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3 空模様

「あー空、おはよう」


「…杉浦先輩。おはようございます」


「なんか不機嫌?顔怖いんだけど?」


「…そんなことないですよ」


―――不機嫌?


私は胸中で呟くと、ぶすっとした顔のまま受付のカウンターに座った。


…そう、今日の私は不機嫌だ。


料理のできない私が、いつもの様に幼なじみの海の部屋を訪ねたのが、昨日の夜。そこでの一本の電話が発端だった。


海の実家からの、結婚を催促する電話。それはまぁ、いつものことだし、おばさんの早く息子に落ち着いてほしい、孫の顔を見たいって気持ちもよく分かるから、仕方のないことだとは思う。


だけど、私が不機嫌になってる理由はそこじゃない。その後の、海の言ったことに対して腹を立てているのだ。


今までの電話で散々結婚話をはぐらかしてきた海は、あと二週間という期限つきで、実家強制連行を命ぜられていた。


普通、そういうときって焦るものじゃん。なのに、あいつ。


―――なんでそんな焦ってないの!?


―――焦らない理由があるから。…それだけだ


―――焦らない理由?…なにそれ


―――おまえには教えねぇ


『おまえには教えねぇ』だぁ!?ああそう、だったらもう知りません!お見合いでもなんでも勝手にして、好きでもなんでもない人と結婚しちゃえば!?くそっ、こっちの気を知りもしないで。


…素直に『行かないで。お見合いなんかしてほしくない』と言えたらいいのだろうけど、いかんせん私たちの関係上、そんな女子めいたことは口が裂けても言えない。


だって、あたしは知ってる。海が女の人にいくら言い寄られても相手にしないのは、そのあとの恋愛のゴタゴタが面倒くさいからだって。


なのにどうしてあたしが言える?小さい頃から変わらない距離感、友達同士のようなさばさばした関係をあいつは望んでるんだから。


そしてそれを実行してるからこそ、私は今でも、昔から変わらず海の一番そばにいてられるんだから。


…まぁ最近はもっぱら花さんにとられてるけど。


だから、実家に戻ってほしくないという私の本音の代わりに、悪いとは思いながら花さんをダシに海を引き止める作戦に出たのに。


花さんはどーすんの?と聞いた私に、海はあっさりと「おまえに預ける」と言ってのけたのだ。


ふーん…私現地妻?家政婦?居残り?あんたの留守番?


…ふっざけんじゃねぇ!私をなめるのもたいがいにしろ!


―――とまぁこんな感じで昨夜不満が大爆発し、今に至るわけなのだった。


「見て空。キングご出社」


昨日のことを思い出してまたイライラし始めた私を現実の世界に呼び戻したのは、軽い杉浦先輩の声だった。


顎でしゃくられた玄関ホールの方を見やれば、どうやら私の不機嫌の原因、海が出社してきたらしい。


「おーおー。まーた女性社員の目、釘付けにしちゃってぇ。ほんと、オーラあるっていうかなんていうか」

ねぇ?と話を振られれば、私も答えるしかない。不機嫌な声音のまま、「…そうですね」と、当たり障りのない返答をしておいた。


…ここでは私と空が幼なじみだというのは隠している。


なぜなら、周りの態度が鬱陶しくなるから。


中高、と色々学習してきたから分かってる。特別人気のある相手の幼なじみなんて、下手にやるものではない。


そしてその、人気者ぶりはここでも同じ。


海は、私達の会社の…まぁ、一番期待の若手社員であり、なおかつ一番人気のある男だった。


取ってきた契約は数知れず、近寄る女も数知れず。


それでも私にとって一つだけ救いなのが、その海本人が非常にドライだということだ。だからこそまたそれがモテる原因の一つではあるのだけれど…。


いつも考える。皆ほんとの海を知ったらどうなるだろう。


やつが―――救いようのない、猫ヲタクだってことを知ったら。


夜中に一人で飼い猫に話しかけてるアラサー男。花さんがいれば俺は他に何もいらない!と公言している独身野郎。


幾度も皆にその気持ち悪い正体をバラしてやろうと思っては、その事実を知っているのは自分だけだという優越感に負けて、結局は何も言わない日々が続く。


そもそも…私と海が幼なじみだということも、ここでは秘密なのだ。一体誰に言えるっていうわけ?


