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壊滅的な被害を受けた夏山部隊だったが、彼の卓越した戦術眼により、不可能と思われた反撃を成功させる。しかし、戦場で見撃した敵兵の姿は、既存の軍事常識では説明のつかない異様な変貌を遂げていた。
戦の炎が燃え盛る中で刻まれた凄絶な激闘は、今や遠い幻の如く、重く沈黙の残滓を戦場に残していた。かつて熾烈を極めた前線の砦は、崩壊の爪痕を深々と胸に刻み込み、冷たい霧がそれを覆う。焦土に埋もれた鉄の匂いはまだ強く、また、死が漂わせる乾いた空気は神経を刺した。
「――あの夜の轟音は、まるで地獄の咆哮だったな」
砦の廃墟の隅で肩を寄せ合う兵士たちは、声を潜めていくつかのやり取りを交わす。彼らの言葉には、疲労と恐怖、だがどこか、ほのかな安心も刻み込まれていた。少し前まで共に敵を斬り伏せ、激流のように押し寄せていた死の淵から辛うじて戻った者たち。だが、誰もが分かっている――この静寂はただの「合間」であり、戦はまだ終わらないことを。
エドワード・レイムは呆然と瓦礫の山に腰を下ろし、手のひらに黒く染まった血の痕を見つめていた。彼の瞳は戦場に残された得体の知れない違和感に囚われている。この熱を帯びた乾いた沈黙は、彼の記憶に繰り返し蘇るあの瞬間の刺突のように、鋭く心を抉った。
「なんというか……この感覚は……」
彼がかすれ声で呟くと、すぐそばの仲間が顔を曇らせた。
「増援が来ねえ。報告から半日以上、何の連絡もねえ。前線はもはや孤立してる」
「撤退の指令は?」エドワードは重い声でそう問う。
「上層部も混乱してる。増援の動きが分断されたって話だ。何か、よからぬ影が動き始めてるんじゃないかと……」
彼の胸を貫いたのは、兵士の言葉の裏に潜む未知への恐怖だった。ありえないはずの事態。戦いの最中、隠れていた何かが、地鳴りのように忍び寄っていた。
その時、不意に闇の中から密書が差し出された。差出人の名は伏せられている。開封された密書には、震える文字でこう記されていた。
『敵は姿を消したわけではない。彼らは我々の背後で、静かに牙を研ぎ澄ましている。共にいる者のなかに、裏切り者が紛れているかもしれぬ。……警戒を怠るな。そなたの命運はこの先、予想すらできぬ陰謀の渦中に落ちていくであろう』
凍り付くような言葉が砦の空気を凍らせた。エドワードは視線を密書に落とし、濡れた手で指先が震えた。「裏切り者……?」それだけが心をざわつかせ、彼の身体の芯を蝕んでいく。
兵たちは、ひとりまたひとりと顔を見合わせ、口数が減っていった。暗い黎明の光が、戦場の廃墟を幽かに照らすなか、その静寂はただの安らぎではなく、新たなる嵐の前触れであると、誰もが知っていた。
エドワードの目に映るのは、疲弊した仲間たちの影。だがその影の奥に潜む陰謀の牙は、すでに彼らの未来に深く食い込んでいた。
「戦いは終わってなどいない。この静けさは、嵐の前の凪だ……」
そう呟いた彼の声に、微かな決意の火花が灯った。
ここから始まる物語の第二幕は、謎と裏切りに彩られ、彼らの運命すらも翻弄する激流となるであろう。
果たして、砂埃に混じるその静寂の奥に、何が潜んでいるのか。だが、不気味な闇は既に動き出していた。
――重厚な戦火の残滓のなか、氷のような沈黙は物語の深淵を見据えていた。今、最後の歯車が静かに回り始めたのである。
荒涼とした大地が広がる、終わりなき荒野の道を、部隊は規律正しい隊列を保ちつつ、ひたすらに歩を進めていた。前衛は斥候小隊が警戒を強めており、左右に展開して周囲の偵察を行っている。
