
はあっと息を吐き出し、おぼつかない足取りで部屋を出る。
ソファ同様、ドアも開け閉めするたびにキイキイと鳴った。建物自体は、堅牢な石造りのようだ。おかげで、廊下や壁は一部が欠けてはいるものの、まだかろうじて形を保っている。
コツコツと靴音を響かせ、ロザリアは歩く。やがて彼女は厨房へ入り、外に出た。
夜明けの日射しが、目に痛い。
思わず目を細め、手で影を作った。そのまま、顔を何となく持ち上げる。赤みの強い黄から濃紺へと、空は複雑な美しい色合いで染まっていく。夜空と言える範囲には、ちらほらと星も輝いている。
フォスキーア王国がなくなり、グラナート王国フォスキーア地方となった。あの日からずっと、夜起きて昼眠る生活が続いている。
朝露でしっとり湿った地面を踏みしめ、ロザリアは壁伝いに足を進める。そのうち、壁際に何か置かれているのを見つけた。ちょうど、彼が訪れていた窓の下だ。
「……本当に、毎日毎日、ご苦労なことね」
ロザリアの口から、深く重いため息がこぼれ落ちる。
昼夜逆転の生活が始まってから。夜ごと訪れる彼は、欠かさず置き土産を残していく。年頃の娘一人が、一日満足に食べられる量の食料だ。
母が健在だった頃は、二人分だった。けれど、父と兄を一度に亡くし、何もかも失い、母はふさぎ込む一方で。気がつくと、母は日がな一日、ベッドの中で漫然と過ごすようになっていた。
『ロザリア、忘れないで……』
慣れない手つきで、身の回りの世話をするたびに、ひっそりと囁かれた言葉。
母をも失った日から一年以上が過ぎたが、今でも忘れることはできない。
薄汚れた白色の布袋を、気合いを入れて持ち上げようとした瞬間。昇ってきた太陽に照らされ、キラリと光る何かにロザリアは目を向けた。
布袋の上にむき出しで置かれた、小さくて濁った赤い宝石のついた耳飾りだ。彼女はそっとつまんで、怪訝な顔で持ち上げる。金具から垂れ下がった何本もの細い銀色の鎖が、シャラシャラと楽しげに笑う。
(確か、あの方の国では……)
求婚する際、同じ宝石をつけた耳飾りと首飾りをそろえて相手に贈る、と聞いている。辺りを見回してみたが、首飾りは見当たらない。だが、これがあるということは、いずれ持ってくるのだろう。
折しも、今日は九月二十六日だ。
「……明日、きっと」
ひっそり呟く。
耳飾りを左手でギュッと握り。右手で布袋を引きずり。おぼつかない足取りのロザリアは、フラフラと来た道を戻っていった。
§
食事を取ってからぐっすり眠り、起きたら夜に備えて食事をする。その繰り返しで、月日だけが過ぎていく。
今夜もまた、彼は来るだろう。馬車で片道三時間ほどかかるというのに、これまで一日も欠かしたことがないのだから。
かつて談笑の間と呼ばれていた、それほど広くない部屋へ足を踏み入れる。彼が訪れるのは、この部屋の窓だ。まだ母が存命だった頃、そう取り決めた。以来、ずっと守られている。
広い広い住居の掃除は、一人ではとても追いつかない。寝室とこの部屋は、出入りするから比較的まともだ。けれど、他の部屋は誰が見てもわかる程度に、しっかりと埃が積もっている。ドアを開けるとふわっと何かが舞い上がるため、今では入る気にもなれない。
黄色がかった不思議なオレンジから、鮮やかな赤へ。東の空から青が濃くなり、やがて一面の闇に包まれる。ソファに座って変わりゆく景色を眺めながらの食事も、すっかり慣れてしまった。
蝋燭がないから、燭台に明かりを灯すこともできない。だから、日が落ちると家の中は真っ暗だ。それでも、しばらく闇を見据えていれば、じきに目が慣れる。決して自由ではないが、不自由しない。そのくらいには、動き回れるようになる。
息を殺し、ロザリアは来訪者を待った。
遠くから車輪の軋む音がする。荒れ果てた道を疾走する馬車の、ガタガタと揺れる音がかすかに響く。
門のある方角から、大きめの馬車が入れるギリギリのところ。そこで音が止まった。いつもの場所だ。
地面を踏む、確かな足音。気が急いているのか、ずいぶんと足早だ。
「ロザリア!」
呼ぶ声音は、昨日よりはるかに弾んでいる。
ため息をつき、やおら立ち上がったロザリアは、昨夜同様、そっと窓に近寄った。
「……耳飾り、受け取ってくれたんだね!」
知らず知らず、息を詰める。静かに吐き出したつもりだが、やけに大きく聞こえた。ドクドクと鳴る鼓動も、頭と耳の中でガンガン反響している。
