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学校での私は相変わらずだった。
落書きをされ、菊の花が飾られた机が私の机だ。
引き出しには大量のゴミが入っている。
何が面白いのか、色々されている机に辿り着いた私を見て私を虐めているグループはクスクスと笑っている。
そうでない生徒は火の粉が己に飛んでこないようにひたすら関係のないふりをする。
それは当然のことだ。
誰だって責められない。
みんな我が身が可愛いのだ。
きっと立場が違ったら私だって関わろうとしないように全てに目を閉じ、何事もなかったかのように過ごすだろう。
世界はいつだって誰かを犠牲にして成り立つ平穏に満ちているのだ。
ああ、なんてくだらない世界だろう。
◇◇◇
私は実は小学生の頃からピアノを習っている。
習い事に関しては少し厳しいけど、頼めば何とか習わせてくれた。
どういう心情なのかは分からない。
ただ、邪魔な娘が少しでも家を空けてくれたらいいと思って許可してくれたのかもしれない。
ピアノは弾き手を映す鏡だと思う。
苛立った心で弾けば、自然と音は荒くなる。
「コンクールですか?」
「そう。出てみない?神山さんなら良い線行くと思うんだけど。
参加費は五〇〇〇円なんだけど、自分を試す良い機会でもあるし、そういう経験をしてみるのも良いんじゃないかなって思うの。どうかな?」
参加費は毎月貰っているお小遣いやらお年玉やらを貯めているので問題はない。
人前に出て、お客さんや審査員の反応は怖いけど、興味はある。
何よりも好きなピアノを披露できる場はそうそうない。
「そうですね。出てみようと思います」
「そう。良かった。じゃあ、今日は選曲をして、来週からコンクールに向けての練習を始めましょうか」
「はい。よろしくおねがいします」
ピアノの先生は私を偏見の目で見ない珍しい人。
そんな先生の提案だからこそ私は受けてみたいと余計に強く思った。
それに、もしかしたらコンクールの成績次第では両親が褒めてくれるかもしれないという打算もあった。
バカでしょう。
心ってバカなの。
頭は賢いからちゃんと分かっているの。
バカな期待をする心に『そんなわけがないだろ。自分の立場を分かれよ』って言うの。
それでも止められない期待を胸に私は帰宅した。
いつものように家事をこなしていつ母に話しかけようかタイミングを計っていた。
親と話すだけでこんなにも緊張するなんてって自嘲する。
なかなかタイミングがつかめず、結局話しかけられたのは母が寝る前だった。
「あ、あの。今日、先生にコンクールに出席しないかって言われたの。
それで、そのこれ、コンクールのお知らせなんだけど」
私が見せたお知らせに母は一度だけ視線を寄越した。
「出ることにしたの」
「ふぅん」
「あ、あの、来てくれる?」
「何で?面倒くさい」
『ほらね』
と、私の頭が私の心を嘲笑した。
「あんたのピアノなんて下手の横好きじゃん。聞く価値なんてあるの?」
私のピアノ、一度だって聞いたことがないのに、どうしてそんなに言い切れるのだろう。
「もっと聴けるようになってから言いなさいよ。恥ずかしい」
何が恥ずかしいのだろうか?
先生から声がかかったってことはコンクールに出られるだけのレベルには達しているってことじゃないの?
それともこれって私の自惚れ?
