第64話
心臓が口から飛び出しそうなほどに緊張していた。
「……」
固まった咲の表情を見て、治はすぐに首を横に振った。
「わ、悪い。別に変な意味じゃなくてな」
失敗した――否定の言葉を口にしようとしたその瞬間。
治の左手がぎゅっと力強く握られた。治がそちらを見ると、そこでは瞳を潤ませて、上目遣いに覗きこんでくる咲がいた。
その表情にくらり、眩暈を覚えたような衝撃を受ける。彼女の愛らしさに、治は動悸がより一層激しさを増した。
「……なし、じゃなくていいです」
「え?」
治は聞き返していた。咲は空いている片手で髪先を弄りながら、つづけた。
「い、いいいいですよ……? そのかわり、私も……治さん、と呼ばせてください」
名前を呼ばれ、どくんと心臓が跳ねた。
「……い、いいのか?」
「……はい」
お互いに見つめあうと、咲の頬が染まっていく。治は早くなる脈拍を自覚しながら、声を絞り出した。
「……咲」
「は、はいなんでしょうか?」
嬉しそうに微笑んだ咲に、治は苦笑する。
「いや、その……呼んでみただけだ」
「そ、そうですね。練習は必要ですよね……っ。次は私も良いでしょうか?」
「あ、ああ」
治は深呼吸をして、その一言に備える。
咲は頬を赤らめながら、可愛らしく微笑んでその綺麗な唇を震わせた。
「治、さん」
可愛らしい声が耳を撫でた。治は彼女の言葉に、体が飛び跳ねそうなほどの幸福感に包まれた。
「な、なんだ?」
「よ、呼んでみただけですよ……。その、もう一度呼んでみてくれませんか?」
「……それは、ちょっと、はずかしいというか」
「よ、呼んでください。……聞きたいんです」
うるうるとした上目遣いでそう言われ、治はそれを突っぱねることはできなかった。
「……咲」
「……はい、ありがとうございます」
そういって微笑んで去ろうとした咲の手を掴む。
「俺ばっかりずるくないか? 次は、咲の番だ」
「え? な、何のことですか?」
「すっとぼけるなって。もう一度、名前で呼んでくれないか?」
「……え、えーと」
顔を赤くした咲が、視線を外に向け恥ずかしそうに微笑んだ後、
「……治さん」
「……ああ、ありがとな、咲」
「はい……治さんもです」
自然とお互いに呼びあえるようになったところで、マンションへと着いた。
繋いでいた手を離すと、咲は少しだけ名残惜しそうな表情を見せた後、首を横に振った。
「咲、何か困ったことがあったら言ってくれ。俺のできることなら、なんだってするからな」
「……はい、ありがとうございます」
「ファミレスとか行って、財布忘れたときも呼んでくれていいからな? 助けに行くから」
「……むっ、馬鹿にしましたね?」
「そんなことないって」
お互いに笑いあってから、咲は片手を振りながらマンションのエレベーターへと向かう。
「それでは、またこんど」
「……ああ」
治は咲に手を振り返し、それから背中を向けた。
マンションを離れたところで、ふとマンションを見上げた。
吹き抜けた風を掴むように拳を固め、治は息をついた。
「少しだけ……前に進めたかな?」
自分の行動を思い返し、羞恥に襲われた治は、夜風で体の熱を冷ますようにゆっくりとアパートまで歩いていった。




