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「あの傷薬、売れに売れていますね」
副作用の少ない、比較的安価で作れるクラレットさんの傷薬は飛ぶように売れた。
「ああ、これで我がカペル国は安泰であろう」
大国二つに挟まれた小国のカペル国は強いて特産物もない、国力もない小さすぎる国で、他国に侵攻されればものの数日で落ちてしまうような弱い国だ。
クラレットさんはそんなカペル国民に傷薬の製法を教えた。
しかしその優秀な薬がカペル国に不幸をもたらすとはこの時は誰も想像もしなかった。私たちは蜂蜜瓶の中で暮らしているような、甘く緩やかで黄金色の時間を過ごしていた。
ある日突然魔法が無くなり、世の人々は競うようにクラレットさんの傷薬を求めるようになるまでは。
そうだ。見てきたのだった。あの人の隣で、薬で多くの人々を救う所を。私はあの人と共に激動の世の中を奔走していた。
数百年間、事あるごとに侵略を受け、その度に傷薬を全て渡せ、製造者を差し出せ、製造方法をよこせと武力でもって薬を奪い取られるようになっていった。
そして伝染病が流行した数年前、クラレットさんが残した多くの薬は失われており、民を守ることも出来ず、国が亡ぶまでとなった。
もう、カペル国民だと名乗る者はどこにもいない。国があった場所には崩れ壊れた家屋や、荒れた田畑しか残っていないのだ。
そうだ。ずっと見ていたのだ。あの人がいなくなったこの国の行く末を。あらゆるものを奪われて簡単に無慈悲に捨てられて、最後には何もかもなくなった姿を。
思い出した。
確かに私はクラレットという女性薬師の助手をしていた。
クラレットさん、貴女は今を見てどう思うのでしょうか。私は胸が苦しくなって呼吸が止まってしまいそうです。
「息をして!」
女性の必死な声に心臓がどくどくと動くのを感じた。ゆっくり目を開けると、そこに居たのは親愛なるあの人ではなく、ソラヤだった。
「シールさん。死んじゃうかと思った」
私の胸の上で大粒の涙をボロボロ零しながら、まるで子どものように声を出して泣き始めるので、困ってしまう。見た目年齢より彼女の心はずいぶん幼いようだ。
「一時は呼吸が止まったんですよ。良かったです、息を吹き返してくれて」
カナスタまで涙目で、鼻をすすっている。
「キュフは、どうした?」
「おかげさまで大丈夫です。あそこですやすや眠っています」
すっかり小さくなった焚火の側で、シレントに温められながら少年が眠っているのが見えた。
人にあれだけ密着するのを許すあたり、あのシレントは野生ではなく、誰かに飼われているのだろう。
「成功したようで何より。ああ、私は死に損なったようだな」
火傷をしたようで手も足も顔もヒリヒリして動かすだけで痛む。激痛というほどではないので、死ぬことはなさそうだ。
「ソラヤが火傷の薬をありったけ塗っていました。きっと大丈夫です」
私の上で泣き続ける少女の頭をなでてやると、顔を上げるように言った。
「何の薬を使ったのだ?」
「ふぃ、フィアーノ。あ、あるだけ使ったんですが、沢山なくて、ご、ごめんなさい」
泣きすぎてしゃっくりまで出てしまっている。会って間もないのに、そこまで私の為に泣かなくてもいいのに。
「フィアーノで正解だ。それにその薬は少量でも効果は高い。その薬もクラレットさんが作ったからな」
「クラレットさん?」
「思い出したんだ。私はクラレットという女性薬師の助手をしていたということを」
思い出そうとすれば次々に甦ってくる。彼女の表情や喋り方や、彼女の友人までも。
どうして忘れてしまっていたのだろう。あんなに大切に思っていたのに。
「クラレットさんは貧しい人にも使いやすいようにと、少量でも効果が出る火傷の薬を開発していた。薬が出来上がった時、目の前にフィアーノというタイトルの本があって、本の名前から付けた」
カナスタが「たいとる?」と聞きなれない単語に疑問を持ったようだったが、ソラヤが「題名っていう意味です」と的確な説明をした。
「フィアーノってどんな内容の本なんですか?」
「確か、恋愛小説だったと思うが……」
「恋愛と火傷ってどんな関係があるんですか?」
「名付けなどいつだって気まぐれだった」
まあ、火傷薬については皮肉が混じっていただろうと思うが、多くの場合、彼女は薬が完成したとき、目についたものを名前に付けていた。
「もしかして、傷薬のアシリは、グッタの青将星アシリ様から付けられたのですか?」
「カナスタの言う通り、薬が完成したとき、目の前にアシリさんがいたからだ」