知らず知らずにため息を漏らす。


と、その時。隣の受付席に座る杉浦先輩が、私の肩をトントンと叩く。


周りを窺うように耳打ちされる内容といえば―――。


「キング、高村さんとどうなったかな。空、どう思う」


先ほどから出てくるこのキング―――他でもない、海のことだ。この会社での彼の立ち位置が、見事に反映されたあだ名だと思う。


「…さぁ?私だって、分かりませんよ」


「空も噂位は聞いたことあんじゃないの?キングが同棲してるって噂」


「どっ…!?」


目を見開いた。


同棲!?いつからそんな噂が。私が知ってるのは、経理の高村さんが最近キングと怪しい、てとこまでだ。


「あ、その高村とじゃなくね?ちょっと前までアプローチしてたのが経理の高村だったけど、いま同棲の噂がたってんのは、またべつの女なのよ。しかも、最近事務の工藤ちゃんも攻めてるみたいで」


ほんと、どこまでいっても女に困らない男だこと。


杉浦先輩はそう呟くと、受付カウンターの横を通りすぎてゆく海に、形式的な挨拶をする。


「おはようございます」


これは仕事だ。私も何事もない風を装って、おはようございますと杉浦先輩に習った。


幼なじみだということをバレないようにするため、海も形式的な挨拶を返すだけで終わる。


何の会話も、アイコンタクトさえない。


これが、日常。私達の普通。


だけど、今まではそれでも良かった。


日中は他人でも、夜は幼なじみに戻れていたから。あの毎晩ご飯を供にする時間があるだけで、私はまたいつものように頑張れた。


―――それなのに。


…海は、きっと平気なんだろう。私と離れることなんか、痛くも痒くもないんだろう。


そうじゃなきゃ、あんなに簡単に有休使って帰るとか言わない。海のお母さんが、やっと実家に来た海を、ただで返すわけがないのに。


絶対縁談をまとめて、家に落ち着かせるはず。


あいつもそれを分かってて簡単にここから離れようとするんだから、やっぱり執着心がないのだろう。


海が執着心あるのなんて、花さんに対してだけか。きっと向こうで結婚するってなったら、花さんを連れてくんだろうなぁ。


確信できる未来予想図に、そっとため息を吐いた。


「で、空。そのキングと同棲してるって噂の女なんだけど」


「あ、はい」


そうそう、同棲。海が同棲なんて、してるはずがないんだけどな。


根拠はある。だって私は毎晩海の家に出入りしてる。


「名前、掴んだのよ」


「…えっ?」


嘘。まさか実在するんだろうか。


「聞きたい?」


悪魔の囁きに感じてしまうのは、決して私だけではないはず。事実、杉浦先輩は悪い顔をしている。


「…べつにそこまで聞きたくはないですね」


「嘘おっしゃい」


そう、本当はものすごく聞きたい。だけど、聞くのが怖い。もし、それが本当だったら?


…私はどうすればいいのだろう。


「キングの部屋に出入りしてる女を見たっていうひとがいるの」


「…………」


「なんとこの会社の社員らしいのよね」


「…えっ」


―――な、なんか悪い予感。


「ほらー、やっぱり気になるんじゃない」


「や、あの、そうじゃなくて…」


「なんか、同棲ってよりは、通い妻に近い感じみたいなんだけど。毎晩、ちょうどご飯の時間に出入りしてるらしくて、私達は皆晩ご飯作ってあげてんじゃないかって予想してんだけど」


ちょ、ちょっと待てよ…。


それってもしかして―――私のことか?


瞬時に冷や汗が出た。


ここでバレたら―――私、会社中から袋だたきにあう!


「でね、その名前なんだけど―――」


「………っ!」


「―――はな、っていうらしいの」


「………はっ?」


はな…?もしかして…花さん?


