いつかともに手を取り合って ~白雪姫異聞~
むかしむかし、はるか遠く大陸の向こうに一つの王国がありました。その国にはたいそう立派な王さまと、近隣に並ぶ者のないと讃えられる美しいお妃さまがおり、しっかりと国を治めておりました。
王さまにはお子様がおひとりいらっしゃいました。雪のように白い肌と黒檀のような艶やかな美しい黒髪の、とてもかわいらしいお姫さまでした。お姫さまは、若くしてお隠れになった最初のお妃さまと王さまの間に生まれたお子で、今のお妃さまとは血のつながりがありませんでした。お姫さまはすくすくと素直にお育ちになり、その美しさから国民たちに『白雪姫』と呼ばれ、慕われておりました。
白雪姫の義母である今のお妃さまは、白雪姫が美しく成長していく様を複雑な表情で見ておられました。前のお妃さまは出身家の家格も高く、教養もあり、美しく、誰からも好かれていたお方でした。白雪姫もまたその血を受け継ぎ、聡く美しく愛嬌があり、自分にないものをすでにたくさん備えています。今のお妃さまはその美しさを王さまに見初められ、本来ならば釣り合いの取れぬ家格から王妃となりました。今のお妃さまはいつも、周囲から『美しいだけのお飾り』『政の分からぬお人形』と陰口をたたかれ、侮りと憐れみの視線を向けられていました。彼女なりに懸命に努力しても前のお妃さまのようにはなれませんでした。よかれと思って何かしようとしても、臣下にため息とともに否定される日々の中で、今のお妃さまはいつも不安でした。『美しさを失ったら、誰からも見向きもされなくなるのではないか』と。
「鏡よ鏡よ、答えておくれ。この世で最も美しいのはだれ?」
お妃さまは毎日、自室の壁に掛けられた大鏡を覗き込み、そう問いかけます。この大鏡は魔法の鏡。どんな問いかけにも真実を答えてくれる不思議な力を持っています。前のお妃さまはこの鏡を使って王さまの政をお助けしていたそうです。でも今のお妃さまは、どう鏡を使えば王さまをお助けできるのか分かりません。惨めな思いを抱えながら、お妃さまはそっと鏡に手を触れます。
「それはあなたさまでございます」
鏡は毎日、同じ答えを返してくれます。それを聞いたお妃さまはほっとするのです。自分にはまだ価値がある、少しだけそう信じられる気がするから。
「鏡よ鏡よ、答えておくれ。この世で最も美しいのはだれ?」
白雪姫が年頃と呼ばれる年齢に成長し、縁談の話もちらほらと持ち上がる中、今日もお妃さまは鏡に問いかけていました。白雪姫の美しさはお妃さまから見ても輝くばかりで、何よりも成長するにしたがってはっきりと表れる前のお妃さまの面影が今のお妃さまを苦しめていました。まだ王家に嫁ぐ前には憧れを持って見つめていたその姿が、今は自分を脅かすものとして表れてきたのです。美しく聡明で誰からも好かれる。白雪姫がいれば、ただ美しいだけの自分は見捨てられるだろう。まして、その美しささえ失ってしまえば――
「それは白雪姫でございます」
鏡がいつもと同じように真実を伝えます。お妃さまは目を見開き、呆然と鏡に映る自分の姿を見つめました。そう、分かっていたことです。白雪姫が成長するのと同様に、自分も年を取っていく。容色は衰えていく。美しさを失う時がくる。それが今日という日だったという、それだけのことです。
「……認められるものか」
鏡の中の自分を鋭く睨み、お妃さまは両の拳を強く握りました。自分には美しさしかありません。それすら失ってしまえばもう生きる術がありません。それに自分が地位を失えば、それは生家が没落することを意味しています。彼女の生家は北の辺境、決して裕福と言えぬ土地です。今は王家の援助によって冬でも一人の餓死者も出さずに過ごせていますが、王家と縁が切れればそれも難しくなるでしょう。父母のため、臣下のため、使用人のため、領民のために、彼女はどうしても王妃という地位に留まり続けなければならないのです。どのような手段を用いたとしても。