「今日は、首飾りを持ってきたよ」
心から嬉しそうな、浮かれきった声だ。ロザリアはできるだけ音を立てずに、数回深呼吸をする。
初めて求婚に来た日には、翡翠の耳飾りと首飾りを持ってきたらしい。そちらはその際に辞退している。今回は、どんより濁った赤い宝石だ。
それらに、いったいどんな意味があるのか。
フォスキーア王国に、宝石に意味を込める習慣はない。その上、彼の国の文化に明るくないロザリアには、よくわからなかった。
だからといって、今さら知りたいとも思わない。
「きっと、君によく似合うと思うんだ」
グラナート王国の一地方となってから、彼とはまともに顔を合わせていなかった。
あの頃の彼は、やんちゃな少年らしさを、そこかしこに残していた。一年少々あれば、互いに、ずいぶん様変わりしていることだろう。
彼の変わり様を、この目で見てみたい。けれど、擦り切れてボロボロになったドレスしか持たない自身の変化は、一瞬たりとも見られたくない。
複雑に渦を巻く感情は、ロザリアにそっとため息をつかせる。
「最後に会った君は、本当に綺麗だった。今は、もっと綺麗になっているのかな?」
何の反応もないのに。ただただ囁き続けることが、ひどく空しくならないのだろうか。そんな疑問を持った時もある。
景色や気候の変化で、初めて季節の移り変わりを知る。大切なものは、何一つ残っていない。
そんな生活が続き、やがて、ロザリアに一つの決心をさせた。
「明日は、ぜひとも両方身につけて……顔を見せて欲しい。声も、聞けたらいいな、と思っているよ」
その後も、彼は明日を心待ちにする言葉ばかりを呟いていた。そして、今まで以上に、名残惜しげに帰っていく。
(……いよいよ、明日……)
明るくなるのを待って、彼の望むとおりにしてあげよう。
§
初めて顔を合わせた時のことは、何も覚えていない。思い出せるのは、すでに縁談がまとまっていると知りながら、何度も通ってくるようになって以降のことばかり。
もちろん、婚約者と会っている時は、言伝だけ残して帰っていた。たまたま時間のある時に、彼とほんの少し言葉を交わす。そんな日々が、半年ほど。婚約者と過ごすより、彼と語り合う時間がはるかに楽しい。
そうなってしまうまで、大して時間はかからなかった。
『君ほど美しい人は、今まで見たことがないよ。だから僕は、父上を説得して君に求婚に来たんだけど……ちょっと、遅かったみたいだね』
『そうね。一度決まった結婚を覆すのは、どんなに大きな国の王様でも、きっとできないくらい難しいことだもの』
『方法があるなら、死を覚悟するほどの苦難に満ちていても……僕は絶対にやり遂げてみせるよ』
苦しいほど、痛いほど、真摯な眼差し。息が詰まって、視界がぼやける。
十四も半ばでさっさと婚約を決めてしまったことを、少しずつ後悔するようになった。婚約者に、ずいぶんと失礼な態度を取ったこともある。何でも笑って許してくれた婚約者の胸の内は、今でもわからない。ほんの少しだけ、聞いてみたい気はする。
元々、彼は身分が高い人だ。我が家に来る馬車も、彼に相応しく、六人は乗れる大きさがあった。当然、内装も目を見張るほどの豪華さだ。
どう頑張っても、釣り合わない。
だから、息苦しいほどに胸をジリジリと焦がす想いは、ギュッと閉じ込めたまま嫁ぐつもりでいた。
十六になったら、婚約者の国へ嫁ぐ。その事実を告げ、彼の足を何とか遠ざけようとした。それでも彼は、なぜかかえって足繁く通ってくる。
まるで、秘めた想いをきっぱり捨て去ることなどさせない、と言うように。
あまりに頻繁に訪問され、当然だが、両親も婚約者も、彼にはいい顔をしなくなった。やがて、婚約者がいなくても三回に一回追い返していたのが、二回に一回、三回に二回と増えていき──戦争が起きた。グラナート王国が突然、フォスキーア王国へ攻め込んできたのだ。
父と兄は騎士たちを従え、国を守るために戦った。そして、戻って来なかった。
『ロザリア』
今年は豊作だと、みんなが喜んでいた畑。野原に咲き乱れていた、小さく可憐な花。それらが残らず燃え、くすぶって立ち上る煙と匂いの中で。
彼は、変わらず笑っていた。
あの時、自分は泣いたのか。はたまた笑ったのか。ロザリアはまったく覚えていない。何を言ったのかも、一切思い出せない。