空は一面、鈍色の厚い雲に覆われ、冷たく重い空気が肌を刺す。時折、突風が砂塵を巻き上げ、薄靄となって視界を遮る。足元は細かい砂利と大小の石が入り混じり滑りやすく、足の置き場に注意を要する。靴底が小石に弾かれ、何度も足を取られそうになる。そのため兵士たちは意図的に足元を確かめながらも、警戒を怠らない。
「まだだ……まだ先は長い。」隊長の庄司中尉が低い声で呟く。彼の表情は険しく、しかし決して焦燥を表に出さず、冷静に部隊を鼓舞している。
「隊長、ここから先、峠越えに入ります。気を緩めずに。」斥候の小林軍曹が前方の険しい山並みを指差した。道は細く、崖にへばりつくように続いており、地形の制約から隊列は一層縦長に変化しなければならない。天候はさらに悪化し、山肌に黒い雨雲が鈍く垂れ込めているため、警戒態勢はよりいっそう厳しくなる。
先行の別の斥候が険しい顔で戻った。「敵の気配はないが、物音が妙に少ない……これは逆に危険かもしれません。」計画的な静寂は待ち伏せや罠の前兆だ。兵士たちのざわめきがわずかに広がるが、教練で培った精神力が彼らを落ち着かせている。
「やっぱりあの防衛線の向こうで何かが動いているのか?」若い兵士の一人が呟く。
「聞きたいかそれを?怖い話ならいくらでもあるぜ、荒野に眠る過去の戦没者の影やら何やら……」隣の老練な伍長が苦笑混じりに返すが、緊張は消えなかった。
数多の試練を共に乗り越えた我々の絆は、いまや言葉なくとも通じ合い、戦術的にも有効な連携を実現している。疲労で沈みがちな表情の中にも敵を迎え撃つ意志が浮かび、互いの背中を確かめ合うように目を合わせた。
中尉が静かに声を振り絞る。「この荒野の先に、我々の任務の真の危険が待つ。躊躇するな。前に進め。」
進軍は滑りやすく、踏み出すたびに膝に疲労が蓄積されていく。厚い雲の帯が断続的に雷鳴を響かせ、遠くで山が唸るようだった。風が一瞬やみ、静寂が辺りを包んだ時、不意に遠く稜線上の岩陰に黒い影がチラリと見え隠れした。
「……人か?」見張り兵が声を潜める。
「おい、見ろ!」斥候の一人が木の葉を踏む音を確実に捉え、即座に射撃態勢を取る。標的の特定と即応ができるのは、普段の訓練によるものだ。
しかし敵の実態はまだ掴めない。風が再び巻き起こり、砂埃が私たちを覆った。轟音のような雷鳴が空を裂き、兵士たちの顔に緊張が刻まれていく。
進軍の足取りは重く、一歩一歩が任務の重みを実感させた。斥候たちは先行して地形を活用しながら、左右の崖や岩陰などカバーが利く地点で機動している。これにより、不意の敵襲に対して即座に敵の位置や動きを把握する態勢が敷かれている。
「前方、こちらに不自然な足跡群……動物のものではない。」斥候がひそかに指摘した。足跡の向きは不規則で幅も一定せず、周囲の地面の押し跡も人工的である。これはまぎれもなく、人間の、しかも敵のものと断定できる。
「この近くに敵の先遣隊が潜んでいる可能性が高い。直ちに厳戒態勢を敷け。」中尉の指示に応じ、全隊は警戒レベルを最大に引き上げた。兵士たちは銃器の安全装置を解除し、周囲の警戒範囲を拡大。射手は一瞬で狙撃可能な姿勢を取り、指揮系統も明確にした。
周囲は荒野の冷たい風と共に、次なる戦闘への予感で満ちていた。切迫した時間と闇が近づく中、兵士一人一人の意識は高鳴り、鋭い神経が全身を駆け巡っている。
「これが――我々の任務の核心か……」私は心の底でつぶやいた。
先が見えぬ荒野を前に、部隊の足音だけが、重く濁った空気を切り裂き続けていた。
