第1話
風で優しく身体を支えられながら動いて、いつものようにディドさんの尻尾に座っておなかにもたれさせてもらうと、また水の入ったコップを渡された。
私がいつ目覚めても新鮮な水を飲めるように、ディドさんが城の敷地内のめだたない場所にある井戸から風で汲みあげて毎日朝晩に水瓶の水を入れ替えてくれてたそうだ。
コップを両手で包むように持って少しずつ飲みながら、私が眠っている間に起きたことを、ディドさんに改めて教えてもらった。
ディドさんが、眠る私を守るために、竜舎全体を覆う風の膜を何重にも張ったうえに、外から見えなくしたこと。
ティアス一行が、ディドさんに王城から追い出され、さらに王太子配下の近衛騎士に王都から追い出されたこと。
王太子が、ティアス一行を手引きした貴族たちを捕らえて厳罰をくだしたこと。
ウィルさんが、一日に何度もやって来て、謝罪と共に出てきてほしいと懇願してくるけど、無視していること。
ウィルさんと王太子が、酒を飲みながら歴代国王への愚痴を言いあっていたこと。
だいたいは予想通りだったけど、ふと気になったことがあった。
「ねえディドさん。
巡視がなくなって、キィロが拗ねてない?」
リーツァ王国とドラゴンの契約は、簡単に言えば『果物や寝床を提供するなら、国の防衛を手伝う』ということだ。
竜騎士を乗せて国内外を見て回る巡視は、防衛のための大切な任務で、毎日行われていた。
けれど、リーツァ王国側が先に『よけいな人間を近づけない』という約束を守らず、ティアス一行の接触を止めなかった。
ウィルさんは、『ティアス一行が裏工作をしたせいで止められなかった。国賓待遇だから行動を制限できなかった』とか言い訳していたらしいけど、ティアス一行が国王の執務室に直談判しに押しかけた時は近衛騎士が拒絶して追い返したらしいから、結局は本気で約束を守る気がなかったということだ。
だから、ドラゴン側も約束を守る必要はなくなった。
当然巡視も行ってないだろうけど、なんだかんだ言って巡視や竜騎士との関わりを楽しんでいたキィロは、拗ねていないだろうか。
ディドさんが私たちの周りに張った風の膜が強固すぎて、膜の外の様子はまったくわからないけど、キィロの仕切りのほうを見ながら言うと、ディドさんが同じようにそちらを見てから、私をふりむく。
【ああ、それはまだ話してなかったな。
今ここにいるのは、俺とおまえだけだ。
他のやつらは、皆出ていった】
「えっ、どうして?」
驚いて見上げると、ディドさんは苦い表情をしていた。
【おまえが眠った後で、何があったのか他のやつらに話したら、フィアが心配しちまったんだ。
『今度何かあったら全員で出ていくとはっきり言っておいたにも関わらず、ティアス一行を止めなかったなら、そもそも約束を守る気がないんじゃないか。だとしたら、そのうち幼生を奪いに来るんじゃないか』ってな】
「ああ……そうだね、確かに」
今のところ幼生の存在を知っているのはウィルさんだけで、誰にも言わないと約束したけれど、私たちが出ていくとなったら、その約束を守る意味はあまりない。
ドラゴンが大好きなウィルさんだからこそ、そしてこの国の維持にドラゴンの存在が不可欠だとわかっているからこそ、せめて幼生だけでも確保したい、と考えそうだ。
【そしたら、『だったら里に帰ろう』って、ルィトが言ったんだよ。
人間は、ドラゴンの里がある北大陸には渡ってこれねえからな。
で、フィアとルィトと幼生と、そろそろのんびり過ごしたいっていうネィオが、一緒に北大陸の里に帰った。
キィロは、もう少しこっちをうろうろしてたいって言うから、人間どもに見つからないよう気をつけろって言い含めて、ついでに東西の砦にいるやつらに説明を頼んどいた】
「そっか……挨拶したかったな……」
北大陸に帰るほうが皆にとって良いことなのはわかるけど、せっかく仲良くなったんだから、きちんと挨拶したかった。
【会いたいなら、そのうち連れてってやるぞ】
ディドさんに優しい声で言われて、きょとんとする。
「え、いいの?」
【ああ。
今まで里に人間を入れたことはねえが、それは単純に人間が渡ってこれなかっただけで、『里に人間を入れてはいけない』っていう決まりがあるわけじゃねえからな。
とはいえ、前のおまえだったら、連れてはいけても食料の確保やら厳しい環境やらで長居は難しかったが、今のおまえなら大丈夫だろ】
「そんなに違う?」
記憶と共に封じていた力が身体に満ちていることは、なんとなく感じてはいるけれど、ほとんど眠っていたから、実感できるほどではない。
【ああ。
前に、おまえの強さの話で『普通の人間の強さを一としたら、近衛騎士どもが五、竜騎士どもが七、ウィルが十、おまえが百、俺が一万以上』って言っただろ】
