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その村はガルデニアと隣国フリストとの境となる急峻、霊峰ミーミルの麓にあった。
友好国であるフリストとの行き来は比較的多い。だが実際に行き来するとなれば、街道の整備がされた南回りのルートを選ぶものがほとんどだろう。夏はともかく、冬の山越えは自殺とほぼ同義である。ここを越えようとするのは山間にある鉱山の村へ向かおうとする者や、危険を度外視して最短の時間で国境を越えたいと思う者たちだけなのだ。
そんなのどかな村に、一軒の酒場兼宿屋があった。他の家に比べると少しばかり大きく、少しばかり頑丈な造りをしている。二階建てで、一階が酒場。二階が宿屋という、平均的な造りである。その扉を開いて外に出てきた一人の恰幅のいい中年女が、朝日を眺めながら背のびをした。
「おはよう、アム。今日もいい天気になりそうだな!」
「おはよう、ジョセフ。そっちもきっちり働きなさいよ!」
農具を担いだ顔見知りの村人に挨拶を返し、アムは振り返って店を眺める。
この店はアムの物ではない。村の商店の嫁になったアムが、その友人から借り受けているものだ。収益は店の維持費と修繕費以外は全てアムの取り分としてくれて構わない。そう言われて引き受けたのだ。元々宿をやっていた友人は流れ者だった。数年前にふらりと村を訪れ、尊重にかけあって寂れていたボロ家を買い取り、改築したのである。
村で唯一の酒場だったことから、それなりのもうけにはなる。片手間でやっているアムにしてみれば、ちょうど良い小遣い稼ぎになった。
「リリィは旦那を見つけられたのかね……」
夫を捜しに行く。そう言って剣を手に旅装を整えた友人は、思い詰めた顔をしていた。
自分が不在の間、宿の面倒をみてほしい。なんだったら代わりに営業していてくれても構わない。そう言われ、ならばと酒場と宿屋を引き継いだ。
週末に開く酒場。客が居れば開く宿。そんな適当さが、アムにはちょうど良かった。
「……あれ?」
朝陽を背に街道のほうから馬が走ってくるのが見えた。
単騎であることから、山賊の類ではないだろう。そもそも、この辺りの山賊は、ほとんど友人が狩りたててしまった後だ。
騎手は村の入り口で馬を下りると、ゆったりと馬を引いてこちらへと近づいて来る。
これは久しぶりの客かとアムが考え、相手をよくよく眺めた瞬間、ぽかんと口が開いてしまった。
「リリィ!?」
「アム、久しぶりね」
一年前。宿を自分に預けて旅立った女友達の、唐突な帰還だった。
一年前に旅に出た時と変わらない古ぼけたマント姿に、アムはホッと息を吐いた。旅に出る前の彼女はとても思い詰めた顔をしていた。それが気がかりだったのだ。
「リリィ。ロイドは……見つかったのかい?」
彼女の夫として村の仲間となっていた男の事も、皆が気にしていた。
少々天然で、しかも良家のお坊ちゃま然とした雰囲気を持っていたが、気の良い男だった。同年代の男の中では抜きんでた容姿を持ち、頭も良い。村で暮らしたのはほんの二年ほどだったが、将来の村長候補の本命ですらあった。
そして何よりも、リリシアとは仲の良い夫婦だったのだ。
「いいえ。見つからなかったわ」
リリシアが静かに首を横に振るのを見たとき、アムは思わず彼女を抱きしめていた。自分と違って細く引き締まった体つきをした彼女を、強く強く抱きしめる。そうするとリリシアは、アムの背中をぽんぽんと軽く叩いてくれた。
「アム。苦しいわ」
「だけどリリィ。あんた……一年も探して」
「仕方ないのよ。……仕方ない、の」
苦い笑みを唇の端に乗せたまま、リリシアはそう呟く。アムはそれを聞きながら、もう一度リリシアの身体を強く抱きしめた。
◇
「それでリリィ。あんた、これからどうするの?」
「それなんだけどね、アム。私、王都で仕事を見つけたの。しばらくはあちらに居る事になると思う」
リリシアは一年前まで暮らしていた店でお茶を飲みながら、アムの問いに答えた。その言葉にアムは思わず眉を上げた。
「じゃあ店はどうするんだい」
「それなのよ。多分、長いこと帰ってはこれないでしょう。もしかしたら二度と帰ってこれないかも知れない」
