15日目-2
メイスは自分が、風の長を継いだ存在だということを話し始めた。
遥か昔に精霊と人間が結び、お互いに争った時代があった。その時に、先代の風の長ファラムーアが倒され、残された眷属とファラムーアの伴侶となっていた人間を使って、ザフォル・ジェータが生み出した。それがメイスだったのだという。
半人半霊。人としての肉体は持つが、死ぬこともなく、途方もない年月を生き続けてきた。
「ちょうど、今のお前とおんなじだな」
そう、屈託なく笑うことのできるメイスが、レイスには理解できなかった。
レイスにとって、死ねないということは、生き続けることは、苦痛でしかなかったからだ。
同じだと言われても、わからない。
「おれも最初は嫌だったよ。何度死にたいと思ったかわからない」
「……えっ」
自分は今、何も言っていない。相手はメイスだ。ヴァルディースじゃない。心に思ったことは、届かないはず。
「お前が母さんのお腹の中にいた時から見てたんだぞ。わからないわけないだろ? おしめだって変えたんだからな」
おしめだって変えた、は、子供の頃レイスが何かするたびに兄に言われた台詞だ。
実際、レイスはメイスに育てられたようなものだ。ユイスと二人いっぺんに生まれて、ユイスが身体が弱かったこともあって母がつきっきりになっていたから、物心ついた頃はだいたいいつもメイスの背に背負われていた。
なのに何故気付けなかったのだろう。思い返せば気付けたはず。あの頃のメイスの背中の大きさが、ずっと何年も変わらないなんて、おかしいっていうことに。
「レイ、そういやお前、ヴァルディースやおれたち以外で精霊の姿を見たことはあるか?」
唐突な問いに首を傾げた。質問の意図が読めない。とはいえ、相手はメイス。不思議には思っても、疑う必要はない。
とりあえず見たことはない、と首を振る。精霊なんて、そもそも人間の前に姿を現す存在ではないから、普通の人間は目にすることができるわけもない。
「そっかぁ、じゃあヴァルディースに頼むしかないかぁ」
一体いきなり何だというのだろう。
「とりあえずあいつ呼んでもらえるか?」
「呼べって言われても……」
「頭の中繋がってるんだろ? 呼んだらくるんじゃないのか?」
呼べばくるとか、犬じゃあるまいし。そうは思っても自分は動けないし、メイスは外に出られないようだし他に思いつく手段もない。
「……ヴァルディース」
どこに向けて呼びかけていいのかもわからず、試しに目を閉じて呟いてみた。
その直後に、部屋の扉の向こうから、炎の揺らぎが現れた。一瞬激しく燃え上がって獣の姿に揺らめいたかと思うと、次の瞬間にはあいつの姿がそこに現れていた。
本当にきてしまった。今さらながらにレイスは思い出した。犬じゃあるまいしとは思ったが、そういえば炎狼と呼ばれるのだから、こいつはイヌ科なのだった。
「確かに狼はイヌ科だが、なんだ?」
憤慨されるわけでもなく純粋に疑問を投げかけられた。そうこられると謝るのも変だし、なんと返すべきか、こっちが戸惑ってしまう。
「まあいい、話は終わったのか?」
「いや、これからだ。レイに精霊の姿を見せてやってほしいんだ」
「精霊の?」
ヴァルディースも不思議がる。精霊の姿に何があるというのだろう。
「まだ、レイスに魔力が馴染んでないから、無理やり俺の方に引っ張る形になる。無理はさせたくないんだがな」
「そこをなんとか」
「仕方ない。つらかったら言えよ」
ヴァルディースが手のひらをレイスの目元に重ねた。その瞬間、視界が一変した。部屋の中にいくつもの小さな陽炎と風の渦が飛び交っていた。
「!?」
驚いて身を引く。ヴァルディースの手が離れたと同時に、小さな虫のようなそれらは視界から消えた。一瞬何が起きたのかと思った。ヴァルディースと触れている間だけ見えるらしい。
もう一度ヴァルディースの手が重ねられる。また、視界にあの小さな精霊たちが映り込んだ。
いや、自分の視界が塞がれて、そこにヴァルディースが見たものが共有されているのか。
風と炎がこちらを不思議がるように集まってきた。中には妖精のような形をしたものも居た。
これが精霊。人の目に見えないだけで、世界のあらゆるところに存在しているなんて。
精霊がくすくすと笑いあい、あっちへこっちへ飛び回る。
やがて陽炎はヴァルディースの近くに集まり、風の渦はメイスの側に集っていった。
「見えたか?」
風と戯れるメイスは、いつになく楽しそうだった。
これがヴァルディースとメイスがずっと見続けてきた、本当の世界。
メイスはこれを、自分に見せたかったのだろうか。
「じゃあ、始めるぞ。お前に会わせたい、いや、どうしても会ってもらわなくちゃいけない奴がいるんだ。一瞬かもしれないから、目を閉じたりするなよ」
メイスの声の調子がいつになく低くなった。魔力が集中していく。重ねた手のひらの中で、圧縮された風が膨れ上がる。
その中に仄かな光が見えた。
「アレは、魂……?」
ヴァルディースが驚いたように呟く。
「ああ。ザフォルがほんの少しだけ、時間をくれた。だから、お前に真っ先に会ってもらわなきゃと思ってさ」
メイスが包むように重ね合わせた手のひらを、優しく解いていく。
「もう起きてもいいよ、ファイナ」
ファイナと呼ばれた小さな魂が目の前に光のように広がった。
――レイ
風がレイスを包んだ。優しく、愛おしく、抱きしめる。
ほんの一瞬。
暖かな風はレイスを包み込んで、溶けるように散ってしまった。
でもレイスには見えた。長い金色の髪をなびかせて、草原の色を映す緑の瞳を柔く細めて、レイスの額にそっと口付けていった女神のような人影。
「母さ……」
――幸せになりなさい
風に乗って聞こえた言葉に呆然とする。
その声はもう聞こえない。もう一度聞きたいと思ってもどこにもいない。
何故。
すがるように手を伸ばす。
ヴァルディースの手が離れていく。視界から精霊たちが消えてしまう。
「レイ!?」
二人分の驚く声が、遠かった。
熱い。傾いだ身体がヴァルディースに抱きとめられた気がした。
もっとずっと一緒にいたかったのに。
こんな一瞬じゃなくて、ずっと、みんなで暮していたかったのに。
幸せになれ、なんて、そんな遺言のようなこと、聞きたくなかった。
そんなの、絶対に守らなければいけない呪いと同じじゃないか。
幸せになんてなれるわけがない。なってはいけない。そう思っていた。
罵られた方が、憎まれた方が、どれほど楽だったか。
また、意識が落ちる。熱が身体の中で暴れまわる。
ヴァルディース。
朦朧となっていく中でその名を呼んだ。
お前となら、幸せに、なれるのかな。
いつか見た夢のようにみんなでまた笑い合う、そんな未来に焦がれながら、またおぼろげな夢のなかへと落ちていった。