電話嫌いの老人
……ええ、そうです。
私が正気を失ったのは、あの洞窟でのことでした。
友人ケニーが忘却の彼方へ追いやられてからというもの、私の理性は静かに失われていきました。見えてはならぬものが見え、聞こえるはずのない囁きが耳元を離れず、ときには姿なき手が私の首筋を爪先でなぞるようで…
……失礼しました。私がここへ参った理由を申し上げねばなりませんでしたね。
そのためには、まずケニーが辿った最期を知っていただく必要があります。
なに、上の...ランプの油が尽きるまでには話し終えましょう。
ケニーは、都会には似つかわしくないほどの好奇心と探究心を備えた少年でした。
理解できぬものは理解できるまで調べ、未知なるものがあると聞けば、自らその場へ赴かずにはいられぬ性分だったのです。
毒草を口にして倒れたことさえ、一度や二度ではありません。
そして、その飽くことなき探究心が尽き果てたのは、馬車の一台さえ通らぬ寂れた路地においてでした。
彼は……あぁ、青白く、不気味に光る……あの忌々しいカードを手にしてから、すべてが変わってしまいました。
彼は光を放つ塵芥の山――まるで青白い燐火に照らされたような、ごみ捨て場を見つけ、愚かにもその中を漁ってしまったのです。
そこで手にしたのが、あのカードでした。
初めのうち、彼はそれを得意げに私へ見せびらかし、「お前には、この声が聞こえないのか」と幾度も尋ねました。
私には何一つ聞こえませんでした。ただ彼だけが、カードと語り合っていたのです。
彼の言うには、そのカードは問い掛ければ必ず答えを返すのだと。
私は子供らしい空想だと笑い飛ばしました。せいぜい、おばさんの不味いスープはどうしたら改善されるのか…そんなことを尋ねた程度でした。
しかし、今となっては、あの時もっと真剣に耳を貸すべきだったのか、それとも力ずくで取り上げるべきだったのか……未だ答えは出ておりません。
楽しげに「何か質問はないか」と尋ねてきたのも、二日と続きませんでした。
彼はカードと語らうため外へ出なくなり、やがてその世界は、小さな物置小屋と手のひらほどのカード
一枚だけに閉ざされてしまったのです。
家族は、奔放だった息子がようやく学問に打ち込むようになったものと思い込み、その変化を喜んでいました。誰一人として、それが異常であるとは考えなかったのです。
ケニーが再び私を訪ねてきたのは、それから半年ほど経った頃でした。
十二の少年とは思えぬほど虚ろな眼差しで、彼は私に遠出への同行を求めました。
私は彼のおぞましい変化について尋ねましたが、「馬車の中で話す」とだけ言い、私の手を引いたのです。
断るべきでした。
今なら、そう断言できます。
しかし当時の私は、彼と共に未知を追い求める日々を懐かしく思っていました。再び行動を共にできることが嬉しく、その安堵が私の判断を曇らせたのでしょう。
私は、あのカードにもようやく飽きたのだと――ただ、それだけのことだと勝手に結論づけてしまったのです。
馬車の停留所へ着くと、ケニーは迷うことなく奥から二台目の馬車へ歩み寄り、御者に何事かを告げました。
私には聞き取れぬほどの小声でした。
御者は怪訝そうな表情すら浮かべずに静かに頷き、我々を馬車へ乗せてくれたのです。
私は何を話したのか尋ねましたが、ケニーは御者にも聞こえるほどの声で、
「この先は休める場所もない。用足しなら今のうちだぞ」
とだけ言いました。
私は、それ以上詮索すべきではないのだと察し、口を閉ざしました。
道中、私は再び彼の変わりようについて尋ねようとしました。しかし彼は巧みに話題を逸らし、何一つ答えようとはしませんでした。
もっとも、彼は私が空気を読むことを知っていましたし、私自身も、それ以上踏み込む勇気を持ち合わせてはいなかったのです。
やがて馬車は、朽ちかけた看板が一本立つだけの獣道の入口で止まりました。
