3 まどろみの午後
仁美さんはわたしには包丁は持たせてくれません。
家でご飯を作っているときも、炊き出しのお手伝いをしているときも。包丁を使う仕事だけはけっしてさせてはくれません。
それはわたしが何をした女か、知っているからでしょう。
そんなことするはずないのに。
こんなに親切にしてくださる仁美さんや、いつも静かに本を読んでいるサトシさんに切りつけるなんてこと‥‥。
リュウジも‥‥あの子も「いつでも喉を切れ」なんて言っていましたが、そんなことする気なんて全くありませんでした。
あの子はかわいそうな子なんです。
そんなことを考えていると、いつもわたしの中に解けない疑問が湧き上がってきます。
わたしは栞ちゃんのお父さんの喉を切って死なせてしまいました。
でもそれはその人が栞ちゃんのお父さんだとは知らなかったからなんです。わたしは自分の身を守ろうとしただけでした。
健次さんの場合もはっきりしています。
わたしはあのサチコちゃんを守ろうとしたんです。リュウジがわたしを守ろうとしたみたいに‥‥。
でも、わからないのは‥‥なぜ愛の喉を切っのか——ということです。
どうして栞ちゃんまで殺そうと思ったのか——ということです。
わたしは愛を愛してたんです。
今だって愛してるんです。
ほんとうです。
裁判でもそう言いましたけど、誰も信じてくれませんでした。
眠いです。
考えがまとまらないです。
‥‥‥‥眠いです‥‥。
今は、仁美さんが仕事に出ている間も檻の錠はかかっていません。
仁美さんは普通に居間にいていいと言ってくれていますが、わたしもサトシさんも檻の中にいることが多いです。
なんだかそこにいると、わたしは落ち着くのです。
サトシさんはどうなんでしょう?
相変わらずサトシさんは無口です。
檻の中で本を読んでいます。
ときどき本を読みながら泣いていることがあります。
「どうしたんですか?」
と訊いてみたことがあるんですが、サトシさんは顔を真っ赤にして向こうを向いてしまいました。
だからわたしはそれ以来、サトシさんにこちらから話しかけるのはよすことにしました。
きっと男が泣いているところを見られたのが恥ずかしかったんでしょう。
リュウジもそんなところがありましたから。
昼間、2人だけのときはサトシさんのことをあまり見ないように、わたしも本を読んでみます。
そうするとすぐに眠くなってしまって、わたしは知らないうちに眠ってしまっています。
夢を見ました。
裸で川のほとりを歩いています。
足が傷だらけです。
なのに、ちっとも痛みがありません。
そのことで、ああこれは夢なんだ‥‥と頭のどこかでわかっています。
「あ! お魚!」
愛の声が聞こえました。
見上げると、愛が向こう岸で目を輝かせています。
それから満面の笑顔でわたしを見ました。
愛の笑顔を久しぶりに見ました。
気がつくと、わたしは檻の中でした。
カーテン越しに午後の光が差し込んでいます。
仁美さんが帰ってくるのはまだずっとあとです。
本でも‥‥と思ってふと前を見ると、お向かいの檻の中にサトシさんがいません。
いつもそこで本を読んでいるのに。
どこへ行ったんでしょう?
と思っていたら水音がしてサトシさんが檻に帰ってきました。
なんだ、トイレに行ってたんですね。
サトシさんはわたしと目が合うと、さっと目を逸らして檻の中に入りました。
それからまた本を読み始めます。
わたしも本を読もうと思って、紐を挟んでおいたページを開きました。
文字を追いかけようとするのですけれど、なぜかまたすぐ眠くなってしまいます。
午後の光が気持ちいいせいでしょうか。
‥‥‥‥眠いです。
その日、仁美さんが帰ってきて晩御飯を作るのを手伝い、いつものようにテーブルでご飯を食べながらサトシさんが本の感想を仁美さんに話しているとき、つとサトシさんがわたしに話しかけました。
「サチコさんはあんまり本読まないんですね。しおり紐がちっとも進んでない。」
ああ、あの紐、そういう名前なんだ——と思ってからすぐ、わたしの中で何かが暴れ出し、わたしは心の平衡を失いかけてしまいました。
とても不安で、とても怖いのです。
何が怖いのかまるでわかりませんが、すごく怖いのです。
その嵐はすぐにおさまりましたが、それがなんだったのかはわたしにはよくわかりませんでした。
その夜はあまり眠れなくて、街灯の光でほの明るくなっているカーテンを見つめ続けていました。
翌朝、あくびをかみ殺しながら朝食の準備を手伝って仁美さんを仕事に送り出したあとも、わたしはなぜか本を手に取ることができませんでした。
昼間にまた眠ってしまったのは、きっと夜寝なかったからでしょう。




