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6 居場所への帰宅


―――約束の期限まで、あと四日。


「花さーん。おーい花さーん」


お願いだから返事してくれよ、と俺は切実に思った。


時刻は午後六時を回った頃。まだライトがなくても見えるが、それでも黄魔がとき、段々と影が溶けてなくなっていくのが分かるような微妙な暗さの時間だった。


昼に退社してから一度家に帰り、それから俺は今までずっと花さんを探し続けていた。


「駄目だ…全く見つかる気配がない」


心底うなだれ、嘆息する。


花さん…ドコ行ったんだよ。オマエがいなくなったおかげで覇気のなくなった俺が、女豹どもに狙われてるじゃねーか。


花さんがいれば毎日うざいくらい元気なのに…ッ!


彼女が帰ってこないかぎり、俺は気になって夜も眠れない。というか、実際ここ最近、毎晩眠れていない。だから覇気がなくなるんだ、と俺は毒づく。


肩を落として、思わず頭を掻き回した。


…花さんのことだけでも相当な問題なのに、今の俺には、もう一つ気になることがあった。


空のことだ。


あいつに、聞きたいことがある。


花さんを探しながらずっと、いっそ今日電話で呼び出してしまおうかと考えていた。


だけどそれはありなのか?


俺が怒らせたのに?


気分が晴れなくて、頭痛までしてくる。


……思い余って、濃紺の空を仰ぎ見た。


これでちょっとは気分が晴れるだろうか―――なんて考えて。


それからまた一時間花さんを探して、諦めた俺は家路に着いた。


歩き回って疲れた体を引きずってアパートまで戻る。


敷地内に入ったその瞬間、俺は信じられない光景を目にした。


―――部屋に電気がついてる!?


消し忘れ?いや、ありえない。家に帰ったのは昼だ。まず電気なんてつけない。


だったら―――。


俺は部屋の前まで走ると、疑いもなく扉を開け放した。


案の定、狭い玄関には一対の女性ものの靴が脱いである。


扉を閉めて内鍵をかけ、その隣に靴を脱ぎ。すぐさま居間に行くと―――そこには、ソファーではなく床に直に座ってこちらを見つめる空がいた。


海、と呟く空はやけに落ち着いた風に俺を見上げる。


「おかえり。遅かったね」


「……っ、」


なんでか分からない。そんな空をみて胸がざわついた。


それを押し隠すように


「オマエ、なんで」


来たんだ?怒ってるんじゃなかったのか?


そう言おうとして、思い直した。この際それはどうでもいい。


「…や、それより聞きたいことがあったんだ。空、オマエ」


「ちょうどいい。私も海に言いたいことがあるの」


言葉をさえぎられた。笑顔を作る空は、俺の目の前で静かに立ち上がる。


その一挙手一投足を、俺は黙って見つめていた。


…なんだ?こいつのこの雰囲気。


いつもとは違う空気を肌で感じとる。


続ける言葉は見つからず、ただ立ちすくんでいた俺に、空は静かに右腕を突きだした。


その手は、堅く握られている。


無意識的にその拳に合わせて手のひらを下に差し出せば、


「返す」


そこに何かが落とされる感触と、感じるのはその冷たさと硬質さ。


「は………」


視界に入れて確かめる。


―――それは、この部屋の鍵だった。


「そもそもこれは、私が持ってることがおかしかった。私達は、ただの幼なじみなのに」


「な……」


「もうやめる。ここに来るのも。海と関わるのも」


言いたいことは、それだけ。


そう呟くと空は、床にあったハンドバッグを掴んで俺の横を通り過ぎようとする。


その情景が、コマ送りのようにして目に映っていた。


ひどくゆっくり、確実に。


予想だにしなかった言葉に一瞬我を忘れる。だけど俺は意識を取り戻すや否や、すぐに空の細腕を捕まえた。


「いきなり何言ってんの?」


「いきなりじゃない。ずっと考えてた」


「ずっとっていつからだよ」


「いつからだっていいでしょ?海にはもう関係ないんだから」


「それが意味分かんねぇって言ってんだよ!」


自分でも意識しない内に大きな声が出た。


空の肩が揺れるのを認めたけれど、俺は強引に腕を引いて空を自分に向かい合わせる。


「痛い、離して」


「嫌だ」


「離してよ」


「嫌だ、って言ってるだろ」


「なんで?なんで離れさせてくんないの」


…離れさせてくれない?なんだよ、それ。


「…どういう意味だ」


つい責める口調になって、空の腕をつかむ指にも力が入る。


つまり、こいつは俺と一緒にいたくないってことか?


