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ガルデニア王国の王妃となったアルメイア=ミルケル=ガルデニアは、代々伝わる王妃の間でお茶を飲みながら、ぼんやりと書類を眺めていた。そこには王妃としてなすべき福祉関連の嘆願が書き連ねられている。
王が政治を統括する身であるのならば、王妃は民の福祉を統括する身である。若き王である夫が口にした言葉は、婚約者であった頃から彼女が個人的に孤児院などを支援していたことを知っていたからであろう。友人達から寄付を募り、王都のみならず地方の村の孤児を支援しているのである。
王妃として夫から期待された役目を果たしながら、アルメイアはフウとため息を一つ吐く。どうにも憂鬱な気分が晴れず、侍女達から気遣わしげに向けられる視線に申し訳なくすらなる。
王妃の間の扉の前に立つ騎士たち。その姿は圧迫感に満ちており、護衛という役割を十全に為しているといえるだろう。だが王妃となって以後、常にそういった騎士が視界の隅にあり続けるという事は、若い女性であるアルメイアや侍女達にとっては、あまり気持ちの良い状況ではなかった。
「妃殿下。陛下とロックス卿がいらっしゃいました」
「陛下が?」
そんな空気を破ったのは、ドアの向こうから入ってきた侍女の言葉だった。
「皆、そのままで。かしこまる必要はないよ」
部屋に入ってきたリディアスの言葉に、侍女達が一礼する。白竜騎士団団長のロックスがその背後に立ち、さらにその後ろに見慣れない小柄な騎士が立っている事にアルメイアは気付いた。
「陛下? どうかなさったのですか?」
この時間はまだ昼の執務の時間のはずだ。ロックスがついているのは近衛の団長として、リディアスの警備のためと理解できる。ならば、その後ろにいる小柄な騎士は一体?
「今日は君の警備について話をしにね」
そういうとリディアスはアルメイアの隣に座り、そっと手を取った。
「警備……ですか?」
取られた手を気にしながら、それでも言葉の内容が気になって問い返す。それにリディアスは「ああ」と頷き、室内を見回した。
「いくら王妃の安全のためとはいえ、男の騎士が四六時中貼り付いているというのは、落ち着かないだろう?」
「え、ええ。まあそれはその通りなのですけれど。ですが彼らも職務なのですし」
「リヒャルトからの推挙で新人が入ったんだ。君の護衛にと考えている」
そう言うとリディアスはロックスの背後へと視線を向けた。
小柄な騎士が前に進み出て、アルメイアの前で膝をつく。
肩口で揺れる黒髪。リディアスやロックスと比べると華奢にすら見える体躯を、真新しい白の騎士服に包んでいる。整った顔立ちは――「女性?」
思わず口をついた言葉に、眼前に膝をついた女性は頷いた。
「リリシア=フェンブルックと申します。このたび白竜騎士団に入団を許されました。何かと至らぬ事があるかと思いますが、よろしくお願いいたします」
正式な作法に則った騎士の礼をしてみせる女性。その姿にアルメイアは思わず口をぽかんと開けてしまった。
「あの……リディアス様?」
「腕はエルロイの保証付きだよ。白竜のアンバースにも勝ったそうだ」
「まあ。ロンド卿にですか?」
貴族の子女が勤める侍女に比べれば大柄に見えるし、腕や足も太く見える。だがそれでも他の騎士達に比べれば華奢といえる姿に、あの白竜騎士団副団長のアンバース=ロンドに勝ったという話はにわかには信じられないものだった。
「傭兵を長くやっておりましたので、腕に自信はあります」
短い返答。けれどその声はどこか澄んでいて、凛としている。それは部屋に入ってきた時から感じていたものと同質で。言葉こそ傲慢にすら思えるものを、淡々とした響きで口にした。
アルメイアはじっと彼女の目を見る。貴族の令嬢として生きてきた時間の中で培った人物眼には自信があった。そうでなくては権謀渦巻く宮中で、二年もの間、リディアスを待ってなどいられなかっただろう。
その目で見るリリシアは、王家に取り入ろうとも、他に何か目的があるようにも見えなかった。むしろなぜこんな場所にいるのだろうと、アルメイアは感じてしまう。それほどまでに、彼女からは虚栄心も、王家への忠誠心も感じなかった。
職務を果たすためにここにいる。それはどの騎士も同じだろう。けれど彼女からは、そんな意気込みすら感じられないのだ。自然体。そういう事もできるだろう。気負いのない態度は、少なくとも新人騎士のものとは思えない。
リリシアの言葉を信じるのならば、傭兵としてのキャリアがあるおかげだろうか。それだけであの落ち着きを得られるとは信じられなかったが、他に理由も見つけられない。
「……よろしくお願いしますね。フェンブルック卿」
