第四話 かつて火を預かった者たち
──風が、止まった。
ガラスの破片が、床に転がっている。
久我が立っている。
そして──女がいた。
彼女の身体には、傷一つなかった。
息すら、落ち着き払っているように見えた。
白い肌。黒い髪。
その目が、まっすぐに久我を見ていた。
「……おい、お前……何者だ……?」
久我の声が震えていた。
あの無表情で人形みたいだった男が、今はどこか人間くさく見えた。
女は何も言わず、俺のほうへ視線を落とす。
いや──俺じゃない。
俺の、背中を見ていた。
その視線が、妙に冷たくて。
でも、ほんの少しだけ、あたたかかった。
「ご無事で何よりです、朔夜様」
静かな声だった。
俺にはその言葉の意味が、まったくわからなかった。
「……だれ、だ……」
唇が切れていて、声がうまく出なかった。
女がようやく顔を上げ、俺を見下ろした。
「私は影。あなたが歩めば私は寄り添い、
あなたが倒れれば、私は──その楯となりましょう」
聞き慣れない言葉だった。
でも、その響きに、なぜか背中がぞくりとした。
「秋月家の……御紋を確認。契約を再開……」
何を言ってるのか、ほとんど理解できなかった。
けど、彼女、いろはの声には、確かなものがあった。
それは、誰かの命令じゃなく、自分の意志で話しているように聞こえた。
久我が、にじるように前へ出る。
「馬鹿な……秋月家はもう存在しない……!
“影法師”なんてものが、まだ……!」
いろはは、かすかに首を傾けた。
「それでも私は、来ました」
それだけだった。
久我が叫んだ。
「狂ってる……!」
久我の指輪が青白く光り出す。
空気が震えた。
俺の肌にも、そのざわつきが伝わってくる。
「──国家に刃向かう、亡霊が……!」
叫びとともに、何かが放たれた。
だけど──
「無駄よ」
その声が聞こえた瞬間、いろはの姿が消えた。
久我の体が、吹き飛ぶ。
何が起きたのか、わからない。
気がついたときには、久我は壁に叩きつけられていた。
「ぐっ……!」
呻く久我を見下ろすように、いろはが構えていた。
その構えは、剣でも銃でもない。
──でも、殺すための何かだった。
次の瞬間、久我が怒鳴る。
「そんな契約、国家には認められてない!!」
「ええ、知ってます」
その一言と同時に、いろはの姿がまた消えた。
気づけば、久我の喉元に、指先が突きつけられていた。
「でも、あなたも──私を止める資格は、持っていないようですね」
久我はもはや、その声を聞いてはいないようだった。
そのまま、崩れ落ちた。
まるで、糸の切れた人形みたいに。
◆
ガラスの破片。床の血。
焦げた匂いと、焼けるような痛み。
そして、久我は──もう動かない。
息が乱れて、うまく呼吸ができない。
「……なんなんだよ……お前……」
声がかすれる。
でも、それでも聞きたかった。
いろはは俺のほうを見た。
ゆっくりと、一歩だけ近づいてくる。
その足取りは、あまりに静かだった。
まるで、廊下を掃く影みたいに。
「……私は、影です」
それだけ言って、深く頭を下げた。
「朔夜様は、秋月の当主。
この身が仕えるべき主です」
──秋月。
その名前は、俺が生まれたときから背負ってきたものだ。
小学校でも、中学でも、高校でも、ずっとそう呼ばれてきた。
でも今、彼女の口から聞いたそれは──なんだか、妙に遠く感じた。
「……秋月の、当主……?」
自分の苗字の後ろに、そんな言葉が続いたことなんて、今まで一度もなかった。
戸惑いが喉の奥に残る。
だけど、はっきりとわかった。
いま、彼女は俺の名を“名前”としてじゃなく、
“立場”として呼んだんだ。
理解が追いつくより早く、
胸の奥に、何かがふっと灯るのを感じた。
それが、嬉しいとか、誇らしいとか、そういうのじゃない。
ただ──逃げ場がなくなったような、そんな感じだった。
でも、不思議と怖くはなかった。
火のように。
夜の灯りのように。
そこに在るだけで、どこか安心するような……そんな何かだった。
◆
「──いきましょう」
いろはが小さくそう言った。
「どこに……」
問いかけると、彼女はリビングの奥──寝室の方へ、すっと視線を送った。
「ご両親の容態を、確認します」
その言葉に、俺の心臓が跳ねた。
駆け出す。足がふらついた。
寝室。
布団がはがされ、血が広がっていた。
父さんと母さんが、床に倒れていた。
目を閉じ、息は浅く、かすかに手が震えている。
「……っ、父さん、母さん……!」
朔夜は震える手で両親の顔を撫でていた。
どちらも、意識はない。
胸が、かすかに上下している──けれど、それだけだった。
(まずい……どうすれば……!)
