第65話
治と別れた後の咲は、エレベーター内で呪詛を呟くかのように名前を口にし続けていた。
「治くん……咲、治くん……咲」
名前を口にするたび、咲は口元が緩んでしまった。
それをエレベーター内に備え付けられた鏡で確認しては、顔を引き締めなおすが、すぐにまた崩れる。
名前を呼んでもらったとき、彼氏、と仮に嘘でもそう言ってもらえた時。
その二つが咲の表情をさらに緩める。
十階についた咲は弾むような気持ちのままに歩いていく。
その勢いのままに自宅に入り、それからソファで横になる。鼻歌混じりに電気ケトルでお湯を沸かしながら、カップ麺を三つ並べて用意する。
それらの動きは一切の無駄がなかった。
カップ麺を三つ平らげたあと、部屋に残っていた電子レンジでごはんを用意し、残っていたラーメンのつゆと一緒にごはんをかきこんでいく。
そこまで終わっても未だ幸福感は消えず、咲はそれを共有したく思ってスマホを取り出した。
電話をしたのは、もちろん真由美だ。
数コールの後、真由美が電話に出た。
『なにー? どうしたの?』
「ふふ、ふふふふ!」
通話がきれた。咲はすぐさま電話をかけなおした。
「な、なぜ電話を切ったのですか!」
『いや誰だって開口一番不気味な笑い声が響いたら、ねぇ?』
「だからって失礼ではないですか?」
『いやいや、それはこっちの台詞だよまったく。……それで? 何かいいことでもあったの?』
「ええ、まあそうですね! 聞きたいですか?」
『うーん、いいかな? それじゃあね』
「き、聞いてください! 話させてください!」
『もう、だったら初めからもったいぶるようなこと言わないでよね。……っと、そういえば確認したいんだけど、今日の告白はどうだった? 大丈夫だった?』
まったくもって大丈夫ではなかった。すべてを説明するには、まずそこから話す必要があったため、咲は口を開いた。
「……告白されまして、断ったのですが」
『ありゃ? なんだか問題発生しちゃった感じ?』
「その通りなんですよ! 告白してきた男性にかなりしつこくつきまとわれてしまいまして……」
『うわー、本当? やっぱり私も帰り一緒にしたほうが良かったんじゃない?』
「でも、たぶんそれでもあきらめてくれなかったと思いますよ。かなりしつこかったので」
『えー、そこは男らしく諦めてほしいよね。で、大丈夫だったの? 何もされてない……よね? まあ、かなり上機嫌だったし』
「はい、そこで先ほどの私の話に戻りますよ! とりあえず家に帰れば嫌でも諦めるだろうと思いまして、ほとんど無視するように歩いていたんです。けど、家近くまで来ても諦めてくれなくて、その時、治さんが来てくれたんです!」
『治さん? ……あれ? 名前で呼んでたの?』
「ふ、ふふふふ!」
再び通話が切れた。
咲はすぐに電話をかけなおすと、真由美が声をあげた。
「だから、いきなり切らないでください!」
『じゃあ、いきなり不気味に笑わないでね。……やけに上機嫌なのって、もしかして名前で呼んでもらったからなの?』
「ふふ、そうですね。お互いに名前で呼びあおうという話になりました」
『そっかぁ、良かったね。ていうか、治く――』
真由美が治の名前を呼ぼうとしたため、咲はすかさず声をあげた。
「ま、真由美まで名前で呼ばないでくれますか!」