ふとお妃さまは我に返り、鏡の中の自分の顔を改めて見つめました。そこには自らの保身のために手を汚すことを厭わぬ悪魔の如き形相の女がいました。お妃さまは得心のいった顔で虚ろに嗤います。
「これが、美しさを失った女の顔か」
己の卑しさを自覚したお妃さまの目から涙がこぼれます。でも、この道をゆくと決めたのです。ほかならぬ自分自身が、そう決めたのです。手の甲で涙を拭い、固く目を瞑って、次に目を開いたとき、お妃さまの顔からは迷いも後悔もなく、ただ強い決意がありました。
「白雪や」
お妃さまは久方ぶりに白雪姫の自室を訪れました。その手には果物かごを持ち、中には真っ赤に熟したとても美味しそうなリンゴが入っています。でもそのリンゴには毒が仕込んでありました。食べた瞬間に、苦しみさえ感じる暇もなく眠るように死に至る猛毒です。
「お義母さま!」
座ってお勉強をしていた白雪姫は、椅子から立ち上がって嬉しそうにお妃さまに駆け寄りました。お妃さまは少し驚いたような表情になりました。白雪姫は、この子は私に会うのが嬉しいのか。そう意外に思ったのです。
まだ幼かった白雪姫を、何度も愛そうとしました。たとえ血がつながらなくても愛することができると、そう自分に言い聞かせました。抱き着いて甘えてくる幼子を大切に、大切に思わなければならないと、強くそう思いました。でも、できませんでした。白雪姫を見るたびに脳裏にちらつく前のお妃さまの姿が、どうしても振り払えませんでした。そうあるべきなのに、そうあることができない。愛情を偽り、理解ある義母を演じながら、自らの中に湧き上がる嫉妬をどうすることもできずに、お妃さまは白雪姫が成長するにつれて彼女を遠ざけていました。
「お勉強? 偉いわね」
優しく微笑みながらお妃さまは白雪姫をねぎらいました。白雪姫は照れたようにうつむきます。
「先生に宿題を出されてしまって。明日までにできないと叱られてしまいます」
お妃さまは白雪姫の机の上にある本に目を遣りました。お妃さまも王妃となることが決まってから、たくさんの先生を付けてお勉強をしました。でも、お妃さまは先生に怒られたことはありません。先生は皆、ため息をついて「もういい」と言っただけでした。何が分からないかも分からないお勉強の時間は、お妃さまにとってただ否定されるだけの時間でした。
「無理をしていない? 努力することはとても素敵なことだけれど、何事も過ぎてしまえば毒になるものよ」
毒、という言葉を使ってしまったことに内心動揺しながら、お妃さまは心配そうな表情を作ります。白雪姫は「だいじょうぶです」と笑いました。お妃さまに心配してもらったことがとても嬉しいようです。お妃さまの心臓がちくりと痛みます。まぶしい、まぶしすぎる笑顔に、お妃さまは少しだけ目を細めました。
「少し休憩してはどう? 義母さま、リンゴを持ってきたの。一緒に食べましょう」
お妃さまは果物かごからリンゴを取り出し、白雪姫に差し出しました。リンゴはお妃さまが最も好きな果物で、お妃さまの故郷を象徴する特産品でもあります。この憐れな娘が人生の最後に口にするのが、せめてこの世で一番美味しいものであればいい――ただの言い訳だと知りながら、お妃さまは毒を仕込む食べ物にリンゴを選んだのです。差し出したお妃さまの手が、ほんの少しだけ震えました。
「あ、あの……」
白雪姫がリンゴを凝視し、逡巡の表情を浮かべました。まさか、何か勘付かれた? お妃さまの顔から血の気が引きます。息を吸い、意を決したように白雪姫は言いました。
「ごめんなさい! 私、リンゴだけはどうしてもダメなんです!」
固く目を瞑り、白雪姫は直角に頭を下げます。「え?」とお妃さまの口から思わず戸惑いの声が漏れます。リンゴが、ダメ? リンゴが嫌いな人間がこの世にいる? そんなことが本当にありうるの?