リリシアがかつて傭兵をやっていた事は聞いていた。血なまぐさい商売に嫌気がさして、辺境の村で酒場兼宿屋を開いたのだと、かつて聞いた事があるのだ。アムは顔を顰めてリリシアを見た。
「ねえ、アム。お願いがあるの。あなたにこの店をお願いできないかしら」
「リリィ」
「もちろん、どうしても手が回らないとなら他の人に売ってくれても構わないし、なんなら廃業してくれてもいい。多分、数年は間違い無く帰ってこられないと思うから」
「でもリリィ。ここはあんたが」
この店はリリシアが傭兵時代に溜め込んだ金で始めた店だった。こじんまりとした酒場は毎日村の大人達で席を埋め、くだらない冗談を言って日々の疲れを癒していた。彼女はそんな日々を慈しんでいたはずなのに。アムの言葉にならない抗議を、けれどもリリシアはただ小さく首を振って答えた。
「いいのよ、アム。多分、もうここには帰ってこられないから」
数年間、と言っていた期間が永遠の別れなのだと。リリシアの言葉に、アムはぎゅっと手を掴んだ。
「王都で仕事って、どんな仕事なんだい。危ないことに巻き込まれていたりはしてないんだよね?」
「……そう、ね。ええ。危ないかどうかで言えば、危険はあると思うけれど」
心配するアムに向けて淡く微笑み、リリシアは懐から印章を取り出した。
「騎士団に入団したの」
「へ?」
リリシアが差し出したのは、白竜をあしらった印章だった。
その日、リリィの店は昼から酒を飲む村人達でごった返していた。店の中だけでは収まらず、店の外に自宅から持ち込んだ椅子やテーブルを置いて、酒と料理を並べて飲み交わしているのだ。
「なあ、リリィ。本当に行っちまうのか?」
「そう言っているでしょう。ガルド」
「寂しくなるねえ」
「店はアムがやってくれるらしいから、これからも贔屓にしてね」
リリシアが酒を注ぎ回りながら、村人達に挨拶をしていく。彼女は明日、再び王都へと向かうのだ。家の貴重品をまとめ、残りは村人達に引き渡すつもりだと告げた。
村人達はそれぞれにリリシアとの別れを惜しみ、思い直すようにと説得する者もいた。リリシアはそれに微笑みを浮かべたまま、けれども決して頷くことはなかった。
◇
翌朝。太陽がまだ昇りきる前の群青色の空を見上げ、旅装を調えたリリシアは馬を引いて村の入り口へと歩いていた。
その周囲には彼女を見送ろうという村人達が総出になっている。夜遅くまで騒いでいたせいか、大人達は皆、腫れぼったい目をしている。子供達もいつもと違う村の雰囲気に呑まれたのか、少しばかりおとなしい。
「みんな。まだ眠たいでしょうに」
「なに言ってんだい。俺らはいつもこれくらいから畑に行ってるぞ」
強がってそう返す男達に、リリシアは微笑む。
「リリィは村の仲間なんだよ。だから、辛いことがあったら此処に帰っておいで」
そんなリリシアに、アムは笑いながらそう告げた。
村人達も、同意するように頷いてそれぞれに声をかけてくる。
「故郷、か。そんなの、とうの昔に無くしたと思ってたわ」
「なくしたんなら、また見つけりゃ良いのさ」
長老でもあるログ爺さんの言葉に、リリシアはただ「そうね」と頷く。
村の入り口で馬にまたがり、見送る皆に顔を向ける。そこには気の良い仲間達がいる。男達はみな腫れぼったい目をしながら、リリシアを笑って見送っていた。
「元気でな」
「物騒だっていうから、王都じゃ気ぃつけるんじゃぞ」
「道中も気をつけてな」
「リリィなら盗賊なんか返り討ちにしちゃうから、大丈夫よ」
「ばっか。可愛い顔に傷でもつけたらどうするんじゃ」
「いつでも帰っておいでね。部屋はそのままにしておくから」
「そうじゃそうじゃ。なんだったらリリィの一人くらい、わしらが養ってやるわい」
仲間達は口々に言いたいことを言う。その言葉の一つ一つに頷き、リリシアは手を上げた。
「じゃあ、みんな。……行ってきます」
騎士の礼をしてみせると、馬の腹を蹴る。
駆け出した馬の背にまたがったリリシアに、村人達が思い思いの言葉をかけて見送る。
朝陽が昇る頃には、騎影は村人の目にも見えなくなっていた。
これはリリシアが白竜騎士団に叙されて、すぐの事。
アム達、村の仲間達がリリシア=フェンブルック――王妃の騎士の名を聞くのは、まだ先のことだった。