9.
幾つもの果て無き道程を越え
来るは遠き見果てぬ大地
久しく見えぬ郷里の夜空を偲び
思うは強くも優しき母の腕
戻れぬ昨日に落涙尽きぬ
辛苦の明日に悲嘆の吐息
深く静かに想いを強め
折れてはならぬ己が心
信置く標を胸に抱き
曲げてはならぬ己が道
地と水と蒼天と
我はいつも共にある
父と母と温もりと
我はいつも共にある
いつも通り彼女の歌が終わりを告げ、リュートの響きが鳴り止むと、しばらく誰も言葉を発しない。黙ってその余韻に浸るだけ。
自身の歌声を確かめるかのように目を閉じて弦を爪弾いていた彼女が、しばしの後にゆっくりと双眸を開いた時、誰ともなく歓声を上げるのだ。彼女の歌声に喝采を贈るために。
異様なほどの熱気に包まれ、奏者兼歌姫を称え賛辞を呈する声がそれほど広くはないテルミト亭・食堂のそこかしこから上がる。
熱狂的な彼らの声に、彼女も椅子から立ち上がり深く頭を下げた。
それでもあくまでいつもの彼女だ。周りに流されず、興奮した観客にも泰然とした様子で応えている。
すっかりお馴染みとなったテルミト亭の歌姫と観客たちの姿を、レイルは食堂の片隅から不思議なものを見るような目をして眺めていた。
彼女――ユイリス=レンフィアがウルと呼んだあの男との一件から1日が過ぎた日の晩。
ユイリスは以前と変わらぬユイリスでいた。
ウルに謗られ、懸命に反論するも結局言葉を失い、歯を食いしばって黙って涙するしかなかったユイリス。
あの後、彼女は心配したレイルの問いかけに「大丈夫」と答えた。
涙を振り払ったものの、さすがに堪えたのかしばらく1人にして欲しい旨を告げてくると、彼女は1人テルミト亭へと帰って行った。
それまでの彼女とはまったく異なった一面を見せたあの一件は、レイルにとって衝撃的だった。
だからこそ心配でならなかった。あれほどの落差を見せつけられてしまっては。
やはり放っておくことができず、間を置いて自身も帰宅した後、彼女の部屋へと向かおうとした。
が、そう物事上手くいくはずもなく。
一緒に出かけたはずの2人が別々に帰宅してきたことについて、両親からしつこく理由を問い詰められた。どうもユイリスは帰ってきた時も沈鬱な表情をしていたようで、それを心配したからこその反応だった。
ロイドなどは、お前がろくでもないことをして怒らせたんじゃねえだろうな、とまったくもって失敬極まる言葉を投げかけてきたが、まともに反論しても無駄な労力を消費するだけなので、どうにか適当にやり過ごしてユイリスの部屋の前までたどり着いた。
とはいえ、いざ彼女を目の前にした際、いったいどのような言葉をかければいいのか。
扉を叩くために持ち上げた拳のやり場に困っていると、突然扉が開かれた。
「あらレイル。なにをしているの? 拳を振り上げたりして、なにかあったの?」
現れたのは当のユイリス。不思議そうに小首を傾げつつも、微笑みを湛えている。
悲しみ、憤り、口惜しさ、それらが全て入り混じったかのような涙を先ほど流していたのがまるで嘘のようような笑顔だった。
あまりにも劇的すぎるユイリスの変わり身に、レイルはただ呆気に取られるしかなく、鼻歌交じりに食堂へと歩いていった彼女の背中を黙って見送るしかなかった。
それからの彼女は、ウルとの一件などまるでなかったかのようにいつも通り明るく振舞っていたのである。
しかもそれは無理して演じているのではなく、本当になにもなかったかのように自然な振る舞いだった。
明けた翌日の修練の厳しさも変わらず的確な指導であったし、給仕も精力的にこなしていた。歌姫としての役割も先ほどの歌唱を見ればいかにいつも通りだったか窺い知れるというものだ。
あそこまで普段通りの有様を見せつけられると、あの一件は夢か幻かと思ってしまっても無理もないほどで、実際レイルは段々自身の記憶に自信を失くしかけたぐらいである。
だが、知己から謗られたユイリスが初めて感情を爆発させたあの事件は紛れもなく起きた事実である。
どれほどの度合いかはわからない。
ただ、彼女はやはりいつもの自身を演じていたのだから。
一度衆目から注目が外れた時、ほんのわずかの間だけだが彼女がもの思いにふける姿をレイルは目にしていた。以前には見受けられなかったその姿こそ、ユイリスが自身の心の揺らぎを隠せない証であった。
彼女の心をそこまで動かした、ウルの一連の言葉。なによりウルという男や、彼女の先生というイスカムという人物との関係。つまるところ、やはり彼女の隠された過去にこそ全ての要素が集中している。
人知れず悩む彼女の力になるためには、彼女という人物をより深く知らねばなにも始まらない。