だから離れたいと?


そう詰問しようと空の顔を覗き込んで、だけど次の瞬間、俺は息を呑んだ。


―――泣いてる。


「………っ、」


音もなく、静かに。何の前触れもないまま唇を噛み締め、ただただ空は涙を流していた。


な、んで。


行き場を失った言葉はそのまま掻き消え、ただ静寂だけが残される。


そして、空自身の嗚咽まじりの涙声がその静寂を破り、狭いこの部屋の空気を震わせた。


「もう、嫌、なの。私いつまでこんな思いしなきゃいけないわけ?」


「―――」


「海は、今に結婚しちゃうんでしょう…っ!そんなの、傍で見てたくないっ」


一転、息をついて、震える声で空は静かに続けた。


「女の子に冷たくなくなったのはなんで…?結婚相手を探してるからなんでしょう?昼間のあの人と、付き合うの…?」


空の涙は止まらない。今なお線路の上を辿るように、決められた雫の後を伝う。


「…だから、お願い。離れさせて。もう、海の視界に入らないことに、他人のフリをすることに、限界感じた。…その鍵は、恋人に渡してあげるべきなんだよ」


それだけ、じゃあね。そう踵を返そうとする空を―――俺は、行かせなかった。


「っ、人の話聞いてた!?」


「聞いてたよ。それで分かった」


「は!?何がよっ」


「オマエはなんか、大きな勘違いをしてる」


「勘違いなんかしてない!私は―――」


「ニャー」


空が何かを言おうと口を開く。


息を吸う一瞬のその隙に、本来ならここで聞こえるはずのない声が部屋に響いて、俺たちは会話も、体の動きもピタリと止めた。


い、今―――花さんの声、しなかったか。


二人して顔を見合わせて、一瞬あと俺は一目散にドアに駆け寄る。


「花さん!?」


カリカリと扉を引っ掻くような音と、か細い泣き声。


はやる気持ちそのままに扉を押し開ければ、俺の愛しの花さんその人が、扉の前にすまして立っていた。


「お、おまえ今までドコに―――」


そこまで言ってからはっと気づいた。


「オス猫…」


いつの間にか玄関にしゃがみ込む俺の背後に立っていた空が、上から覗き込んで、俺の心の内を読んだかのようにそう声を落とす。


そう―――オス猫だ。花さんから約三十センチ後方に、見覚えのないオス猫がいる。


だからか?恋人ができたからここ何日か帰ってこなかったのか!?


ふら…と後ろに傾げそうになるのを空が「あ」と支える。


背中にあたる手の小ささに驚いた俺は、自身の力で跳ね起きた。


「―――、わり」


「…いいよ、べつに」


ふと見ると、花さんはグレーの毛色のそのオス猫と、寄り添うようにして立っている。


頬をすり寄せるその顔は、俺が今まで見たことないくらい穏やかで、幸せそうだ。


―――それを認めた瞬間、俺は肩の力がふっと抜けるのを感じた。


あぁ…花さんも見つけたんだ。


一生添い遂げる相手を。


じゃあ、俺は―――?