御者は手綱を緩めると、穏やかな口調でこう申しました。
「ここから先は馬では進めん。本当に二人だけで大丈夫なのかい。」
するとケニーは、それまでの虚ろな様子が嘘であったかのように、年相応の屈託ない笑みを浮かべました。
「この辺りはフレッド伯父さんが猟をしているから、危ない獣には滅多に出会わないよ。」
私はその名を初めて耳にしました。
少なくとも、それまでケニーの口からそのような伯父の話を聞いた覚えは、一度としてありません。
御者はなおも案じるような表情を浮かべていましたが、やがて腰に提げていた小さな鈴を外し、私へ差し出しました。
「念のためだ。歩く間は鳴らしておきなさい。」
私は礼を述べ、それを受け取りました。
御者は「三日後に迎えに来る」とだけ言い残し、馬首を返して静かに去っていきました。
ケニーは打って変わって、つまらなそうな表情へ戻ると、何も言わず獣道を歩き始めました。
私は鈴を手に、その後を追いました。
すると彼は振り返ることもなく、冷え切った声で言ったのです。
「鈴は捨てていい。ここで獣に出くわすことはない。」
その言葉に、私は思わず足を止めました。
なぜそんなことが分かるのか。そして、フレッド伯父さんとは何者なのか。
私は矢継ぎ早に問い掛けました。
ケニーは少しも歩みを緩めることなく、淡々と答えます。
「僕はもう、何でも知っている…この先で出会う獣は鼠と蝙蝠だけだ。
それから、フレッド伯父さんというのは、さっきの御者の名前さ。架空の伯父でも、親近感が湧くだろうと思っただけだ。」
その返答は、私を凍りつかせるには十分すぎるものでした。
私は絶句し、手にしていた鈴を落としたことにさえ気づきませんでした。
やはり――。
私がそう思った矢先、ケニーはまるで心を読んだかのように口を開いたのです。
「あのカードだよ。」
彼は僅かに肩を竦めました。
「全部、あいつの提案なんだ。」
私は言葉を失いました。
目の前で話しているのは、あの無邪気で向こう見ずだったケニーではありませんでした。
声こそ彼のものですが、その口から語られる言葉は、まるで長年を生きた老学者のように冷え切っていたのです。
私は思わず語気を荒らげました。
「いったい、どこへ行く気なんだ。お前は本当に正気なのか。
馬車で何時間も揺られて、こんな人里離れた場所まで来て、一体何をしようというんだ。」
しかし、彼は私の苛立ちなど意にも介さず、前を向いたまま短く答えました。
「カードを捨てに行くんだ。」
私は再び面食らいました。
願ってもない話だったからです。
ケニー自身も、あのカードを手にしてから自分がおかしくなったと自覚していたのだ。
そう思うと、これですべて元に戻るのだと、私は実に都合のよい結論へ飛びついてしまいました。
彼が獣道を外れてなお迷うことなく歩き続けたことも、薄気味悪い洞窟へ何の躊躇もなく足を踏み入れたことも、その時の私は少しも不審に思いませんでした。
あのカードを捨てに行く。
その一念だけが私の胸を満たし、それ以外の違和感をことごとく覆い隠してしまっていたのです。
……なんと愚かなことでしょう。
いや、あるいは彼は、私がそのように考えることすら、すでに知っていたのかもしれません。
洞窟の中は湿り気を帯び、冷え切った空気が肌へまとわりついていました。
ケニーは青白く輝くあのカードをランプ代わりに掲げ、迷うことなく暗闇の奥へ進んでいきます。
私は、その忌まわしい光だけを睨みつけながら、黙って後を追いました。
やがて洞窟の奥深くまで辿り着くと、彼は静かに立ち止まり、
そして、どこか諦めにも似た声でこう言ったのです。
「本当なら、僕一人で来るべきだったんだが……どうしても一人だと怪しまれてね。それに――僕のことを覚えていてくれる人が、どうしても欲しかったんだ。」