だが、ユイリスがたどってきた道についてはこれまで一貫して壊れ物を扱うかのように触れてこなかった。また、その姿勢は彼女にもよく伝わっている。
今になって、彼女に問うことが果たしてできるだろうか。
客に誘われたのだろう。いつの間にか客たちの間に入り、苦笑いしながらも酒を勧められるのを受け入れている『作られた笑顔』のユイリスの姿を遠目に、レイルは表情を曇らせるのだった。
使いに行くのは頻繁ではないが、大抵が夕方から宵の口にかけて行くことが多かった。特段の理由があるわけではなく単なる偶然なのだが、だからこそ日中に行く機会も当然あった。
以前であれば今ほど気にするほどはないのだが、しばらくはできれば日中に行くことは避けたかった。
とはいえ、あの父親に指示されて拒絶できるわけもなく、レイルはしぶしぶ重い足取りを使いの先――リュルゾ亭へと向けていた。
修練を開始して3日目。それは同時に、ユイリスが初めて見えざる心を晒した日から3日経過したことを意味する。
だが、日数の経過はユイリスにさらなる変化を何ももたらさず、相変わらずの明るさと、修練の時の厳しさを保っていた。そして、時折ほんの一瞬見せる思いふける様子も。
グェインとのことに加え、ユイリスのことも気にかけざるを得ない毎日。もう十分手一杯で、この上面倒ごとを背負い込むのは誰であっても避けたいのが然るべきというものだ。
ところが、その面倒ごとを背負い込む可能性がリュルゾ亭には存在しており、しかも日中こそ最も危険なのだ。
が、訪れることから逃れる術はなく。後はもう、面倒ごとが留守でいることを願うばかりだった。
街道筋の町として賑わうサイレアの街中とは対照的に、まったくもって浮かない表情をしたレイルは、とうとうたどりつきたくはなかったリュルゾ亭へと到着してしまう。
テルミト亭よりも町の中心にあり、加えて日中から酒類を供出していることから客入りもよいリュルゾ亭。店の入り口横に張り付きそっと店内を覗き込んで見ると、相変わらずの盛況ぶりで食事や酒を酌み交わしている客たちの談笑が押し寄せるかのごとく聞こえてくる。
賑わっている店内を見回しつつ、レイルは始めになさねばならぬこと――面倒ごとの在、不在の確認を最優先で行った。
しらみつぶしに見回したところ、面倒ごとを目にすることはなかった。どうやら奥に引っ込んでいるか、外出しているようだ。
であれば、使いの用件を手短に済ませて一刻も早くこの場を立ち去ることが最善の道。
安心したレイルは、いざ店内へと足を踏み入れようとした。
「なんでそんなこっそり入ろうとするの? 家に」
聞き覚えの非常にある声だった。加えて、今最も聞きたくない声でもあった。
声のした背後を恐る恐る振り返ると、『面倒ごと』が不思議そうな表情をしてこちらを見つめていた。
「ねえねえ、どうしてなかなか中に入ろうとしなかったの? 会いたくない人でもいるの?」
矢継ぎばやに問いかけてくる『面倒ごと』だったが、レイルがリュルゾ亭になかなか入らなかった理由を言い当て、さらにその答えが当の本人であることなどまったく気づく様子もない。
「べ、別になんでもないよ、ミスリィ」
当然のことながら訳を言えるはずもなく、動揺しながらもレイルは面倒ごと――ミスリィ=ルロムへ愛想笑いを浮かべた。
癖のある栗毛を背中に流し、決して美人ではないが鼻周りにソバカスを散りばめた愛くるしい面立ちが特徴であるエプロンドレス姿の少女は、レイルの挙動不審な態度を特段気にするでもなく、ふぅん、と頷いていた。
顔を合わせまい、と十分気をつけてきた努力を一瞬で崩壊させたことなど露も知らないであろうミスリィに、レイルは胸の中で深いため息をついて肩を落とした。
レイルにとって、ミスリィは幼馴染といっていい間柄の少女である。2人の父親に親交があったことが出会いのきっかけとなり、互いに明るく人見知りしない性格もあってすぐに打ち解けた。
成長した今は各々家業の手伝いがあるため、さすがに昔ほど毎日顔を会わせて遊んだりはしていないが、ほどよく仲の良い間柄を保っていた。
とはいえ、ミスリィの度が過ぎた明るさ、あまり物事とを深く考えない性格にレイルが振り回されることも多かった。
他でもない、今現在レイルにとっての最大の面倒ごと――ユイリスをも巻き込んだグェインとの一件の発端は、彼女とグェインのいざこざにあったのだから。
ミスリィにしつこくつきまとったグェインに非があるのは当たり前だが、彼をそうさせた要因の1つに、ミスリィの発言が絡んでいることも否めない。