「ど、どうして、ダメなの?」
動揺を隠し切れずに、震える声でお妃さまは白雪姫に問いました。頭を上げた白雪姫は本当に申し訳なさそうにうつむきます。
「分からないんです。ただ、近づくと背中がゾワッとして」
ゾワッてどういうこと? 口にすら入れられないの? 唖然として言葉を続けることもできないお妃さまに白雪姫は再び頭を下げました。
「本当にごめんさない! せっかくお義母さまが持ってきてくださったのに!」
白雪姫の目じりに光るものが浮かびます。お妃さまは慌てて白雪姫の肩に手を置き顔を上げさせました。
「い、いいの! 私こそごめんなさい! あなたがリンゴがダメだって知らなかったから! 出直すわね、本当にごめんなさい!」
動揺の収まらぬまま、お妃さまはぎこちない動きで部屋を後にしました。出て行くお妃さまの背に、白雪姫はもう一度頭を下げました。
自室に戻り、お妃さまは頭を抱えて机に突っ伏しました。まさかリンゴが嫌いだったなんて、まるで想像していませんでした。今までお妃さまの周囲にリンゴが嫌いという人間はいなかったのです。何よりショックだったのは、白雪姫がリンゴが嫌いだということを自分が知らなかったという事実でした。
「……私は、あの子のことを何も知らないのね」
義理とはいえ娘のことを、その食べ物の好みも、知らなかった。会いに行けば喜んでくれるということも、知らなかった。知らずに殺そうとしていた。お妃さまはぎゅっと目を瞑ります。
(……これから殺そうというのに、今更迷うな!)
目を開け、お妃さまは立ち上がります。これは戦い、自らの生存を掛けた戦いなのです。臆せば負ける。負ければこちらが消え去るのです。
「加工して、リンゴの雰囲気を和らげてみてはどうだろう」
アップルパイを作ってみようか、そう呟きながら、お妃さまはお菓子作りの本を取り寄せるよう手配すべく部屋を出て行きました。
それからお妃さまは毎日のように、毒を仕込んだリンゴのお菓子を持っては白雪姫の部屋を訪れました。アップルパイにコンポート、リンゴゼリーにりんご飴。しかしその結果は散々なものでした。
「これ、リンゴ入ってますよね?」
「うーん、リンゴが主張してます」
「残念! 気配が残っていますね」
細かく切っても、すりおろしても、果汁を搾っただけであっても、白雪姫はほんのわずかリンゴが含まれただけで見事にそれを喝破しました。お妃さまは調理台の前で苦悩を滲ませながら叫びます。
「いったい何なのだ! リンゴを感知する特殊能力でも持っているのか! 気配が残っているってどういうことだ!」
加工した程度ではどうにもならないほどに、白雪姫の感覚は正確にリンゴを捉えているようです。ブランデーを入れてリンゴの風味を飛ばしてみましょうか――おっと、白雪姫は未成年でした。砂糖を多めに――でもそれでは、リンゴの爽やかな甘みが台無しです。明日のための試作を終え、最後の仕上げに毒を仕込もうとして、お妃さまはふと手に持つ毒の瓶を見つめました。
「……毒など入れるから味が決まらんのだ! まず食べてもらえなければ話にならん!」
苛立ちと共に毒の瓶をゴミ箱に投げ入れ、清々した、と言うようにお妃さまは大きく息を吐きました。今まで毒を入れていたために、最終的な味見ができなかったのです。その制約から解き放たれ、お妃さまはますますお菓子作りに力を注ぎました。しかし――
「なし寄りのなし」
「これでもダメか……」
今日も白雪姫の冷酷な判定を受け、お妃さまはがっくりと肩を落としました。白雪姫は楽しげに微笑みます。今までずっと距離を置かれていた義母が毎日のように会いに来て、『お菓子にリンゴが入っているか当てましょうゲーム』を繰り広げている、そんな感覚なのでしょう。うつむいてぶつぶつと次の算段をしているお妃さまをよそに、白雪姫は席を立ち、紅茶を注いで差し出しました。ありがとう、と言ってお妃さまは紅茶を受け取り、口を付けます。ふくよかな香りが部屋に広がりました。
「どうして」