頭が真っ白になる。
救急車? 警察?
でも今、あの久我ってやつが──
「朔夜様」
いろはの声がした。
「移動します。すぐに処置ができる場所へ」
いろはがそう言った。
声は静かだったが、どこか、もう決まっているような響きがあった。
「え? いや、でも──」
思わず言葉がつっかえる。
両親の顔を見た。息は浅い。血の気が引いていく。
そんな俺の前で、いろはがしゃがみ込んだ。
その指が、俺の制服の裾に触れる。
(あ……破れてるんだったな)
焦げたような臭いと、ナイフの裂け目。
あのときの衝撃が、そこに残っていた。
そのとき──ふわり、と。
肩に何かがかけられる感触。
見ると、彼女が自分のスカジャンを俺にかけていた。
「……え、ちょ……」
反射的に声が漏れる。
いろはは、何も言わなかった。
ただ、それが当然かのように、俺の襟元を整えてくれていた。
その手の動きが、妙にやさしかった。
「少しだけ、目を閉じていてください」
「え、ちょ、なに──」
朔夜が言い切る前に。
床に落ちていた電灯の影が、波のように揺らいだ。
視界の端で、黒い床が、ざわりと風に撫でられる。
影が──沈むように、広がった。
それは、現実という布に空いた、ほころびのようだった。
日常の裏地が、黒く裏返されていくように──
何かに足元を掴まれた感覚。
柔らかく、でも抗えない引力が、身体ごと包み込んでいく。
目の前の空間が歪み、音が遠ざかる。
そして。
──薄暗い待合室、木の床。
ひび割れたソファの横に、
四人分の“影”が、ふっと浮かび上がるように現れた。
「……っ、ここ……は……?」
息を飲んで、朔夜が顔を上げる。
いろはは、変わらず隣にいた。
血に染まった父と母を、両腕に抱えたまま。
彼女の呼吸は、まったく乱れていなかった。
──影を通って、たどり着いたのだ。
ただそれだけのことを、彼女はまるで当然のように成し遂げていた。
朔夜には、何が起きたのかよくわからなかった。
ただ──ひとつだけはっきりしていたのは。
彼女が自分を、そして両親を、
“ここに”連れてきてくれたということだった。
それは、世界のどこにも記されていない道だった。
──けれど確かに、存在していた。
いろはの影として。
◆
夜の診療所は、いつも通り静かだった。
木の床はところどころ沈み、外壁にはヒビが入っている。
待合室のソファは合皮がひび割れ、ビニールテープで応急修理されていた。
貼りっぱなしの健康ポスターは色褪せて、
昔のカレンダーは誰もめくっていない。
──まあ、病院ってのは、こうでいいんだよ。
比良坂時重は、缶コーヒーを一口飲みながらそう思う。
昼間は近所のじいさんばあさんの話し相手。
血圧がどうだ、膝がきしむ、昨日のテレビは面白かったか。
診察というより“井戸端”だ。
でもそれが案外、命を長らえる薬だったりする。
「ふう……終わった終わった」
カルテを棚に押し込んで、白衣も掛けた。
あとはいつものように、少しだけ事務所で遅くまで帳簿とにらめっこして、
冷めた夕飯でもチンして食えばそれで終わり。
──はずだった。
違和感が、走った。
ぞくりと、背中を撫でるような空気のざわめき。
……なんだ?