目をつぶれば見えてくる。遠い昔の懐かしい景色が。
「本当に、いつも適当に名前を付けて呆れるくらいだった」
確か彼女と名前について話したことがった。私は私自身の奥深くに眠る記憶を探した。
「やはりあの傷薬、アシリという名前が良かったのでしょうか」
その名前はグッタ国の有名な武人の名前から付けられた。他国にもその名が響いていることも相まって、薬屋は遠い北国まで売りに行っても稼げているそうだ。
「たまたま、完成したときに近くにいただけなんだが、正解であったな」
クラレットさんは自分で作った薬に凝った名前は付けない。いつも目の前にある物や、思いついた言葉などを直感的に付けてしまう。
「どうせ次の薬も適当な名前を付けるんでしょうね」
私がため息交じりにそう言うと、クラレットさんは鈴を転がしたように笑ってこう言った。
「私は必ず、心を癒す薬を開発する。その時は親友の名であるシールという名を付けるぞ」
「……心にって、いつになることやら」
私は嬉しくて仕方がなかったが、その感情をそっぽを向いてこっそり隠した。
「作り方は頭の中にすでにあるのだ。あとは形にするだけなのだぞ。シール薬もきっと良く売れることだろう。君もそう思うだろう?」
窓から差し込む朝日がクラレットさんの横顔を照らしていた。
「いつか私の名前の薬を作ってくれると約束してくれたんだが、叶わなかった」
ようやく泣き止んだソラヤが、袖で涙を拭って自分の服のポケットから手巾を取り出し、なぜか私の顔を拭く。
「どんな薬に付ける予定だったんですか?」
どうやら煤汚れを拭いてくれているのではなくて、私の涙を拭いてくれているようだ。きっと目に灰が入ったのだろう。
「心を癒す薬だそうだ。すでに私の頭の中に作り方はあるのだと豪語していたが、私は非現実的だと思っていた」
人の心とは様々で複雑だ。その心いう抽象的な何かを癒すということが、薬で可能になるとは到底思えなかった。
「あの人は若くしてこの世を去った。薬はもちろん完成しなかったし、祖国であるカペル国を他国から守ろうと製薬法を全て国民に譲ったが、こうして滅んでしまった」
今、仰向けになったままから見える景色は、少し白んでいく夜空だけだ。聞こえてくる音は風の音だけ。かつては人々の生活する姿や賑やかな声が四方八方から聞こえていた。
もう、ここには何もない。
「私は見ていることしかできなかった。クラレットさんが大切にしていた物が次々に奪われ、失われていくところを、ただただ眺めていた」
あまりに不甲斐なくて自分を激しく責めたこともあった。見るに堪えられなくなってカペル国から離れたら、年をとるごとに大切な記憶をどんどん忘れていった。
記憶が少なくなってもこうしてここへやって来たという事は、本能的に最期くらいは私の手で終わらせようと思ったからなのかもしれない。
「クラレットさんはカペル国の行く末にはさぞや悲しんでいるだろうな」
魔法が人々の手から突然消えた後、彼女はすぐに命を落としてしまい、ついぞ心を癒す薬は世には生まれ出ることはなかった。
シールという名の薬はこの世のどこにも無く、これから生まれることもない。
ただあの人の心の中にだけ存在する、私の名前が付けられた幻の心薬。
「いいえ。クラレットさんはカペル国の行く末を見ていても大丈夫ですよ」
ソラヤが私の隣で白い息を吐きながらそう優しく呟いた。
「どういう意味だ?」
「だって、クラレットさんの頭の中にはシールがあるからです」
どこからその自信に満ち溢れた言葉が出てくるのか、思わず笑い声がこぼれてしまった。
「笑わないでくださいよ。だってそうでしょう?心の薬シールはクラレットさんにしか効かない特効薬なんです」
上手いことを言ったつもりなのか、ソラヤは満足げな表情だ。
「ソラヤにもあるのか?特効薬とやらは」
「さあ、どうでしょうね」
微笑みではぐらかそうとしていたが、答えはすぐに分かってしまった。記憶の無くなった少女にしてはいけない質問だったと、深く反省した。
目の前の少女の頭に手を乗せると、彼女は少し寂しげな目をして虚しい笑みを口に浮かばせるのだった。
陽が登ると、薔薇星はすっかり見えなくなった。焚火を消すと、その後には真っ黒く焦げて原形をとどめていたい香炉が見つかった。
「族長に大目玉だろうな」
「シールさんの家ってどこなんですか?」
カナスタが香炉を木の枝で突っつきながら質問してくる。
「それは秘密だ。プルモは里を人に教えてはならん決まりでね」
