8 届く言葉
わたしの中で動き始めた何か怖いものから目を逸らそうとして、わたしはもう一度その言葉を繰り返しました。
「わたしは、生きててはいけないんです。」
仁美さんの声が少し強くなりました。
「そんなことはない! あなたは生きてていい。いえ、生きなきゃだめなのよ。」
仁美さんは少し怒ったような目をしています。
生きなきゃだめ‥‥? え? なぜ‥‥? どうしてですか?
「あなたが死んでも、愛ちゃんも栞ちゃんも生き返ったりはしない。」
それは‥‥そうでしょうけど‥‥。
でも、あのサチコちゃんのための神様との約束もあります。
「サチコさん。わたしはあなたを愛しているから、あなたが死んだりしたらわたしは悲しいよ?」
仁美さんがわたしを愛して‥‥?
今が、その時のはずなのに‥‥仁美さんがわたしを死なせないのは、悲しいから?
わたしの中でまた何かがもがき出します。
わたしはそれを見ないようにしたくて、あちこちに視線を彷徨わせました。
仁美さんがわたしを見ています。じっと見ています。
フードバンクはいつもどおり仕事をしていて、向こうではお母さんたちに食べ物が手渡されています。
入り口の方で男の子の声が聞こえました。
「僕はお母さんの持ち物じゃないぞ!」
「あなたのためを思って言ってるのよ!」
小学生くらいの男の子の声です。
遠い声でしたが、何かが引っかかりました。
何が引っかかったのか考えながら目を戻すと、仁美さんがまだじっとわたしの答えを待っています。
親子の声はもう聞こえません。
食品を受け取って帰ったのかもしれません。
あの男の子が言っていたこと‥‥。
——僕はお母さんの持ち物じゃない——
あのまま大きくなっていたら、愛も同じようなことを言うようになったのでしょうか‥‥?
でも愛はもう大きくはなりません。わたしがその命を止めてしまいましたから。
それは‥‥? 正しかったのでしょうか?
間違っていたのかもしれない‥‥という思いがよぎりました。
ここで集ういろんな人を見てきて、今‥‥あの男の子の声を聞いて‥‥。わたしは間違っていたのかもしれない‥‥と。
人は、瓶とは違う‥‥。
「わたしは‥‥」
それだけを言って仁美さんの顔を見たあと、わたしは気がついたのです。
暴れていた怖いもの。
それは‥‥わたしがこのことに気づいてしまうこと。
わたしは、大きな間違いを犯したのかもしれません。
わたしは愛を、自分の物だと思っていたのかもしれません。
愛は、あのときただお魚が見たかっただけで‥‥。愛は、まだ小さくて‥‥わたしとは違う愛だけの未来を持っていたのかもしれません。
栞ちゃんと同じように‥‥。
わたしは、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのかもしれません。
裁判長の言っていたことが‥‥今、やっと分かりかけました。
わたしは、生きている資格がありません。こんな愚かなわたしは‥‥。
わたしは生きていてはいけないのです。
ええ、そのことはもう決めたことですから、嫌ではありません。あのサチコを逃すときに決めたことですから。
わたしだけ生きていては、健次さんに申し訳ないです。
「わたしは‥‥生きててはだめなんです‥‥。」
フードバンクに訪れる人が途絶えて、表に出ていたスタッフたちがバックスペースに戻ってきました。
仁美さんがまた静かに話し始めます。
「あなたは毎日何かを食べているでしょう? それはみな、元は生きていたのよ。誰もが生きていたものを殺して食べているの。生きていなかったものなんてひとつもない。そうして、わたしたちはみんな生きているの。」
「‥‥?」
仁美さんは何の話をしているのでしょう?
「ちゃんと生きて、ちゃんと幸せにならなかったら、殺された生命たちは何のために犠牲になったの?」
仁美さんの目が潤んでいます。潤みながらも、仁美さんの目の中に激しい炎のようなものが見えます。
それは怒りのようにも、もっと別の何かのようにも見えました。わたしはその炎から目を逸らすことができません。
「わたしだって夫と息子を奪われているのよ!」
仁美さんがまっすぐわたしを見つめて、そして、こう言いました。
「みんなのために生きて、成長して、みんなのために幸せになりなさい。」
わたしは雷に打たれたみたいな衝撃を受けました。世界が割れて、別の世界が見えたような感じさえしました。
突然、わたしの目から涙がこぼれ始めました。
それがなぜだか、わたしにはすぐにはわかりませんでした。こんなことは初めてです。
わたしは初めて泣きました。
たぶん初めてだと思います。
これまで‥‥小さいときはわからないけど‥‥少なくとも記憶にある限り、わたしは泣いたことがありませんでした。
これまで、わたしを責めた人、笑わそうとした人はたくさんいました。
でも泣かせたのは仁美さんが初めてなんです。
仁美さんが、初めてなんです。
「ああああ‥‥あああ‥‥‥」
喉から自然にあふれてくる声を、目からとめどなく流れ出す涙を、どうすることもできないでいると、仁美さんがわたしの頭を胸にぎゅっと抱きかかえてくれました。
わたしはそれでやっとわたしの中心部にあったものが何だったのか、理解することができました。
誰かを抱きかかえたかったのではなく、抱きかかえてほしかったのです。
甘えたかったのは、わたしだったのです。
了
ここまでA61=サチコに寄り添ってくださってありがとうございました。
サチコは、これから反省と贖罪の道へと成長をはじめます。
どうか、その途上にいくつものささやかな笑顔がありますように。
その道を、天の魂たちが見ていてくれますように。
* * *
このお話を書き始めたとき、あの生い立ちから人権剥奪刑にまで行き着いたサチコに救いはあるのだろうか? と迷いながら針の穴のような救いを求めて書き進めてきました。
お話としては、死が救いになる——といった結末もあったとは思います。
そこに被害者遺族でありながら「人権剥奪者を飼う」という選択をした野中仁美さんという人が絡むことによって、サチコに極めて細いけれど道が見つかったように思います。




