第三話 影、帰還す
──夜風が頬を撫でる。
それだけで、長い時間を外で過ごしていなかった気がした。
でも──街は変わっていない。
駅前の看板。滲むネオン。閉まりかけのコンビニ。
今朝見たものと、まったく同じだ。
だけど、何かが決定的に違っていた。
「……いったい、何が起こってるんだ……」
吐き出した声が、誰にも届かずに消えていく。
俺はふらつく足で電車に乗った。
車内は静かで、窓の外に夜の住宅街が流れていく。
頭の中も同じように、掴みきれない現実がぐるぐると回っていた。
──魔術構文。
──国家律法管理特務第二局。
──三野という男。掴みどころのない、マネキンのような……
全部、現実味がなかった。
けど──夢ならもっと、輪郭が曖昧だったはずだ。
(都市伝説だと思ってた。あんなの、ただのネタスレの話で……)
掲示板の陰謀スレで読んで笑った、“魔法を管理する国家組織”とか“選ばれる血筋”とか。
ただの、妄想だったはずだった。
なのに。
(──秋月家が、何だって?)
足元から、じわじわと汗が滲む。
制服の裾がざらりと指先に引っかかる。
布が裂け、ところどころ焦げたような穴が開いていた。
意識が戻ったときには気づかなかったが、見れば見るほど異常だ。
飛鳥のことも気になる。
けど今は、それよりも──この“異常”を一度脱ぎ捨てたかった。
(……帰ろう。家に。着替えて……“普通”に戻るんだ)
電車を降り、夜の住宅街を歩く。
静まり返った街に、街灯が落とす影が長く伸びる。
風が、ぬるい。
やがて見えてきた。
──家だ。
一軒家。都内では珍しい、小さな戸建て。
二階の窓に、灯りがついていた。
何気ないその光に、思わず足が止まった。
(……ああ、よかった……)
帰れる場所がある。まだ、日常が残ってる。
それだけで、息が少し整った気がした。
(心配、してるよな……)
電話、すべきだった。
当たり前のことに、今になって思い当たる。
制服の胸ポケットのスマホを握りしめる。
(……あとで謝ろう)
そう思いながら、玄関へ駆け寄った。
そして──ドアノブに手をかけたとき、違和感に気づいた。
鍵が、開いている。
「……え?」
握ったまま、ドアノブが簡単に回った。
(おかしい)
母さんは戸締まりにうるさい。
町内で不審者の噂があった日には、昼間でも施錠を確認するほどだった。
(なんで……)
嫌な汗が首筋を流れる。
手が震えた。
「……母さん? 父さん?」
明かりはついている。
でも、静かだった。
テレビの音も、食器の音もない。
家は“日常”の顔をしながら、音だけが欠けていた。
「かあさん! とうさん!」
返事は、ない。
(……いやな予感がする)
リビングの扉を開けた。
ぱち、と照明が視界を満たす。
テーブルの上。
湯気の立つ湯呑み。
読まれかけの新聞。
落ちたリモコン。
まるで、“何かが起きた直後”。
(……なにが、起きたんだ……?)
玄関の靴箱には、父さんの革靴があった。
母さんのスリッパも揃っていた。
外出してるわけじゃない。なのに──反応が、ない。
(いやだ、これ──)
喉が、鳴る。
鼓動が早くなる。
足が、勝手に階段を見上げた。
(あそこに──いる。何かが)
そして、視界の端。
壁に、赤黒い飛沫。
──血。
「っ……!」
身体が勝手に凍りついた。
そのとき。
──気配。
背後。
振り返る前に、顔に重い衝撃。
「が──っ!」
視界がねじれ、壁に叩きつけられた。
次の瞬間、膝蹴りが腹にめり込む。
吐き気。呼吸ができない。
「どうやって、あの結界を破った」
目の前に、あの男──久我。
無表情。機械のような声。
「……お前……っ!」
問いかけようとしたその瞬間、拳。
次いで、背後から別の男の手が俺を押さえつけた。
久我の拳が、もう一度振るわれる。
「俺に出せる、最高強度だった。三野室長ですら抜けられない。
それを──なぜだ?」
「し、知らねえよ! てめぇ、ここで何して──母さんと父さんは!?」
久我は一拍置いた。
そして、冷たい声で言った。
「霊皇陛下は──神意の器だ。
その方を乱す芽は、どれほど小さくとも……摘む。それだけのことだ」
「は……!? さっきから、言ってること……わかんねぇって!!」
その瞬間、久我が声を張った。
「やれ」
「っぐ──!」
後頭部に鈍い衝撃。
膝が折れる。息が詰まる。
(──う、そだろ……!?)