濃密な霧が戦場を覆い尽くしていた。視界はわずか数メートル。部隊の足音も呼吸も、遠く蜃気楼のようにかすんで聞こえる。
先頭を進む中隊長・佐々木は、先行偵察兵が突然動きを止めたことにすぐ気づいた。息を呑む静寂が隊列を包み込み、異様な緊張感が一瞬にして広がった。
「動け……動けよ……」佐々木は自分に言い聞かせ、無理に前進を促す。だが、胸中には理性では抑えきれない、底知れぬ不安がじわじわと膨らんでいた。
突如、霧の中から亜音速飛行機のエンジン音にも、機械のうなりにも似た、異様に低く唸る音が響く。兵士たちは必死に霧の奥を凝視したが、敵影らしきものは見当たらなかった。灰色の霧だけが密度濃く立ちこめ、何かが潜んでいることを確信させる。
「敵影、報告を!」佐々木が厳しく叫ぶも、返ってくるのは荒い息遣いと緊張に押しつぶされた沈黙。ほどなく、霧の壁がゆらぎ、奇妙な黒光りの物体が浮かび上がる。兵士たちの視線の先にあったのは、これまでの軍用機械の概念を超えた異形の兵器だった。ざらついた金属表面に曲線的なフォルム、内部から漏れる淡い光が不気味さを加えていた。
「なんだ、あれは……」隣の若い兵士が声を震わせた。
「近寄るな!」佐々木は即座に制止したが、その直後、兵器から閃光が放たれ、一帯を白く染め上げた。
閃光の刺激に目を奪われ、頭が真っ白になり、身動きが取れなくなる。熱と爆音が身体を貫き、光が消えると、目の前には重力を無視して空中に浮かぶ漆黒の影と、異常な静寂だけが残された。
「これ、兵器じゃない……生命体かもしれん……」副官が低く呟いたが、誰も同意できなかった。ただ一つ確かなのは、ここでまで使ってきた戦術が全く通用しなくなっていることだった。連携を維持しつつの進軍など、もはや物理的にも精神的にも困難であった。
部隊内の動揺は瞬時に隊列に波及。無線通信は断続的に途切れ、混線が頻発。小隊ごとに孤立が始まり、命令が浸透しなくなる。霧の中から断続的に響く謎のノイズが不安を掻き立て、完全な混乱を生んだ。
やがて、異様な無音が世界を包む。空気が張り詰め、聴覚が奪われたかのような重苦しい沈黙。佐々木は深呼吸し冷静を装うも、内面は崩壊寸前だった。
そのとき、戦線最前列から悲鳴が鋭く響き渡る。仲間が未知の存在に飲み込まれ、凄絶な恐怖に引き裂かれる音だった。佐々木の近くの兵士が叫び声をあげて崩れ落ちると、その背中には黒く粘着性の触手が絡み付いていた。
「退け!状況再編成だ!」震え混じりの命令が飛ぶが、濃霧のせいで隊形は崩壊し、敵の正体は隠されたままだ。圧倒的な未知の存在感が部隊を瓦解させていた。
佐々木は固く拳を握りしめ、わずかな連携の糸を手繰ろうと声を張る。
「皆、冷静に!俺たちは一つの部隊だ。この異常事態も乗り越えられる!」
しかし、その声にはかすかな自信しかなく、不気味な電子音が霧の中で揺らめき、新たな脅威がじわじわと迫り来ることを感じた。
未知の物体は霧越しに浮かび上がり、兵士たちの神経を極限まで研ぎ澄ませていた。目に映るのは純粋な恐怖と、理解不能な世界に置き去りにされた孤立感。
戦いの常識は崩れ去り、視界も未来も閉ざされた戦場の中で、佐々木はただ一つ、未知の恐怖に立ち向かい続ける決意を抱いていた。
再び冷たい霧が戦場を包み込む。耳をつんざく轟音と視界を奪う閃光。しかし何より兵士の心を蝕むのは、見たことも触れたこともない「異界の存在」との遭遇だった。
この瞬間、彼らは初めて戦争における「絶対的不確実性」を思い知らされる——。