『これでようやく、君に堂々と結婚を申し込めるね』
まさに満面の笑みで言い放った彼だけを、鮮明に覚えている。
初めて、彼に対する恋情以外の感情が、体の奥底から湧き上がった。手も足もみっともないくらいに震えて、歯の根が合わない。
しばらく記憶はない。はっきり、明確に思い出せるのは、彼が夜ごと訪ねてくるようになってから。
『ねえ、ロザリア。ここはもう、グラナート王国のフォスキーア地方になったんだよ。今の君は、そう……フォスキーア地方の元領主の娘、というところかな?』
無残な亡骸となった父と兄の葬儀を、ようやく終えた日のことだ。
彼の言葉は、嫌でも現実を知らしめてくれた。だからこそ心は、怯えながらも恋心にひたすらすがる醜態を、誰彼かまわずさらさずに済んだのだろう。
けれど同時に、決して知りたくはなかった感情も教えてくれた。
相変わらず置き去りにされていた食料と、首飾りは回収してある。食事も終えた。あとはぐっすり眠って、夜に備えるだけだ。
「……これで、やっと終わるのね」
静かに、ベッドへ潜り込む。
リネンを合わせて縫い、中に綿を入れただけの薄い布団。リネンはいつの間にか擦れ、中の綿が透けて見えている。それでも、ないよりはずっといい。
そろそろと目を閉じた。
「どのドレスがいいかしら……ああ、そうだわ。あの日着ていた……」
考え、呟く合間に、睡魔が襲ってくる。
バラバラに散らかっていく思考を、かき集めることもなく。ロザリアは、心地よい眠りに身を任せた。
§
また、夕方が訪れた。ほのかに差し込む夕日に照らされた、濃いオレンジ色の部屋。ここで食べる最後の食事を、ロザリアはいつもよりずいぶんのんびりと食べる。
このくたびれて古ぼけた深紅のソファには、もう二度と座ることはない。かつては賑やかだったこの部屋を、じっくり見回すこともないだろう。
「さようなら、私の思い出たち」
連れていこうと思うほど、思い入れのある物はもう残っていない。とっくに、誰かが持ち去ってしまった後だ。
戦後の混乱の中、誰かの命を長らえさせたのならば。それはそれで、父も兄も救われると信じている。
そう信じなければ、とても生きてこられなかった。
「さようなら……私のすべて」
囁いて、ソファをそっとなでる。
両親と兄が健在だった頃は、やわらかくてしっとりしていた。今は、いくらか毛羽だって埃っぽい。表面はガサガサして、ザラザラとした不快な手触りだ。
今日のロザリアのドレスは、夕焼けに照らされて青みの強い紫に見える。花飾りやレースはほぼ完全な形で残っており、見たところ新品同然だ。薄くだが、化粧も施した。やわらかな髪は、丁寧にまとめ上げられている。むき出しの耳には、赤い宝石と細い鎖の耳飾りが、頼りなく揺れていた。ほっそりした白い首元には、傾いた日射しにキラリと光る首飾り。
一辺は、ちょうどロザリアの小指ほどの長さか。菱形の土台に、赤いバラの花が三つ、咲き誇っていた。左右と下の角からは、涙のような小さな赤い宝石のついた鎖が、所在なげにゆらゆらと揺れる。
今夜もまた、馬車の音が近づいてきた。すぐ近くで止まって、誰かが歩いてくる音が聞こえる。
唇を強く引き結んだロザリアは、ゆっくり立ち上がった。足音を立てないよう慎重に、静々と、いつもの窓へ向かう。
「ロザリア!」
弾んだ声の呼びかけに、ロザリアはやはり答えなかった。窓の脇にジッと立ち、黙っている。
「ねえ、ロザリア。そこにいるんでしょ? 今すぐ出てきて、あの耳飾りと首飾りをつけた姿を、僕に見せてよ。必要なら、明かりも持ってきてるから言ってね」
それでもなお、ロザリアは沈黙を貫いた。
声をかけ、顔を見せる時機は、とっくに決めてある。それまでは、計画が大きく狂わない限り、返事をすることもない。
(夜明けが来たら、やっと、すべてが終わるのね……)
これほど朝の訪れが待ち遠しい日は、今までになかった。体の奥底から、奇妙な高揚感が、後から後から湧き出てくる。
緊張なのか、期待なのか。もはや、自分が抱く感情もはっきりしない。
「ロザリア……声くらい、聞かせて?」
さっきまで喜びにあふれていた声音は、不安に甘えをほどよく混ぜてきた。まるで、雨に濡れて震える、生まれたての子犬のようだ。
そっと目を閉じ、ロザリアは細く長く息を吐き出す。
「……ねえ、ロザリア。今日がどんな日か、君はわかってる?」