「いやー、なんかねー、私の友達が偶然昼休憩がキングと重なったらしいのね?そん時、聞いたんだって。『あー、花さんに会いてぇ』って呟いてるのを」


「…………………」


「意外とキングもストレートなのね。聞いてるこっちが恥ずかしい、みたいな」


ねぇ空?と言われるけれど、私は答えを返さなかった。


だって花さんて…あいつ、まじどんだけ?


「なによ、その興ざめー、みたいな顔」


いやいやいや、興も冷めますから。


だって…猫デスヨ?


しかも、私がご飯を作ってあげてるのではない。


―――作ってもらってる、のだ。



「ま、とにかく。―――キングには相手がいるってことよ」


ポン、と背中を叩かれれば、私の気持ちなんて全部杉浦先輩に見透かされている気がして、少しだけ怖くなるのだった。




「っあー、疲れた!空、あんたこの後空いてる?飲みに行かない」


―――午後八時。ようやく業務から解放された先輩が、更衣室で伸びをしながらそう言った。


バキバキ、と骨が鳴っている。


「うーん…」


制服から私服に着替えながら決めかねて迷う私に、杉浦先輩は続けた。


「あんた今日元気なかったじゃん。たまにはパーっといくのもいんじゃないの」


「―――」


ほんと、細かいとこまでよく気が回る先輩。


感謝しながら、それでもなお迷って携帯を手に取ると、メールが三件入っていた。


一つはメルマガ、もう一つは、友達から。


そして、最後の一つは―――。


「海…」


「え?あんた海行きたいの?」


ロッカーに向かって携帯を握りしめる私に、背後の長椅子に腰を下ろす先輩が訝しそうな声をあげた。


それに対して声が出ない私は、静かに首だけを振って答える。


恐る恐るメールを開くと、内容は、たった一言。


『今日はカレー』


…一瞬、喉がくっと鳴った。


正直、不安だった。少しだけ後悔していた。


彼女でもなんでもない私が、昨夜のように海を怒鳴る権利なんてないも同然だったから。


今日一日仕事して、冷静な頭で考えてみると。…海が怒ってるんじゃないかと思えていたのだ。


だけど、メールが来ていた。


普段、晩ご飯のメニューなんて教えないくせに―――。


夜の予定が決まった私は、今さら大急ぎで帰り支度を終わらせる。


メールの受信時刻は午後五時二十分。


きっと、相当待っている。


ロッカーに全部荷物をしまい終えて、乱暴に扉を閉める。


「何?急に急ぎだして。なにか」


「はい。用事が、あったんです。杉浦先輩、せっかく誘って頂いたのにスミマセン」


頭を下げると、彼女はにこっと笑って私の頭をひとつポン、と叩いた。


「なんかよく分からんけど。良かったわね」


「………はい」


ありがとうございます、お疲れ様でした!と言い残して、私は会社を後にした。


海のアパートの前に着いて、ひとつ深呼吸をする。


…まずは、昨日のことを謝ろう。そしてそれから…。


鍵穴に合鍵を差し込む手を、一瞬止める。


…素直に、言ってみよっかな。今の私の気持ちを。


お見合いなんてしてほしくないってことを。


そうと決まればよし、と自分に気合いを入れてガチャッと鍵を開ける。


その勢いのまま、ドアノブを回し、押し開けた。


「う―――」


「あ、空!」


へっ?


言いかけた私の言葉を遮って代わりに耳に届いたのは、切羽詰まった海の声だった。


玄関口まで走り寄られてガシッと肩を掴まれれば、さすがになにか尋常じゃないことが起きたのかと眉をひそめる。


「なに、どしたの」


「花さん見なかったか!?」


「は?花さん?…いないの?」


「いたはずなんだ。それが、ちょっと目を離した隙にいなくなった」


―――正直この時私は、海があんまりうざいから逃げたんじゃない?どうせすぐ、戻ってくるでしょ。…そう、思っていた。


だけど、事態はそんなに軽いものではなかったのだ。


この、花さん失踪事件がその後の自分に大きく関わってくるなど―――この時はまだ、微塵も思っていなかった。


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