待合から、気配のようなものが伝わってきた。
足音はない。
でも、床が鳴った気がした。
扉を開けた覚えはないのに、外気の温度が変わったような──そんな錯覚。
比良坂はすぐに立ち上がった。
身体はもう、問答無用で“構える”モードに入っていた。
(鍵、閉めたよな……? 雨戸も、降ろした……)
念のため机の下の術式カードを手繰り寄せながら、
静かに事務室の扉に近づく。
ノブに手をかけたとき──
「比良坂先生。……力をお貸しください」
女の声だった。
低く、澄んでいて、それでいて妙に“届く”声音。
ぞくりとする。
誰だ──?
扉を開ける。
薄暗い廊下の先、待合室の中央に、黒い影が立っていた。
──いや、ふたり。
もう一人は、なにかを抱えていた。
それが人だとわかるまで、数秒かかった。
血に染まった服。
白い顔。
焦げたような匂いが、微かに漂ってくる。
比良坂の顔が引きつる。
そして──
彼女の顔が、見えた。
「……お前……」
しばし、言葉が出なかった。
「……白兎んとこの……いろはちゃん、か……?」
静かに、彼女は頷いた。
「ご無沙汰しております。
お力を、お借りしたく参りました」
ほんの一拍、記憶が交差する。
葬式だったか。
あの時、まだ十六……いや、十五か。
まるで子どものようだった少女が──
目の前に立っていたのは、
明らかに“それ”ではなかった。
あれから何年経った?
──関係ない。
「中に入れ。ベッドはふたつ空いてる」
すぐに動いた。
声が、自然に医者のトーンへと変わる。
「昇圧剤、酸素。いろは、脈は?」
「まだ取れます。呼吸は浅く、失血あり。ですが、手遅れではないはずです」
「上出来だ。こっちも忘れちゃいねぇよ」
その日、比良坂時重は思い出していた。
かつて自分が、どんな火を預かっていたのかを。
──そして、火はまだ、消えていなかった。
◆
診療所にある唯一の手術室の前。
朽ちたソファのクッションが、ふたり分の沈みを受け止めている。
朔夜は、自分の膝の上に置かれた手を見つめながら言った。
「……白兎さん、だったよな」
いろはは、少しだけ顔を向ける。
「いろは、とお呼びください」
「……じゃあ、いろは」
隣にいた影が、ゆっくりと顔を上げる。
「はい、朔夜様」
「……全部、教えてくれないか」
一拍の間。
いろはの視線が、手術室の扉のランプに向かう。
赤く灯ったまま、何も変わらない。
「俺は……何に巻き込まれてる。
あの連中は誰で、なんで両親が──
いろはは、なんで俺を……」
喉の奥で、声がかすれる。
なのに、口だけは止まらない。
「──俺は、何なんだよ」
その言葉に、いろははゆっくりと頷いた。
その目だけが、まるで“最初から答えを知っていた”ように静かだった。
「では──始めましょう。
あなたが何者かという話から」
呼吸が、止まった。
「本当の名前の話を、です」
朔夜は、何も言えなかった。
ただ、次の瞬間、
手術室のランプが──青に変わった。
* * *
【次回予告】
診療所の朝は、ちょっぴり静かで、ちょっぴり不思議──
私と朔夜様、ふたりきりで迎える“夜明け前”。
語られる、秋月家の過去。
背中に刻まれた御紋の意味。
そして、影法師としての、私の“願い”。
……でも。
こんな時間、長くは続かないんです。
次回、『第五話 影、大学生』
……朔夜様、どうか私の後ろへ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
比良坂先生、昔のいろはちゃんを知ってるみたいですね。
少女時代のいろは。気になります!!どんな子だったんでしょう。
よろしければ、次回もお付き合いくださいませ!
次回予告は本文末にて!
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