思わず頷きかけて、思いとどまる。
彼と自分と。同じ日に対して、抱く思いはまったく違う。そしてきっと、彼は彼自身のことしか頭にないだろう。
(早く、夜が明けて……)
何もかも、綺麗さっぱり打ち明けてしまいたい。
そうして黙りこくったまま、待ち望んでいた夜明けが訪れた。
諦めて帰っていこうとする彼に、ロザリアはただひと言。
「待って」
はっきりとした声で投げかけた。とたんに、遠ざかり始めていた足音はぴたりと止まる。
彼が留まった気配を感じ、急いでロザリアは部屋を飛び出した。厨房から出るより、少し離れた広間の窓は、彼の近くに行きやすい。
埃が積もって白っぽくなった、広間の床を駆け抜ける。起きた風で舞い上がった埃を吸わないよう、一気に。
気が急いていたのか。鍵のかかった大きな窓を開けるのに、いくらか手間取る。何度か試しているうちに、カチャと小さな音がした。
開け放した窓から外へ。そこから、談笑の間がある方角は左だ。そして、彼が馬車を止めるのは、ここから右へ少し行ったところ。もちろん、迷うことなく左へ向かう。
「……エックハルト・ローデリヒ・グラナート様!」
薄明るくなった中にたたずむ、一人の男性。彼が視界に入ったとたん、ロザリアの口からこぼれ落ちていた。公式書類に記す、彼の署名だ。
金茶色の、癖のないサラサラした髪も。湖のような青い瞳も。どことなくあどけなさの残る、端正な顔立ちも。
記憶にある姿と、あまり変わっていない。ただ、ほんの少し、大人びた印象だ。
「ロザリア……ああ、つけてくれたんだね。よく似合ってる。とても、綺麗だよ」
耳飾りと首飾りへ。順々に視線を落として、彼はこの上なく幸せそうに微笑む。あまりに嬉しそうな彼に、ロザリアも知らず知らず笑みを浮かべていた。
「エックハルト様。今日がどんな日か、おわかりですか?」
「もちろん! 君が十七になる、ひと月前でしょ?」
夜の間に聞いた問いを、ぶつけ返してみる。何の迷いもなく、想像していたとおりの答えが戻ってきた。
「ありがとうございます。おかげで私、何の迷いも未練も残さず、母が亡くなってからずっと考えていたことを実行に移せます」
興奮で頬を上気させていた彼が、初めて怪訝な表情を見せる。
でも、もう遅い。何もかもが、遅すぎたのだ。
「今日は確かに、私の十七の誕生日の、ちょうどひと月前です。あなたはお忘れのようですが、父と兄がグラナート王国に殺されたのも。病の床で母が恨みを込めて亡くなったのも。私の誕生日も。月は違えど、同じ二十八日なんですよ」
他人の顔から、ザッと音を立てて血の気が引く。そんな様を、感情の宿らないロザリアの瞳は、ただひたすら見つめ続ける。
「私にとって、二十八日は、誕生日と同じ日だけじゃないんです。父と兄と母の、月命日でもあるのですから」
ニッコリと、嫣然と。微笑んだロザリアは、ドレスを両手でしっかりと持ち上げる。裸足の素足をさらし、突然駆け出した。
彼女の向かう先には、誰も管理しなくなった大きな池。
子供の頃、うっかり落ちた時には足がつかなかった。背が高く、たくましかった父でも、底に足がつかないと言っていた。
追いつかれないよう、全力で駆ける。
胸が、息が、熱くて苦しい。
勢いを一切殺さないまま。ロザリアは、藻がはびこる池へ、目を閉じて躊躇いなく飛び込んだ。
大小様々な水しぶきがいくつも上がり、朝日を受けてキラキラと輝く。
藻で濁った水は、濃い青色のドレスをあっさり飲み込んだ。白金色の髪が、上から覗くとかろうじて見えるだろうか。いや、目視できるほど、水は澄んでいないはずだ。
息を吐くたびに、体の中へ水が入ってくる。苦しくて必死にもがいても、腕に藻が絡まるだけ。まぶた越しにほんのり見えていた光は、次第に遠ざかっていく。
光を受け取れなくなったまぶたの裏に、父に抱かれた自分が映る。兄とケンカし、大泣きして、それでもやっぱり大好きで。後ろをくっついて歩く、小さな自分。母に習って、ハンカチに刺繍をする。そのハンカチは、確か兄にあげたものだ。
いくつもいくつも、懐かしい思い出がよみがえる。
一人になってからのことを見せられた後、父と母と、兄が笑顔で立っていた。幼い子供に戻って、家族に笑みを向けて手を振った。
エックハルト・ローデリヒ・グラナート。あなたはフォスキーア王国の、父の、母の、兄の──そして私の、仇。