よし、と呟いて立ち上がる俺に、空は怪訝な目を向ける。


「空、花さんたち入れて。んで鍵かけて」


「は…」


何で私が、と目が訴えているのが見て取れた。だけど、


「帰らせないからな。オマエもこっちにこい」


そう言うと空は目を見開いて、その後渋々と言った様子で従ったのだった。


それを尻目に俺は、ソファーの上に投げ出していた携帯を取り上げる。


かける先は実家だ。


生まれてから今まで、何千何万回と聞いた―――かどうかは定かではないが―――コール音が幾度か鳴って、「はい向坂です」と母親が出る。


「ああ俺、海だけど」


『海!!』


キーン…。


耳に響いた。


受話器越しに空にも声が聞こえたのか、居間にいる俺の近くに来ておばさん?と口パクする。


俺も首肯した。すると、空の表情が曇る。


『約束の二週間はまだだよ!?まさか一生独身でいるなんて言いだすつもりじゃ』


例に漏れずマシンガントークを始める雅子を、俺は遮った。


「違うよ。結婚相手、いるし」


後ろの空がびくっと揺れる。


『…また花さんだとか言うんじゃないでしょうね』


「人間だっつの」


『嘘おっしゃい!今までずっとみつからなかったあんたがホントに二週間で見つかるわけがないでしょ』


雅子…結婚して欲しいのか欲しくないのか、どっちなんだ?


俺は受話器を通して気がつかれない程度にため息をつく。


「―――確かに、この二週間で見つけたわけじゃないな。ずっと傍にいた奴だから」


そう言うと、少し間を置いて。


『…あぁ、そう…そうなの。分かったわ』


「ああ」


『一ヶ月以内に連れてきなさいよ。色々やることがあるんだから』


「分かってるよ」


それからまた二、三言かわして、俺は電話を切った。

珍しく物分かりが良くて助かったな。


ぞんざいにソファーに携帯を放れば、空が弱々しく俺の服の袖をつかむ。


「海…今のどういう」


「そのままの意味だけど?」


返答を待たず、空を抱き寄せた。


「結婚するか」


「―――、」


空は腕のなかで、かすかに呻き声を上げている。


「…空?」


「な、んで…」


「ん?」


「いま、さらっ…」


「今さらか?」


そう笑ってやると、胸をドンと叩かれた。


「今さらだよ!なんであんたってそう、自分勝手なの!いっつも私の気持ちなんて考えないで」


「だから、俺が好きなんだろ?」


「!!―――べ、」


べつにそんなことっ、と空は消え入りそうな声で呟く。


声小さい、声小さい。


「俺女心は分からなくても、空心ならかなり分かるからさ?」


「な、なにを言ってんの」


「つまり。こっちだって昔から、一緒にいるのはオマエ以外ないと思ってたってことだよ。それが分かってたから、俺焦ってなかったんだぞ」


言いながら抱きしめている背中を、ポンポンと叩く。


「…でも!私に花さん預けてお見合いしにいくって言った」


「あれは、焦るオマエが可愛かったからつい」


「つ、つい、でそんなこと言うな、バカ!私がどれだけ―――っ」


喚こうとする空の顎を、俺は優しく持ち上げる。


「―――うん、待たせて悪かった」


「………う、」


み、と言いたかったんだろうか。


「もう、肘鉄すんなよ」


…赤くなった空に苦笑して、俺はそのまま、そっと唇を重ねた。


しばらくして離れると、空は手のひらで顔を覆って、ぼろぼろ泣く。


「泣くなよ」


「…だっ、て…っ!私はもうずっと、無理だと思ってたから…っ!」


「おれはもうずっと、空以外の女は微塵も頭にないよ」


良いことを言ったはずなのに、空はとうとう声を出して泣き始める。


あぁまったく…。


愛しくて、仕方ない。


一度空を放して、先程までの一連の騒ぎで床に転がされていたこの部屋の鍵を、拾い上げる。


次いで空の左手を取って、それをしっかりと握らせた。


「オマエが言ったんだからな。恋人に渡せって」


「…、」


「大体、なんとも思ってない奴に俺が鍵渡すわけないだろ。それくらい察しろ」


実際は何も怒っていないけれど、わざと少しだけぶすっとしたふうに言ってやる。すると、空は何度も何度もつかえながら、アンタは昔から分かりにくいと答える。


「でも、好き」


最後に、そう付け加えて。


―――俺は、小さな婚約者をもう一度静かに抱きしめた。


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