リディアスが認めた。その言葉を信じ、アルメイアはリリシアへ王妃らしい態度で声をかける。
「――身命に代えましても」
膝をついたまま深く頭を下げる。騎士の最上級礼にアルメイアは目を見開いて、思わず瞬いてしまった。
淡々とした態度は本人の望まない理由によって白竜へと入ったのだろう、とアルメイアは予想していた。宰相補佐のリヒャルトは幼なじみであり、リディアスにとっては絶対の味方である。だが同時に、それだけではないはずだった。彼とて一国の宰相補佐として暗部の一つや二つは抱えているだろう。むしろ、それを持たない為政者などあり得ない。
アルメイアは王妃となるべく受けた教育の中で、それを理解していた。
その彼女の目で見ても、リリシア=フェンブルックという女性は近衛となることを望んでいるようには見えなかった。態度に表れている訳ではない。だがその目には、他の騎士たちにあるような忠誠や虚栄の光は見当たらない。王家を守護するのだという、熱もない。あるのはただ、仕事としてそれをこなすための思考。
だというのに、彼女が口にした言葉は、行動は、全てを裏切っている。命に代えても。そんな台詞を口にするとは、アルメイアは思ってもみなかったのだ。
「ではフェンブルックは、妃殿下付きということで。普段から妃殿下について歩く事となります。よろしいですか?」
エルロイ=ロックスの言葉に、思考の海に沈み込んでいた意識を引き上げる。
リリシアはどこか不可思議な存在だが――それでも、自分を守るという言葉に偽りは無いのだろう。そう思えた。
頷いたアルメイアに向けて、リリシアが僅かに微笑む。それは安堵のようにも、嘆息のようにも見えて、アルメイアは少しだけそれが気にかかった。
◇
リディアスとロックスが執務に戻るため王妃の間を立ち去り、部屋に残されたリリシアが最初にした事は室内を検めることだった。
アルメイアに断りを入れて許可を得ると、王妃の執務室と私室を一通り確認したのだ。
「何をしているの?」
「いざという時、間取りを把握していないのでは妃殿下をお守りできない事もあります。戦場の地形は最初に確認しておくものだ、と私は教わりました」
静かな声が返ってくる。その声にアルメイアは首を傾げた。
「そういえばフェンブルック卿はリヒャルトとはどういった関係なのですか? あの人が個人を推挙だなんて珍しい事もあると思っていましたけれど」
幼なじみの性格をアルメイアはよく理解していた。リヒャルトという人間は、少なくとも私的な友誼を盾に自分の欲求を押し通すような人間ではない。そんな彼が、リリシアという女性を近衛に押し込んだという事実が、アルメイアには気がかりだった。
「元は傭兵をやっておりました。宰相補佐殿に引き抜かれて、今はこうしております」
「傭兵?」
「雇われ兵の事です」
リリシアは一通り室内を確認したのか、部屋の壁際に立って答えた。
「北の小国家群ではよく小競り合いが起きていますから、これでも仕事にあぶれた事はありません。ただ女ですから、どうしても力のピークは男達よりも早く訪れてしまいます。潮時かと思っていた時に、閣下からお声をかけていただきました」
なるほど、と頷いたアルメイアに、リリシアが微笑む。
「妃殿下。私のことは、どうかリリシアとお呼び下さい。先ほど申し上げた通り、田舎育ちの不調法者です。卿などと呼ばれるのは、その、居心地が悪くて」
最後のほうは頬を赤く染めて言葉を濁したリリシアに、アルメイアは思わず噴きだしてしまった。
それまでの淡々として凛とした様子から一転、リリシアという女性の可愛げが感じられたのだ。
「では、リリシアと呼ばせてもらいますね。そういえば……リリシアはおいくつなのかしら」
見た目では自分よりは年上とは分かる。だがその正確な年代が読み取れない。鍛えられた鋼のような佇まいが、見慣れた貴族の子女と違いすぎて勘所が見切れないのだ。
「28になります。騎士としては、あと数年で旬が過ぎる歳ですが……それまでには妃殿下や王家の女性のために、女性主体の近衛部隊が創設されるでしょう」
その年齢に、アルメイアは驚いてしまう。自分よりも7つも年上とは思えない。それほどリリシアは若々しく見える。
そう口にすると「若作りなだけです」と苦笑いと共に返される。だがリリシアは、嬉しそうにも見えた。そういう所はやはり女性なのだな、などとアルメイアは思う。
「お願いしますね、リリシア」
「御意」
剣の腕は信頼している。まだ見た事はないが、少なくともエルロイ=ロックスが太鼓判を押した腕ならば、信頼には値するはずだ。
そして何より、これからの日々に男の無遠慮な視線が減ると思うだけで、アルメイアはほっとするのだった。