「うん」
【今のおまえは、千ってとこだな。
俺よりはまだだいぶ弱えが、フィアの幼生よりは強い。
それでもおまえ一人じゃあ北大陸で生きていくのは難しいだろうが、俺が一緒なら問題ねえよ】
確かに、前の私はドラゴンの力の名残で普通の人間よりだいぶ強かったとはいえ、食事や水分補給や睡眠は毎日必要だった。
でも、今の私は、人間よりドラゴンに近い身体になったようだから、時々水分補給できれば、北大陸でも生きていけるだろう。
何より、ディドさんが一緒なら、何も心配いらないだろう。
「……ありがとう、ディドさん。
もう少しおちついて、皆に会いたくなった時は、お願いするね」
【おう。任せとけ】
優しい声に笑みを返して、手の中のコップを握りなおした時、ぱきりと音がした。
「あ」
木製のコップが砕けて、少しだけ残っていた水が手を濡らす。
【ん? どうした】
「あー、久しぶりにやっちゃった……」
幼いころは、力加減がうまくできなくて、物を壊してしまったり、逆に大人でも持てないような重い物をひょいっと動かして驚かれたりした。
強すぎる力は自分にとっても周りにとっても危険だから、急いで制御をおぼえて以来、物を壊すことはなくなっていたのに、記憶と力が戻って身体能力が大幅に上がったことで、加減が曖昧になってしまったようだ。
「ディドさん、話の途中でごめんね。
ちょっと動いていい?」
【かまわねえが、どうした?】
「どれぐらい身体が変わってるのか、ちゃんと確認しておきたいの」
今ここには私とディドさんしかいないなら、そんなに気にする必要はないけど、自分の状態をきちんと把握しておきたい。
【そうか。
だが目が覚めたばかりなんだから、無理はするなよ】
「うん、わかってる。ありがとう」
割れたコップを足元に置いて、ゆっくり立ちあがる。
身体のあちこちを動かしてみたけど、やはり五日寝込んだ影響は感じられない。
ゆっくりと周囲を見回すと、私とディドさんの周りにゆったりと張られた風の膜が見えた。
以前は感じ取れるだけだったけど、今はかすかにだけど揺らぐ風が見える。
それを見ていて、ふと思い出したことがあった。
「ねえディドさん。
私が倒れて、ディドさんが支えて竜舎の中に運んでくれた時、風じゃなくて、ディドさん自身の前脚や翼を使って、私の身体を支えてくれてたよね。
あれって、どうして?」
今まで何度もディドさんに運ばれたけど、いつも風にくるまれていた。
なぜあの時だけ違ったのか、なんとなく気になって聞いてみると、ディドさんは優しい声で答えてくれた。
【ああ、あれは、おまえの力とぶつかりあって、俺が張った風の膜が消えちまったからだ。
抑えこめなくはなかったが、そのせいでおまえに悪影響が出るかもしれなかったからな。
今はおちついたようだが、干渉しちまわねえように大きめにしてあるんだが、気になるか?】
「ううん、平気。ありがとう」
ディドさんは、本当にいつでも私のことを考えて行動してくれる。
それが、すごく嬉しい。
胸の奥があたたかくなるのを感じながら、ディドさんから数歩離れて、身体の力を抜いてゆったりとした姿勢で立ち、目を閉じて集中する。
身体の中心からあふれて、肌から放出されていく力が、ぼんやりとだけど感じとれた。
それを、ゆっくりと身体を巡らせていくように意識する。
ドラゴンだった頃の感覚を思い出しながら力を巡らせていくと、放出されるだけだった力の流れが整っていく。
これなら、以前と同じように風を使えるだろうか。
期待しながら力をまとめて、風を吹かせようとしたけど、一瞬髪が揺らいだだけだった。
何度か試してみても同じで、ため息をつく。
【どうした?】
背後のディドさんの声がやけに心配そうで、苦笑しながらふりむく。
「風を使えるか試してみたんだけど、うまくいかなかったの」
【そうか】
ディドさんは頭をゆっくりと持ちあげて、私の身体を見回す。
【それだけの力がありゃあ風を起こすぐらいはできそうだが……ああ、もしかしたら、角や翼がないからかもしれねえな】
「ああ、そっか、そうだね」
特に意識していなかったから思いつかなかったけれど、ドラゴンだった頃に力を使う時は、角や翼を通じて風を使っていた。
どちらもない今は、たとえ力があっても使うことはできないようだ。
内心がっかりしていると、ディドさんが顔を寄せてきて、頬を私の頬にごく軽くすりよせた。
【そうがっかりすんな。
おまえがやりたいことは、全部俺がやってやるから。
なんでも言え。なんでもしてやるよ】
甘やかすようなしぐさと声が嬉しくて、くすりと笑う。
「ありがとう、ディドさん」
【おう】




