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深い霧が、まだ眠りゆく村の木々や屋根を包み込んでいた。朝靄はか細く、しかし確かな呼吸のように湿った空気と混じり合い、じわじわと濃密な冷気を押し広げている。静寂は全身を切り裂くほどに鋭利で、呼吸の音すらひそやかに聞こえるその日、村の外れ、古びた土塁の陰に一隊の兵士たちがひそんでいた。
兵士の甲冑は年月により鈍く鉄錆色に変わり、その表面に微細な傷痕が紡ぐ不可解な物語を刻み込んでいる。彼らの指先は凍えるような空気を感じながらも、静かに武器の柄を握り締めていた。鉄の匂いと、湿った土の匂いが混ざり合い、鼻腔の奥に鈍重な緊張感を染み込ませる。
「次の動きがある」──隊長の低い声が霧の中に溶けていった。彼の眼差しは冷たい闇のように澄み、遠くに滲む敵影を捉えようと必死に閃いている。しかし霧は視界を奪い、多くを隠し、音を殺し、時間の経過を鈍らせていた。
風が一瞬だけ強く吹き、枯れ葉が枝から舞い落ちる。その音があまりにも静かすぎて、兵士たちの胸中に重い鼓動を刻み込む。
遠くの鶯の声も、時折聞こえるかすかな銃声もすべて錯覚のように感じられた。彼らの身に迫るものは、すでにこの土地に根付いた狂気の影であった。
若い兵卒が身じろぎし、唇を噛んだ。寒さはじわじわと身体を蝕み、凍える手足はしびれるような痛みに変わっていく。泥に染まった足元からは春の芽吹きを前にした土の生温かさではなく、凍結寸前の冷たく鈍い生命感がじんじんと伝わってきた。内面には声にならない不安と恐怖が寄生虫のように絡みつき、吐き出せぬ叫びとして胸に巣くっていた。
「隊長、敵影はまだ見えません」若き狙撃手の声が闇に溶けていく。
「慌てるな。敵はこの霧の中に潜み、我らの一挙手一投足を窺っている。だが忘れるな、こちらもまた命で応えるのだ」隊長の口調は淡々としているようでいて、確かに熱を孕んでいた。その言葉は一瞬、銃剣越しに伝わる戦友たちの顔の緊張を揺るがせ、そして再び鎮めた。
辺りの大気はどこか異様で、風の音も鈍く、時折遠くから地鳴りのような低い轟音が響く。土塁の向こう側、見えぬ敵の動きに呼応するかのように、古い木々が震え、枯れ枝がまたひとつ静かに折れた。しかしその気配はたちまち引き、再び無音の深淵が目の前に広がった。
隊列の中でもひときわ目を惹く老兵がいた。長く延びた白髪を木の枝に垂らし、冷たい霧に溶け込むようにじっと動かない。かつて多くの戦場を経験してきた彼の眼は、冷徹な苛立ちと哀しみを秘めていた。遠い戦地で失った多くの同志たちの幻影が霧の彼方から忍び寄るのを感じ取っているのかもしれない。
「この地で、我らは何を守るのだ……」彼の呟きは小さな震えを伴いながらも、一瞬隊の空気を凍らせた。しかし、それはすぐに隊長の厳しい一喝でかき消された。
「そんな思いは無駄だ。今日の戦が終われば答えが見える。立っている今、この刹那まで、我らはただ命令を遂行する者に過ぎぬのだ。」
静寂の中に、かすかな微光が射した。村の鎮守の神社の鳥居が霧の隙間から姿を現し、その朱色は陰鬱な朝に対する僅かな色彩をもたらしていた。しかしその朱色はどこか血のように濃く、戦の予兆を告げる炎の色にも似ていた。
その時、地面がかすかに震えた。兵士たちは一斉に身構えたが、警戒心と共に不安が胸を満たす。地鳴りの音は確実に近づいている。土塁の向こうの森がざわめき、一瞬、黒い戦旗がかすかに揺れたようにも見えた。
「敵襲か……いや、まだ隠れているのだ」隊長の言葉は自分に言い聞かせているようだったが、眼光はさらに鋭くなった。
しかし、その時、若き兵卒の一人が小さく呟いた。
「隊長……足音が違う……敵とも味方とも異なる。まるで闇から響く不気味な鼓動のように……。」
その言葉に、皆の間に冷たい震えが走った。霧は深まり、世界はますます暗闇に包まれていく。呪われたような重苦しい気配が戦闘前の戦場に降り積もり、やがて凍える夜の帳となってこの一帯を覆い尽くそうとしていた。
果たして彼らの明日は、どこに辿り着くのか。血塗られた歴史は、これから始まろうとしている。
――風が止み、そして――静寂が裂けた。
夜明け前の薄墨の闇を切り裂く銃声が、遠くの丘の縁から断続的に響き渡る。火薬の焦げた匂いと鉄がぶつかる乾いた音の波が押し寄せ、湿った土を軍靴が蹴る度に鈍く震えた。
斎藤廉は丘の縁に位置する小隊の隊列の中、草地に身を伏せていた。下が泥に変わったその地面は冷たく、掌にじっとりとした湿り気が伝わる。隊長の怒声が響く。
「火縄銃隊、三連射まで撃て!その後は刀を抜き、間合いを詰めるな!」
仲間の銃撃が何度も連なった。火縄銃の着火までのもどかしい時間を経て、煙が立ち昇る。銃口から噴き出る火花が雨のように散り、火薬の強烈な臭気が鼻をついた。
だが敵は、野性の獣のように吠えながら迫ってくる。近接すれば銃の威力は落ちる。まさにその刹那、鋼の刃がぶつかり合い、火花が散る。銃を構えるのをやめ、斎藤は脇差に手を伸ばした。
「斬り込め!」総大将の号令が遅れて届く間もなく、竹槍や刀剣が乱舞し、前線は混戦に突入した。斎藤の刀身が不意に敵剣と激突し、金属音が鋭く耳を切り裂く。
血と泥が交錯し、鮮血が空気を染めてゆく。斎藤は激しい咆哮に混ざる仲間の叫びを聞きながら、自分の鼓動で世界が鳴っていることを感じた。
泥濘に脚を取られ、視界を煙が遮る中、彼の目の前で敵の斬撃が寸でのところで逸れる。咄嗟に銃口を向けて火縄銃を撃つと、爆発音がまた戦場を揺るがせた。呻き声とともに敵が倒れる。
「ここで、倒れてはならない」――斎藤は強く拳を握りしめた。
周囲は依然として混沌としていた。火縄銃隊は丘の縁に陣取り、刀を携えた兵は前後左右で激しい打撃を繰り返していた。指揮官が厳しい声で命令を飛ばし、兵士たちはそれに応じて連携を取り続けている。
戦場には叫びも歓声もない、ただ殺し合う現実と生き残る意志だけがあった。
――死と隣り合わせの火薬と鋼の舞台で、斎藤廉は初めて真の戦いを知ったのだった。