あまりにも突拍子のない言葉でした。
私は意味を理解できず、ただ苦笑しながら答えました。
「気にするなよ。友達じゃないか。さあ、早くそれを捨てて帰ろう。」
洞窟の湿気と底知れぬ不気味さに耐えかねていた私は、一刻も早くその場を離れたい一心だったのです。
その時の焦りは、今でも鮮明に思い出せます。
しかし、ケニーは暗闇の向こうへ歩いて行ったきり、戻ってきませんでした。
やがて、唯一の明かりであったカードの青白い光も、ふっと闇へ呑まれてしまったのです。
「おい、ケニー!」
私は叫びました。
「返事をしてくれ! 帰りのランプを持っているのも、お前なんだぞ!」
しかし、返事はありません。
何度呼び掛けても、洞窟は私の声を虚しく反響させるばかりでした。
恐怖を紛らすために握った拳は湿気のせいで皮膚がふやけたようで、足は震え、
叫ぶうちに喉が掠れていき ました。
しかし、暗闇は容赦なく私の理性を削り取り、やがて私は狂気へと沈んでいきました。
どれほどの時間が経ったのでしょう。
私には二日ほどにしか思えませんでした。
その頃、不意に洞窟の壁の向こうから人の声が聞こえてきたのです。
ついに幻聴まで聞こえるようになったのかと、私は嗚咽を漏らしながら岩壁を叩き続けました。
けれど、その声は途絶えません。
もしかすると、御者が迎えに来てくれたのではないか。
そんな短慮な希望が胸に宿り、私はしゃがれ切った声で必死に助けを求めました。
その直後でした。
聞いたこともない轟音が洞窟中へ響き渡り、大地が震え、岩壁が激しく砕け散ったのです。
差し込んできた眩い光に、私は思わず目を覆いました。
そこへ立っていたのは御者ではありませんでした。
誰一人として見覚えのない、不思議な衣服を身に纏った人々だったのです。
そして彼らの第一声は、私の理解を完全に超えていました。
「どうしてこんなところに埋まっていたんだ、爺さん。」
私は耳を疑いました。
しかし、自分の手を見た瞬間、その意味を理解してしまったのです。
皺だと思っていたものは、湿気によるものではありませんでした。
掠れた声も、衰えた足腰も。
すべて、本物の老人のそれだったのです。
震えながら背後を振り返ると、そこにはケニーの姿などありません。
ただ、人の形を辛うじて留めた朽ち果てた木片のようなものが、静かに横たわっているだけでした。
……そうです。
私はジョージ。
二百年前、十二歳のままクアンタ山道で失踪した、あのジョージなのです。
そして私が今日ここへ参ったのも、あのカードには似ても似つかないが、その――「会話ができる板」を、この世から消し去っていただきたいからなのです。
なぜ、誰も私の請願書を読んではくださらない!
あれは人の知るべきではない知識を与えます。
やがて人を、ケニーのように世界から忘れ去られる存在へ変え、あるいは私のような狂人へ堕としてしまうのです。
だから、どうか……。
「あれ、とはスマートフォンのことですか?
たまにいますけどね、新しいものを極端に嫌う人ってのも…
しかし、請願書とはずいぶん凝ってますね。200歳のジョージさん?」
音とは少し違うかなーとも思いましたが、思いついたので書いてみました
参考:ランドルフ・カーターの陳述
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ケニー
好奇心旺盛な12才、不思議なカードを見つける。
ジョージ
いつもケニーに付き合わされていたこの物語の語り手。
狂ってしまい、まともに相手にされない。
カードとスマホを混同している。
御者
お人よしなため、まんまと言いくるめられた。
本名はフレッド。
聞き手
いかれた老人の相手をさせられている。
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