白雪姫はどこか面白がっているような顔でお妃さまに問いました。
「そこまでリンゴにこだわるのですか?」
お妃さまはきょとんとした顔で白雪姫を見つめます。そういえば、どうして自分はそんなにリンゴにこだわっているのだろう。果物なら他にたくさんあります。そもそも果物でなければならないわけでもありません。でもお妃さまは、リンゴ以外を使おうなんて思いつきもしませんでした。お妃さまは首を傾げ、改めて考えました。どうして白雪姫にリンゴを食べさせたいのか――はっと息を飲み、わずかに顔を赤くして、お妃さまは白雪姫から目を逸らせました。
「……内緒」
「どうしてですか!?」
口を尖らせて白雪姫は抗議の目をお妃さまに向けました。お妃さまは強弁するように胸を張ります。
「あなたがリンゴを食べた時に教えてあげる」
白雪姫は意地悪な顔で言い返します。
「あら、それでは私は一生、理由を教えていただけませんわ」
芝居がかった不似合いな高慢に、二人は顔を見合わせて吹き出しました。「あーおかしい」と言ってお妃さまは席を立ちます。白雪姫が座ったままお妃さまを見上げました。
「しばらく城を空けるわ。ここにも来られない」
白雪姫は驚いたように目を丸くします。お妃さまが城を離れるなど、王さまと一緒に領内を視察したり外遊に出たりすることを除けばほとんどありません。しかし外遊の予定はしばらくないはずでした。
「どちらに?」
「それも内緒」
内緒ばかり、と白雪姫は不満げに頬を膨らませました。優しく目を細めて白雪姫の頭を軽く撫でると、お妃さまは部屋を出て行きました。扉を閉めたお妃さまは誰にともなく独り言ちます。
「もはや根本的に、リンゴそのものを変える以外に方法はない」
お妃さまの目に新たな決意の光が宿りました。
お妃さまは支度を整えるとすぐに城を発ち、まずは高名な農学者の許を訪れました。頭を下げりんごの栽培方法の教えを乞うお妃さまに困惑した農学者は、
「それは王妃様のなさることではございませぬ」
と拒絶します。しかしお妃さまは諦めません。
「世界で一番美味しいリンゴを、誰もが食べて笑顔になるリンゴを作りたいのです! どうか、お知恵をお貸しください!」
断られても断られても毎日訪ねてくるお妃さまに根負けし、農学者は栽培方法を教えてくれることになりました。農学者の講義を受け、学術書を読み漁り、農業の基礎理論を修めたお妃さまは、さらなる勉強と並行して実際のリンゴ栽培を体験すべく故郷へと向かいます。リンゴ農園を訪れ、農夫たちに頼み込み、農園の一角に実験用の栽培区画を設けて品種改良と新たな栽培方法の試行を繰り返します。そこには、自らの美しさに縋り、己の無価値に怯えていたかつての姿はありませんでした。
城の者たちは噂します。
「お飾りの王妃が気まぐれに遊んでいるようだ」
「おとなしく城で化粧のことでも気にしておればよいのに」
「どうせすぐに失敗して泣くことになろうよ。中身のないお人形に何ができようか」
しかしもう、お妃さまにはそんな雑音は聞こえません。だってお妃さまが認めてほしいのは、うわべだけで人を判断して何も理解しようとしない有象無象ではないのです。白雪姫にリンゴを食べさせたい。おいしいと言わせたい。そのたった一つの想いがお妃さまを突き動かしていました。
実際にリンゴを栽培する中で、お妃さまは様々な課題に気付きます。病害虫の防除、台風による落果対策、収益性の低さ、農家の高齢化と後継者問題。城の中にいては気付くことのできなかったたくさんの問題に、お妃さまは一つずつ、試行錯誤しながら誠実に向き合いました。お妃さまのその態度はりんご農家の皆の心を打ち、最初はお妃さまにしぶしぶ従っていた者たちも皆、積極的に協力して知恵を出し合うようになりました。お妃さまは農家の話を丁寧に聞き、必要な予算を国庫からねん出し、ときに財務官僚と激しい論戦を交わして、少しずつ王国の農業行政を変えていきます。瞬く間に時間が過ぎ、そしてついに、お妃さまと農家の皆さんの知恵と努力の結晶――新品種『農林73号』が実を付けました。