あっけらかんとしたあの性格である。当初軽く絡んでいたグェインの心を逆なでする発言――「気持ち悪いのよ、このでくの棒」などと言い放っていた――を考えなしにしてしまったのも別段不思議ではなかったが、事実としてグェインのつきまといが深刻になったのはそれからのことだった。
それでも大して気にしていなかったミスリィの楽天さとは裏腹に、幼馴染の一大事に体を張って立ちはだかったレイルだが、結果はこれまでの通りである。
とりあえずグェインのさらなる暴走を押さえ込むことには成功した。事実として、グェインはミスリィの前には顔を出さなくなった。
だが、毎度グェインに叩きのめされた挙句、ユイリスを巡って決闘じみた手合いをする羽目になり、さらにそのために厳しい修練を積まされることにもなった。
実はこれら一連のことをミスリィはなにも知らない。彼女が知っているのはごく初期段階、ミスリィへのこれ以上のつきまといを諌めるためにレイルがグェインに啖呵を切った時ぐらいまでである。
もちろんそれは、彼女にいらぬ心配や負担をかけたくなかったというレイルの思いやりがあったからこそだが、さすがにまったくなにも知らずにのん気な様子でいるのを見せられると複雑な心境になってしまうのもいた仕方ないというものだ。
このような苦心をさせられることまで元から承知の上などあるはずもなかったが、それでもミスリィには黙り通すと決めたからにはもはやその道を突き進むしかない。
「今日は何のご用? あ、わかった。またさぼりに来たんでしょう。おじさんに怒られちゃうよ」
そう言って無邪気に笑うミスリィを見ていると、やはり彼女には何も言わずにいて正解だったとつくづく思う。彼女のような人間が不安や悲しみに沈んでいる姿など、決して見たくはないのだから。
「ねえねえ、どうして黙ってるの? そう言えばレイルの家に凄く綺麗な人が逗留してるのよね? もしかして、その人に体よくあしらわれてたりして。だからなんだか疲れてる
ように見えるのかしら」
何も言わずにいたのをいいことに、ミスリィは好きなことを言いたい放題。
いったい誰のおかげで苦労させられていると思っているんだか、と喉まで出かかるのをどうにか堪える。多少は辛酸を舐めた方が実は彼女のためなのでは? などということが脳裏を過ぎり、レイルはやり場のないやるせなさにため息をついた。
その反応にミスリィはさらに勝手に盛り上がっていたが、ふとした瞬間から彼女の声など耳から入らなくなる。
ミスリィの言葉が静止したのではない。レイルの意識がある一点に注がれたため、彼女の声など気にならなくなったのだ。
レイルが聞いていようがいまいがお構いなしに我が道を行くミスリィの肩の向こう、人通りを隔てたリュルゾ亭のはす向かいの店から出てきた人影――。
「あっ! ちょっと、レイル!」
背中に追いすがるミスリィの声を振り払い、駆け出したレイルが求めるのはただ1つ。
人ごみの中に去り行く、黒いマントの男の背中だった。
☆
リュルゾ亭のはす向かいにある店から出てきたのは、ユイリスを完膚なきまでに言い負かした男、ウルだった。容姿はもちろんのこと、特徴のあり過ぎるあの黒いマントを見間違えるわけがない。
行き交う人々の合間をぬって、ひたすらウルの背中を追う。
なぜなら、レイルの身の回りで当人以外にユイリスの過去を知る唯一の人物こそウルなのだから。本人に直接話を聞けないのであれば、事情をよく知る彼に聞くほか手立てはない。
人の過去、とりわけこれまで壊れ物のように触れずにきたユイリスの過去を、ここにきて知ろうとする行為に躊躇いがないわけではない。
ただ、これまで彼女のことを色々と案じてきたにもかかわらず、実は何一つ本当の彼女のことを知らない自分が歯がゆく、その思いは少しずつでも蓄積されていた。
普段冷静なユイリスをあれほど取り乱させる、彼女の過去。ユイリスのことを慮るからこそ、いったい彼女に何があったのか――それが知りたかったし、その思いがレイルの背中を押したのだった。
黒いマントを何度も視界から失いかけつつもどうにか追跡し、幾つもの路地を抜けていく。街路の人々が障害となって満足に走っていくことができないなか、それでもレイルは懸命にウルを追いかけた。
にもかかわらず、彼との距離は微々たるものしか縮まらない。
ウルは大人であるがゆえに歩いているとはいえ歩幅がレイルとは違う。それ以上に、急流の最中にある岩場の間を流れるように抜けていく木の葉のごとく、人ごみを人ごみと思わせないほどの身のこなしで先へ先へと歩を進めていくウル。
その時は突然やってきた。
レイルの頑張りが天に認められたのか、ほんのひと時、自分とウルとを結ぶ直線上を遮る者がいなくなったのだ。
