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忘れたくない人
女性薬師はありとあらゆる草花を調合し、新しい傷薬を開発した。
僕は、魔法があるのだから薬など不要なのではないかと尋ねた。
「この馬鹿者が。助けを求めるすべての者が、治癒魔法を使う者の恩恵に与れると思っているのか?」
彼女は僕より年下だが、しっかり叱ってくれる賢く逞しい人だ。
すまない、と素直に謝ると、すぐに優し気な表情に戻ってこう言うのだった。
「人々は魔法に頼ってはいけないのだ。己の手で生み出せる、生み出せたものにこそ、その価値は宿るのだから」
エアルの手記より。
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凍えた風が音を鳴らして通り抜けていく。日が暮れて時間が経つごとに気温は下がっていき、土から冷気が登って私の足をじんわり冷やし始めた。
「この辺りで良かろう」
腰をおろせそうな石が積まれた場所を見つけ、軋む足腰をゆっくり曲げて座り込む。おそらく、この地に住んでいた人が石を積み、何かを作った跡地だろう。しかし、いったい何のなれの果てなのかは想像がつかなかった。
私は背に担いでいた荷を下ろして、大きい鉄製の香炉を足元に置く。そして火打石で香炉の中に火を点し、特別な香木をくべた。
「はぁ。火を熾すだけで一苦労だ」
少し前までは香炉を重いとも思わなかったが、今はこれを背負っているだけで膝がギシギシ傷んでしまう。
手に馴染んだ愛用の柄の長い火吹き棒を口にくわえ、火を強火になるように吹く。
「さあ、何日かかるだろうか」
この辺り一帯に香木の香りが行き届くまでにどれくらいの日にちが掛かるだろうか。寒さが身に染みる体だ、なるだけ早く終えたいものだ。
ふわっと冷たい空気の中に香木の煙が漂い始めると、遠くの山野から流れ込んでくる乾いた風が一気に攫っていく。
「風よ。全ての逸れ者たちに届けておくれ。私はここに居ると」
「確か、この辺りに小さな集落があったはずなんだが」
香を焚き始めて二日目、近くの山道の出口から女性の声が聞こえてきた。年の頃は二十代くらいで、他にも人を連れているようだった。
「なーんにもありませんね」
「ようやく山から出られたのに、キュフどうしようか」
一人は十代の男の子で、もう一人は二十歳前くらいの女の子だ。そして女の子の肩には赤い鳥が停まっている。
「良い香りがするんだけど、花でも咲いているのかな?」
小さな男の子は鼻をひくひくさせながら、左右を見渡している。どうやら私の焚いている香の匂いが分かるらしい。これは珍しい。
「花が咲いているように見えないね。本当に何にもないもん」
女の子の言う通り、この辺りには何もない。民家らしき建物の崩れた跡や、根だけが残った大木、枯れた農作物の残骸に、物だった何かの破片や切れ端。ここには形が残っている物は殆ど無かった。
「戦でもあったのだろうか」
一番年上の女性が怪訝な顔つきて辺りを見渡し、そしてようやく私の姿を見つけたようだった。
「キュフ、ソラヤ、あそこに人が」
隠れようとも思ったのだが、そもそも隠れられるような場所がないので、諦めた。
「ソラヤ、ユウレイとかっていう奴じゃないよね」
「た、たぶん。生きたお爺さんだと思う」
どこをどう見たら、私が死人に見えると言うんだ。まだまだ現役であるし、しかもこれから本調子になるのだから。
三人が警戒しながら私を観察していると、女の子の肩に乗っていた赤い鳥が突然翼を広げて、私目掛けて一直線に飛んで来たのだった。
「おお!」
あまりに勢いよく真っすぐ飛んで来たので、驚いて背中からひっくり返ってしまった。
痛い。背中と後頭部が痛い。
「ロア、待って!」
赤い鳥はロアというらしい。ロアはなんてことないすっ呆けた顔で私の側に着地し、首を傾げて見せる。
「お爺さん、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
真っ先に駆け寄ってきたのは女の子だった。そしてその後ろに背の高い女性か続く。男の子は足が遅いのか、息を切らせながらノロノロと足を動かしている。
「お爺さん、大事ないですか?手を貸しましょう」
私は女性二人に手を貸されながらゆっくり助け起こされる。
「大丈夫。大丈夫。こう見えてもそんなに年寄りでもないはずだ」
「爺さん、どう見てもお年寄りに見えるよ」
ようやく追いついた男の子が憎まれ口を叩きながら少し微笑んだ。
「お前さんたちは、こんな所に何しに来たんだ?ここには何にもないぞ」
私は掌の土を払い落としながら、三人と一羽に尋ねた。どう見ても訳ありだ、どうしてあんな険しくて有名な山道から出て来たのか、少し興味が沸いた。
「アルス国に行きたいんです」
背の高い方の女性が困った風に白い歯を見せた。
「それならばどうして東の大きな街道を通らないんだ?」
どう考えてもグッタ国方面から来たのならば、山越えよりも明らかに大きな街道を通るのが楽だ。あそこは商人が行き来する街道で、迷うこともない舗装された平たんな道だ。女性二人とヒョロヒョロの子ども三人でこちらの山道など無謀にもほどがある。
「事情があり、人目につかない道を選ばなくてはならないのです。確かアルスの西側に繋がる道がありましたよね」
「無くはないが……この季節は危険だぞ」
私の「危険」という言葉に女の子と男の子が嫌そうな表情を浮かべた。
「爺さん、危険ってどんな危険?」
黙ってしまった女性の代わりに男の子が質問する。
「冬になると、アルスの西側には獣が出る。冬眠しない獰猛な獣だ」
「まさか、椿獅子?」
女性の言葉に首を縦に動かすと、三人は青ざめた顔色になり言葉を失って俯いてしまった。
椿獅子とは冬でも活動する大きな体躯。真っ白の毛長獅子で、肉食獣だ。名前の由来は純白の毛並みに獲物の返り血が椿の花のようだといわれているからだとか。夏は山や森の動物を狩り、冬は人間を狩る。特に背の低い子どもやか弱い女性、老人を狙う。
足が速く爪も鋭い上に、顎の力が強いので遭遇すれば生還する者は殆どいない。
我々プルモは小柄故、この獰猛な獣に何人も殺されてきた過去を持っている。
「いくら事情があろうが、東の街道へ出た方が得策だ」
三人は不安そうな表情を浮かべて、小さなため息を吐いた。