「これを」
お妃さまは白雪姫に真っ赤なリンゴを差し出します。艶やかに光を反射する美しい赤は、まるで紅玉のようでした。白雪姫は差し出されたリンゴを手に取ります。周りでは村を代表して訪れた数人の農家が固唾を飲んで見守っていました。甘みと酸味の絶妙なバランス、玉の大きさ、そのまま食べても口に障らない皮の薄さ。栄養価にも優れ品質のバラツキもない、今の技術で考えられる最高のリンゴを用意したつもりです。もし、これでダメだったら――
おそるおそる、といった様子で白雪姫はリンゴを顔に近づけ、小さく口を開き、そして――ひとくち、かじりました。
「……おいしい!」
白雪姫が驚きに目を見開き、思わずといった様子で声を上げました。農家の皆さんが歓声を上げ、天に拳を突き出します。
「リンゴがこんなにおいしいなんて知らなかった。今まで食べたどんな果物より、このリンゴが一番美味しい!」
感嘆のため息とともに白雪姫は手に持ったリンゴを見つめました。お妃さまはホッと安堵を顔に浮かべました。今日、この日のために重ねてきた努力が実を結んだのです。力を貸してくれた人たちの苦労が報われたことが、お妃さまには何より嬉しいことでした。
「約束」
白雪姫がお妃さまを見つめて言いました。
「どうしてリンゴにこだわるのか、私がリンゴを食べたら教えてくださる約束でした」
お妃さまは、忘れていた、とややバツの悪そうな顔をすると、どこかたどたどしく答えました。
「……リンゴは、私の故郷の名産なの。生まれた時から身近にあって、私はリンゴが大好きだった。だから、その……」
言い淀み、目を伏せて、お妃さまはか細い声で言いました。
「私の大好きなものを、私の大好きな人が嫌いだったら、悲しいから」
愛そうとしていました。でも愛せませんでした。大切に思わなければならないと思っていました。でもできませんでした。ずっとそう思っていました。でも、違ったのです。愛せないと思っていたのは、白雪姫を通して幻視する前のお妃さまへの嫉妬が邪魔をしていたからでした。大切に思えなかったのは、自分自身に自信が持てない劣等感が邪魔をしていたからでした。嫉妬も劣等感もはぎ取ったその奥に、最初からあったのです。「大好き」という気持ちが、最初から。
「お義母さま!」
白雪姫はお妃さまに駆け寄り、飛び込むように抱き着きました。
「大好きです! リンゴも、お義母さまも!」
強く抱きしめる腕の力を感じながら、お妃さまはそっと白雪姫の背に手を回しました。白雪姫はまるで幼子のようにボロボロと涙を流しています。ずっと抱えてきたわだかまりが消え――いえ、きっとわだかまりなどなかったのです。ただ臆病なだけだったのです。白雪姫の背を撫でるお妃さまの目からぽろぽろと涙がこぼれました。
その後、農林73号は栽培面積を急速に拡大し、高い品質と供給の安定性からブランド化され、王国の主要な貿易品目として大いに富をもたらすことになりました。『食べる紅玉』と呼ばれ、近隣諸国にその名を轟かせたそのリンゴは王国の代名詞となり、国民は誇りと共にその名を、そしてそれをもたらした賢きお妃さまを讃えました。白雪姫は王国リンゴ大使として各国を巡り、外交通商に大活躍しています。二人は共に手を携え、後に王国の千年の礎を築いた英雄と評されることになるでしょう。王国の未来は約束された、その希望を、二人はこの国にもたらしたのです。
忙しい毎日を送る中、お妃さまは久しぶりに自室の鏡を覗き込みました。あれほど気に病んでいた美しさへの執着も、今はただ懐かしいばかりです。日に焼けた自分の顔に少しだけ苦笑して、お妃さまは言いました。
「鏡よ鏡よ、答えておくれ。この世で最も美しいのはだれ?」
鏡はいつものように真実を淡々と告げます。
「それは、あなたがた母娘でございます」
お妃さまはその答えに目を丸くし、そして今までに見たこともないような嬉しそうな顔で笑ったのでした。