だとしたら確かにとんだ恥さらしだ。
「・・・・気が、向いたら来てね」
それを言うだけが精一杯だった。
◇◇◇
直前まで必死になってピアノの練習をした。
もし、万が一、母が来てくれた時に恥ずかしい演奏だけはしたくなかったから。
私の心は懲りずにまだ期待をしているの。
本当に、バカだね。
そして、迎えたコンクール当日
会場を見渡した限り母の姿はなかった。
でも、お客さんは多いから見つからないだけかもしれない。
『本当にバカ。どう見たって来てないだろ』
心はまだ期待している。
頭はそんな心を嘲笑する。
「神山さん、頑張ってね。
大丈夫、練習通りにすればいいだけだから。
神山さんならできるよ」
「はい」
先生の励ましを受けて私は壇上に上がった。
少し客席からどよめきが起きたが気にしない。
椅子に座り、フーッと息を吐いて、緊張を外に逃がす。
鍵盤の上に手を置く。いつもよりも指が重い。
大丈夫。あんなに練習した。大丈夫。
そう自分に言い聞かせて一度目を閉じる。
それはほんの数秒程度だが私にはとても長く感じた。
会場の視線、声、その全てが消え失せた時私は目を開け、弾き始める。
よし、出だしは良かった。
大丈夫、このままいける。
指の重さはもう感じない。
軽やかにステップを踏み、私の紡ぎたい音を紡いでくれる。
コンクールの結果は優勝だった。
とても小さなコンクールだった。
それでも優勝できた。
それがたまらなく嬉しくて、でも実感がまだ湧かなくて、抱き締めてくれる先生の姿さえ他人事だった。
努力が実った瞬間は全てを忘れられるぐらいとても幸福だった。
暫く会場を探してみたがやはり母の姿はなくて、私は両親や友達と楽しそうには帰って行く人達の横を素通りして家に帰った。
今日は休日なので家には母と父が居た。
「あの、優勝した」
私はトロフィーを二人に見せた。
「おめでとう。凄いじゃん」というのは父の言葉。
母は一度だけトロフィーを見たが何も言ってはくれなかった。
「あの、これ、どうすればいい?」
「どうって?」
「その、飾る所っていうか、仕舞う所っていうか」
「自分の部屋に仕舞えばいいじゃない」
「・・・・・分かった」
『ほらね。だから言ったんだ。お前はバカだって』
うるさい。
『分かっていたことだろ』
分かってた。
『じゃあ、何も泣く必要はないな』
・・・・ないよ。どこにも。
私は自分の部屋に戻り、声が出ないように腕で口を押えて泣いた。
私の足元にはトロフィーと賞状が転がっていた。
優勝した時の嬉しさは完全に消え失せていた。
私はいつの間にか眠ってしまっていた。
時間は夜の二〇時を回っていた。
ご飯は昨夜作って冷蔵庫に入れておいたからみんなは食べただろう。
それにしても誰も私を呼びに来てはくれなかったのか。
お腹はすいていたので仕方なく階下に行った。
「もう少し、何となならないのか?」
居間から父の声が聞こえた。
私は何んとなく足を止めた。
「何が?」
これは母の声だ。
居間で二人で話をしている。
「柚利愛のことだ。可哀想だと思わないのか?」
何それ。
父はいつも事なかれ主義
そんな父の言葉が私の胸に響くことはない。
目の前で私がどんなことを言われても父は見ないふりをする。
母が居ない時に「お母さんももう少しお前に優しくしたら良いのにな」と言う。
そんな父の言葉が響くわけがないのだ。
同情なんて要らない。惨めになるだけ。
欲しいのはそんな言葉じゃないのだ。
労りの心なんて要らない。望んでいないから。
「あの子、見ているとイライラするのよ」
吐き捨てられた母の言葉に私の枯れた心はひび割れていく。
「あの子のせいで私は近所から『どこか余所の子じゃないか』って不貞を疑われたりしているのよ」
父からは肯定とも否定ともとれる曖昧な言葉が飛ぶ。
「なのに、あの子は何も知らずに笑って。それが余計に腹が立つ。
何がアルビノよ。あんな真っ白で、気持ちが悪い。
だいたい、あの子はもう少し私の苦労を知った方が良いのよ」
父から返ってくる言葉はなかった。
私は何も言わずに自分の部屋に戻った。
食事をしに階下に行ったのだが、もう食欲はなかった。
◇◇◇
別の日、書道をしている由利が賞状を持って帰って来た。
そう言えば、何かあるみたいな話をしていて母と一緒に由利が出かけていたなと私はその光景を見て茫然と考えていた。
何のコンクールかは知らないけど由利は優勝したようだ。
「本当に由利は凄いわね。今日は由利の為にご馳走にしなくっちゃ」
「本当!やった」
「頑張ったご褒美よ。何が食べたい?」
「お寿司」
「了解。この賞状は額に飾って居間に飾ろうね」
「うん!」
そんな会話をしていた由利は私に気がついて嬉しそうに駆け寄って来た。
「見て見て。今日ね書道のコンクールがあったの。
そこで私、優勝したんだよ」
「そう」
「凄いね」
「うん。おめでとう」
私の淡白な反応に何の疑問も抱かずに家族の輪の中に戻って行った。
私は自分の部屋に戻り、引き出しに仕舞っていた賞状をビリビリに破いて、ゴミ箱に捨てた。
トロフィーを持って家を出た。
向かった先はゴミ捨て場。
向かう途中で雨が降って来たが気にしなかった。
私は持っていたトロフィーをゴミ捨て場で叩き割った。
粉々になったトロフィーを見て、私は涙を流した。
涙が零れないように顔を上に向けた。
雨を顔の真正面から受け、涙と混じり、誰も私が泣いていることなんて分からないだろう。
雨音が私の慟哭を消してくれる。
届かないのなら聞かせる必要なんてない。
『可哀想だと思わないのか?』
違う。
そんな言葉が欲しいんじゃない。
同情して欲しいわけじゃない。
認められたい。
褒められたい。
ただ、愛して欲しいだけなんだ。