倒れた瞬間、もう一人の男に背中を蹴り上げられる。
息が抜け、視界が白くなった。
「……が、は……!」
髪を掴まれ、顔を床に叩きつけられる。
「……秋月……念のためだ......」
久我の声が、どこか遠くから響いていた。
男がナイフを抜いた。
制服が裂かれ、背中に冷たい感触。
「電気を落とせ。背中を見る」
一人がスイッチを切る。
光が消える──
──が、雲間から月が顔を出した。
リビングの床に白い光が落ちる。
その一部が、俺の背中に触れた。
次の瞬間──久我の動きが、止まった。
「……っ……これは……」
ナイフを構えたまま、奴が小さく後ずさる。
押さえつけていた誰かの手が、わずかに震えた。
何が起きたのか、わからない。
ただ、背中の皮膚がひりついて、
皮膚の下で──何かが“動いた”。
ぬるい痛み。
熱。
それは、皮膚を内側から焼きつけるような感覚だった。
「御紋……」
久我が、呟いた。
その声には、初めて明確な“戸惑い”が混じっていた。
「……まさかとは思ったが……当主だと.......このガキが!?」
低く、押し殺した声だった。
だが、震えていた。
久我の肩がわずかに揺れる。
何かを見ている。何かを──理解できずにいる。
「構文密度が……常時変化してる……こんなもの、教本にも……報告にも……」
一歩、下がった。
久我の靴音が、硬く床を叩く。
「これは……違う。……あっちが、“こちらを視てる”……っ」
言葉の意味が、掴めなかった。
でも、空気が変わった。
押さえつけていた誰かの手が、わずかに震えたのがわかった。
「紋が……アクセスしてきてる……!」
久我の目が、完全に恐怖に染まった。
理性をまとった人形のようだった男が、いま、ただの“人間”に見えた。
(……何が起きてるんだ……?)
見えない。自分では、見えない。
でも──俺の背中にあるそれは、
“何か”を、向こうから“覗いて”いる。
久我が、言葉を失った。
沈黙が降りる。
そして──俺は、悟った。
これは、選ばれた印なんかじゃない。
これは、存在してはいけないものだ。
久我の瞳から、ついに理性の色が消える。
「……これが……在る限り……俺たちは──」
だが今は、そんなことはどうでもよかった。
「……父さんと、母さんを……どうした……」
息が切れる。呼吸が続かない。
それでも、声を絞り出した。
「……生きている」
久我は、まるで何かから我に返るように目を細め、
そして、ゆっくりとナイフを構え直した。
その声に、ほんのわずかのためらいも、感情もなかった。
「だが──本物であると知れた今、
お前共々“処理”してくれる」
「やめろっ!!」
叫んだ。
「仕上げだ」
久我の声がポツンと響いた。
すぐそばの男が、ポケットから小さな袋を取り出す。
黒い印が滲んだ──知らない、見たことのない封。
(──終わる)
鼓動が跳ねる。
息が吸えない。
嫌だ。
嫌だ。
嫌だ──!
(誰か……誰か──)
──窓が、爆ぜた。
「……っ!」
鋭い破裂音とともに、ガラスが舞う。
風が吹き込む。その風に乗って、何かが──誰かが飛び込んできた。
何も聞こえない。
自分の心臓の音さえ、風に吸われて消えた。
残ったのは、肌を裂くような風の気配。
そして──そこに“いた”。
黒い髪。鋭い目。
スカジャンを羽織った、細身の女。
動きに一分の無駄もない。
構えを見た瞬間、全身が“これはヤバい”と告げた。
次の瞬間、何も言わずに、女が男のこめかみに手を叩き込んだ。
一撃。
男が、音もなく崩れ落ちる。
そのすぐ後ろ。
もう一人がナイフを振りかざす。
刃が光る──が、
「遅い」
女が低く呟き、肘を跳ね上げた。
刃は空を切り、続けざまに足が閃いた。
顎に、蹴り。
骨が砕ける音。
男が沈む。
信じられなかった。
何が起きたのか、理解より先に終わっていた。
久我が、倒れこんだ二人の男を一瞥し、無意識に後退る。
そのとき──女が俺を見た。
まっすぐに。
目が合った。
なぜかわからない。
けれど、あの目を見た瞬間、息が止まった。
「白兎いろは。……影法師にございます。
粛清の夜を越え、ただ一振り残された影が、あるべき場所へと戻って参りました」
その声は静かだった。
けれど、何よりも重かった。
* * *
【次回予告】
やっと会えました、朔夜様!
でも──めっちゃボロボロじゃないですか!?
てか、家が!血が!……間に合って、よかったです。
いろいろヤバい中ですが、
これから少しずつ説明しますね。ほんとにちょっとずつですけど。
そして次は、ある人との再会──
……って、朔夜様は初対面ですけど。
次回、『第四話 かつて火を預かった者たち』
あ、スカジャンは後で返してください。
......お気に入りですので
第三話までお読みいただき、本当にありがとうございます!
ついに登場した謎の黒髪美女、白兎いろは。
影法師の言葉と、その重み──いろいろと世界が動き始めましたね。
今日の更新はこれで一区切り!
第一話・第二話・プロローグも合わせて公開中なので、
まだの方はぜひ、そちらもお読みいただけると嬉しいです。
それではまた次の更新でお会いしましょう!