第9話
夕食は、ウィルさんの部屋で二人で食べた。
砦の騎士や兵士たちと一緒に食堂で食べると、私もだけど騎士たちもおちつかないだろうからとウィルさんに言われたからだ。
ヴィノさんとレィゾさんの要望を伝えながら食べ、明日の行動の確認をしてから、与えられた二階の端の個室に戻った。
普段は国を行き来する外交官が泊まる部屋らしく、飾りはないけどしっかりした造りの木製の机や椅子やベッドがそなえつけられている。
室内はきちんと掃除されていて、シーツも清潔なものだ。
兵士が木桶で運んできてくれたお湯でタオルを濡らして、身体を軽く拭き、持ってきていた夜着に着替えた。
明日は朝早く起きて出発の予定だから、さっさと寝ようと思ったけど、ベッドに入ろうとした時に耳元で声がした。
【アリア、寝る前にちょいとでかけねえか】
「ディドさん?」
ディドさんはすぐ上の竜舎というか屋上にいるから、普通に呼べば私には聞こえただろうけど、今の声はまるで耳元で囁かれたようだった。
もしかして、これが『風で送る声』だろうか。
私の声をウィルさんに届けてもらったことはあったけど、私自身が受け取るのは初めてだから、不思議な感じだ。
【おう、今夜は月がきれいだぞ】
しばらくの時間を置いて、また耳元で声がした。
私の声を風で拾って聞いて、また自分の声を風で届けているのだろう。
「いいよ。
着替えるから、ちょっと待ってて」
【急がなくていいぞ。
制服着てこいよ】
「わかった」
会話を終えて、夜着を脱いで飛行用の制服を再び着て、髪を後ろでひとつに結んだ。
部屋を出て廊下を歩き、階段を上がる。
隣がウィルさんの部屋だけど、物音がしないから、一階で砦の騎士たちと話しているのだろう。
階段を上がってバルコニーに出ると、バルコニーの中央にディドさんが座っていた。
ディドさんが言うとおり、空の高い位置で満月が輝いていた。
冬のはじめの空気は澄んでいるから、夜目も利く私には充分な明るさだ。
ちらりと見ると、ヴィノさんとレィゾさんは眠ってるようだった。
「お待たせ、ディドさん」
小走りに近寄ると、ディドさんは軽く首をかがめて私を見る。
【おう、準備はいいか?】
「うん、あ、でも、鞍はどうするの?」
【鞍は騎士用だから、おまえはいらねえだろ】
「でも昼間飛ぶ時は、鞍を使ったでしょ?」
【あれはウィルが一緒だったからだ。
おまえだけなら必要ねえ。
俺の背中に寝そべるようにして、首に腕を回してみろ】
「わかった」
ディドさんが寝そべってくれたから、言われた通りに背中にのぼって翼の間にうつぶせになり、ディドさんの首に腕を回す。
【なるべくぴったりくっついてろよ】
「うん」
もぞもぞ動いて位置を調整して、身体をぴたりとくっつけるようにした。
私の身体を覆うように、風の膜がつけられるのを感じる。
【いいか?】
「うん」
【よし、行くぞ】
ディドさんは身体を起こすと、軽く翼を広げた。
ふわりと浮きあがり、そのまま滑るようにしてバルコニーから離れる。
大きくはばたくと、一気に上空の高い位置にあがり、加速した。
昼間ウィルさんと一緒に乗っていた時と同じぐらいのスピードだけど、鞍に座っているより今のほうが安定しているように感じる。
寝そべっているぶん、風が当たる範囲が小さくて、風の抵抗が少ないせいだろう。
座ってる時より視界が狭いから巡視には向かない姿勢だけど、私だけなら確かにこのほうが楽そうだ。
【大丈夫か?】
「大丈夫、もっとスピード出してもいいよ」
ウィルさんは、三日前にディドさんのスピードに耐えきれずぐったりしていたけど、私はウィルさんよりも丈夫だから、まだ平気だ。
【わーった、だが、つらくなったらすぐ言えよ】
「うん」
ディドさんはぐんぐんスピードを上げていく。
眼下の景色があっという間に流れていく。
厚い風の膜があるから直接風を感じはしないけど、身体にかかる圧力で相当なスピードが出ているのがわかる。
昼間の倍ぐらいのスピードは出ているだろう。
久々の高揚感。
風を切って、風になって、飛ぶ。
その爽快さを、再び感じる。
ディドさんの首に回した腕に、ぎゅっと力を込める。
【苦しいか?】
「ううん、きもちいい!
もっと飛ばして!」
気遣う声に高揚した気分のままに叫ぶと、ディドさんが笑う。
【おう、しっかりつかまってろよ!】
「うん!」
答えると同時に、ディドさんは広げた翼と手足を身体に沿わせて伸ばして流線型にして、風の抵抗が一番少ない姿勢になった。
さらにスピードが増し、風の圧力も増す。
懐かしい感覚が、心地よかった。
どれぐらいそうしていたのか、短いような長いような時間の後で、声が聞こえた。
【そろそろだな】
同時にゆるやかにスピードが落ちる。
「え? あ……!」
ディドさんの首の根元に押しつけるようにしていた頭を上げると、銀色のきらめきが視界に飛びこんできた。
眼下にあった陸地は一瞬で後方に消え去り、前方に広大な海が広がる。
静かな月の光に、絶え間なく動く波頭が白く輝いていた。
ゆっくり飛びながら、ディドさんが言う。
【アリア、この先のやつ、見えるか?】
「なあに?」
言葉に促されて、ディドさんの首に回していた腕を少しゆるめて、肘をついて上体を起こす。
前方の海を見ると、その海面が一部分だけひときわきらきらと輝いていた。
まるで銀の粉を散らしたかのようだ。
「あれ、何……?」
【魚の群れだ。
冬のはじめの、月の輝く夜にだけ海面に群れで現れる】
言いながら、ディドさんがゆっくりと高度を下げていく。
きらきら輝いていたのは、海面近くを泳ぐ無数の魚の鱗だった。
時折飛びはねるものが月光を受けて全身を輝かせ、また海面に戻る。
まるで踊っているようだった。
【きれいだろ】
「……うん。すごくきれい。
初めて見た……」
ドラゴンだった頃の私も月のきれいな夜に飛ぶのは好きだったけど、いつも高空を飛んでいたから海面近くの魚がこんなふうに輝いていたとは知らなかった。
【前に、月夜に王都からこのあたりまで飛んできた時に見かけたのを、さっき思い出してな。
おまえに見せてやりたかったんだ】
優しい声ときもちが嬉しくて、再びディドさんの首にぎゅっと抱きつく。
「すごく嬉しい。
ありがとう、ディドさん」
【おう。
そういや、竜騎士どもを乗せてる時よりかなり飛ばしたが、身体はつらくねえか?】
「平気だよ、風を切る感じが懐かしくてきもちよかった。
またいつか乗せてほしいな」
首を回して私を見たディドさんは、優しく笑う。
【おまえが望むなら、いつだって乗せてやるよ。
おまえだけならスピード出せるし、今度は東にでも行くか。
イシュリアは面倒だが、その向こうの国には大きな森があって、冬に果実をつける木がある。
酸っぱいが、けっこううまいぞ】
「いいなあ、楽しみ」
のんびりと話す私たちを、月の光がやわらかく照らしていた。




