2 サトシさん
A65のサトシさんは無口です。
昼間、仁美さんがお勤めに出ている間、部屋の中で2つの檻に入っていてもほとんど口をききません。
ずっと本を読んでいます。
仁美さんはわたしの檻の中にも小説などを置いていってくれますが、わたしはあまり読みません。というより読めないのです。
少し読むとすぐ眠くなってしまうのです。
なぜでしょう。中学や高校の勉強をしていた頃は、そんなでもなかったのですが。
仁美さんは仕事から帰ってくるとわたしたち2人を檻から出して、ささっと夕食を作ります。
そうして3人でテーブルを囲んでいるとき、仁美さんは本の感想をわたしたちに聞きます。
サトシさんは少し頬を染めて、一生懸命感想を仁美さんに話します。
わたしは‥‥というと、ほとんど読んでいないので何も言えません。
「寝てしまったので‥‥。すみません‥‥。」
「いいのよ。起きていられるときで。眠いのなら、ちゃんと眠った方がいいわ。」
仁美さんはそんなふうに言ってくれます。
サトシさんは特に何も言いません。
不思議です。
誰も責めないのです。
これまでの人生で責められなかったことは初めてです。
いつも誰かがわたしを責めていたように思います。
仁美さんは優しい人です。たぶんそうだと思います。
仕事で疲れているのにみんなのご飯を作るのは大変だろうと思います。わたしは経験があるからわかります。
なのにちっともいらいらしたような顔をしません。
だからきっと優しい人なんだと思います。
わたしはそんな仁美さんの役に立ちたくて、朝食と夕食を作るお手伝いを申し出ました。
「ありがとう。手際がいいわね。」
仁美さんにそんなふうに言われると、わたしの中のどこかが嬉しがります。
お礼を言われたことなんて、いつぶりでしょう?
胸のどこかが、ふわりと温かくなります。
同時にわたしはふと不安にもなります。
あのサチコが不幸な目に遭ったりしていないでしょうか?
わたしは神様との約束を果たしていません。命を捧げていません。まだ生きていて、しかも少しだけですが幸せまで感じてしまっています。
その分、あのサチコから幸せが削り取られたりしていないでしょうか?
神様は約束を果たさないわたしを怒っていないでしょうか?
わたしは、こんなふうに生きてていいんでしょうか?
そんなことを考えているのに、おなかは減りますし、ご飯も食べますし、息もしてますし‥‥。自分の身体が欲するとおりに行動してしまいます。
わたしは本当は何が欲しいのでしょう?
こんなことを考えるのは、ちゃんとご飯が食べられるようになったからでしょうか?
眠いです‥‥。
しばらくすると仁美さんは檻に錠をかけないで仕事に行くようになりました。
「あなたたちは大丈夫だと思うから。檻に入ってるのは定期監査の時だけでいいわ。カーテン閉めてれば外から見る人もいないでしょうし。」
そう言って、鍵だけをサトシさんに預けて出て行きます。
「冷蔵庫の中のものは何でも食べていいわよ。あとで何食べたか教えてくれれば。」
こんな形になったのは、サトシさんが仁美さんにちょっとした訴えをしたからかもしれません。
「おしっこ。」
わたしがそう言うたびに、サトシさんは決まって少し気まずいような顔をしてわたしの檻の錠を開けます。
おしっこくらいしますよ? 生きてるんですから。
それに、檻の中でしてしまったら仁美さんに迷惑がかかるでしょう? おしっこの始末って、大変なんですからね?
サトシさんだって、何回かトイレには行くではありませんか。
サトシさんが仁美さんに訴えたのは、いちいち錠を開けたり閉めたりするのが面倒だったからかもしれません。
檻は猛獣の飼育規定として飼い主に義務付けられているのだそうです。
だから、監査の時だけでいい、と仁美さんは言うのでしょう。
わたしはご飯の準備や後片付けだけではなくて、仁美さんがお仕事に行っている間にお掃除をしてもいいか聞いてみました。
「それは嬉しいけど、わたしが家にいる時だけにしてね。わたしが出かけているのに掃除機の音なんかしてたら、誰かが通報するかもしれないから。」
そうでした。
わたしたちは人間ではないのでした。
気をつけないと仁美さんに迷惑がかかってしまうかもしれません。
こんなに親切にしていただいているのだから何かお役に立ちたいと思うのですけれど、もっと注意深くしないといけませんね。
サトシさんは、だからきっと昼間の間ずっと檻の中で静かに本を読んでいるのでしょう。
わたしはもっとサトシさんにいろんなことを教えてもらわないといけません。わたしには「常識」がないから‥‥。
でも、サトシさんは本当に無口なんです。