「確かに、プルモの里というのは聞いたことも見たこともないな」
ソラヤは「どうやれば隠し通せるの?」ととても疑問に思ったようだったが、私の口からは何も話せない。
「ここにいたのか」
どこからともなく男性の声が飛んできて、その声でキュフの側で伏せていたシレントが飛び起き、声のした方へ駆けだす。
シレントが駆け寄ったのは、旅人風の目元以外を布で覆った怪しい男だった。
「そなたはそのシレントの飼い主か?」
私は溶けて短くなった火吹き棒を手に取って、旅人に問いかけた。
「いかにも。光の方へ向かて来てみればやはりここにいた。私のシレントが何か悪さをしなかっただろうか」
光とは私が集め逃がした魂や、燃え上がらせた焚火の事だろう。いくら誰もいない地だったとはいえ、遠くからでも目立ったようだ。
「いいえ、キュフを温めてくれて助かりました。ありがとうございます」
ソラヤが頭を下げると、旅人はシレントの働きを褒めるように首を優しく撫でてやる。
「その少年は病気か何かなのか?」
「いろいろあって眠っているだけなので、大丈夫だと思います」
カナスタがあれから眠り続けているキュフを背に担ごうとするのだが、椿獅子に噛まれた腕が痛むようで、上手く背負えない。
「旅の者、これから何処へ向かう予定だ?」
旅人は私と視線を合わせるように、膝を折ってくれる。悪い奴ではなさそうだ。
「当てのない旅ですので」
「では、悪いがあの三人をアルスまで案内してくれないか。旅人ならばこの辺りの道にも詳しいだろう」
少し悩んだようだったが、「アルスなら行ってみてもいいかもしれません」と快く申し出を受けてくれた。
「少年は私が背負いましょう」
自分の荷物をシレントに巻き付けると、旅人はキュフを軽々と背負った。服の下は見えないが、きっとよく鍛えられていると想像がついた。
「シールさんも途中まで一緒に行きましょう」
ソラヤが私の腕をとって引っ張って行こうとするが、その手を振りほどいた。
「悪いが方向が違うのだ。ここでお別れだ」
「そうですか。また会えますよね」
命など簡単に落ちてしまうもの。当たり前に次があるなど思ってはいけない。
「さあ、行きなさい」
「……大変お世話になりました。キュフを救ってくれてありがとうございました」
私は一度小さく頷いて、「さっさと行け」と手で払いのけるように振った。
ソラヤとカナスタが大きく手を振るので、つられて私も手を振ってしまう。手を振るなんて何年ぶりだろうか。気恥ずかしくなって、すぐにやめた。
遠ざかっていく背中が小さくなって、見えなくなった時、目の前に光る蝶が通り過ぎた。
光る蝶はおそらく私が集め損ねた魂だろうと思う。魂はごくまれに虫の姿に変化して、会いたい人に会いに行くという。この蝶も誰かの許へ飛んでいくのだろう。
「シール。真鍮の蝶は何を探しているのだと思う?」
クラレットさんの声が聞こえた。そう言えば、クラレットさんは蝶を見かけるたびに目で追って、私にそんな質問をよくしていた。
「きっと、誰かを探しているんですよ」
私の答えはいつだって同じだ。魂の蝶は愛しい人を探すために羽ばたくのだから。
溶けた火吹き棒を帯に差し込み、ボロボロの香炉を抱えて彼らとは違う方へ歩き出す。
さあ、また人生を始めるとしよう。
クラレットの薬はよく売れる。貧乏旅の我々にとってはとても有難い収入源だ。
みんなが寝静まっても、ランタンの灯の下でノートに沢山の計算式を書いている。僕がまだ眠らないのか?と尋ねると、疲労の色が見える目で睨んできた。
「友と約束した薬を完成しなくてはならんのだ。放っておけ」
それはどんな薬なのかときくと、それは心を癒す薬だと言う。
「心の病で死ぬ者が多いのだ。心を誤魔化す魔法はあるが、癒す魔法はない。だから作りたいんだ」
戦争に行きたくないから死ぬ。戦争から帰って来たから死ぬ。戦争で故郷を奪われたから死ぬ。長く生き過ぎたから死ぬ。ランタンの灯が消えたから死ぬ。
人々は様々な理由で心の病に罹り、自ら死を選ぶ。クラレットは薬で人々を救いたいと本気で思っている。
僕は彼女の助手の名を出して、「君は心の病に罹らないだろう」と言った。
「私は親友のシールがいるからこうしてどんなことも絶望せずにやれている。君はどうなんだ?辛い時に頼れる誰かはいるのか?」
嗚呼、その質問は苦しいな。
僕は答えられず、俯いたまま立ち上がってこの場を立ち去ろうと思った。
「薬が出来たら君に真っ先に処方するから」
その言葉には喜ぶべきなのだろうけど、僕は素直には喜べず奥歯を噛みしめたのだった。
エアルの手記より。