好機だった。ユイリスを知る男に、レイルはあと一歩と迫った。
手を伸ばし、声をかけようとした。
横から現れる大きな影。
反射的に歩を止めるレイル。
彼の行く手を遮ったのは、横道から突如飛び出してきた大男だった。驚いているレイルを尻目に、彼はレイルの行く手を横切ってそ知らぬ顔で通り過ぎていった。
時間にして、わずかな間。
だがそれは致命的な間でもあった。
つい先ほどまで視界に捉え、手が届きそうだった黒いマントの男の姿は、レイルの眼前から忽然と消え去っていたのだから。
我が目を疑い、慌てて周囲も見回して見るが、いない。
予期せぬ邪魔のせいでウルを完全に見失ってしまった。せっかくの好機をみすみす見逃してしまったことに愕然とし、レイルはその場に棒立ちになる。
「なんだよ、あと少しだったのに」
口惜しさが言葉となってこぼれた。
やるせなさに肩を落とし、しばし俯いていたレイルだが、彼の眼は急に見開かれた。
ほんのわずか、ではあったが不意に背後から異質な気配を感じたからだ。
通行人などのものではない。レイルは咄嗟に振り返った。
「ほう」
何かに妙に感心しているような声が振り向いた彼を迎えた。
短く刈り込んだ栗色の髪の青年は、黒いマントをたなびかせながら灰色の瞳をまっすぐこちらに向けていた。
追いかけて追いかけて、どうにか間近に迫ったものの見失って、諦めざるを得ない状況に陥ったにもかかわらず、追いかけてきた相手が今、目の前にいる。
思ってもみなかったことに、レイルはなにを言っていいかわからず視線を泳がせた。
「使いをさぼった上に、彼女を放っぽりだして鬼ごっこをしていていいのか? 少年」
先に口を開いたのはウルだった。
彼は先日のリュルゾ亭での一件を覚えていた。なにより、先ほど自分がリュルゾ亭を訪れ、間口でミスリィと話していたことに加え、彼をつけていたことに気がついていた。わざわざ背後から近づいてきたことも、彼がはるか前からこちらの動向を見知っていたことを証明していた。
恐るべきウルの鋭さに息を呑むが、レイルはどうにか踏みとどまった。
「しょ、少年なんて名前じゃない。俺の名前はレイルだ」
それは明らかな強がりで、あまり意図せず言葉が先に出たような状況ではあったが、こうなればやぶれかぶれである。すると――
「そいつは悪かったな。レイル、か。良い名だ。俺はウル、ウルゼックだ」
意外にも彼は素直に謝罪し、自ら通称ではない正式な名前を口にした。それも、これまであまり表情を見せたことがなかったにもかかわらず、わずかとはいえ口元に笑みを浮かべて。
思ってもみなかった反応に目を丸くしていると、ウルゼックは踵を返して歩いて行ってしまう。
次から次へと予想外の事柄が起きているので、どう対処していいかわからなくなり立ち尽くしていると、
「どうした、俺に用があるのだろう? ついてこい」
先を行くウルゼックは立ち止まり、半身だけ振り返って言った。またもや意外な彼の心配りではあったが、おかげでレイルの戸惑いは晴れた。慌てて彼の背中を追いかけた。
レイルはウルゼックに付き従った。
しばらくは無言で歩を進める2人。
「ユイリスから相当な訓練を受けているようだな」
歩きながら、唐突に話しかけてくるウルゼック。もちろん振り向いたりせず、顔は前を向いたまま。
黒いマントの男は行動がいつも唐突だったが、さすがにここまで立て続けに起きると少しずつではあるが耐性がついてくる。彼が修練のことを知っているとしてもそれほど驚くことなく受け入れられた。
「さっきのことだ。徹底していたわけではないが、俺は気配を殺していた。まさか気づいて振り向かれるとは思っていなかったからな。少々驚いた」
驚いたと言っているが、彼の喋り方には抑揚が乏しいためあまり驚いているように聞こえないところが彼らしい。
表情も伺い知れないだけに真偽は定かでなかったが、ウルゼックの話は続いたため、レイルは黙って耳を傾け続けた。
「初めて出会ったあの酒場の時からわずか数日しか経っていないにもかかわらず、だ。目覚しい進歩だな。あの時は気づかれる兆候など一切なかったのだから」
そこまで聞いてふと疑念が湧く。
唐突なウルゼックのことである。ユイリスから修練を受けていることを見知っていたとしてもありえない話ではない。閉鎖された室内で修練をしているわけではなく、ギョーム河の川べり近くで行っているのだ。なるべく人目につかない場所を選んではいるが、誰にも見られない隔絶した場所というわけではない。
偶然通りかかったウルゼックに修練を見られる可能性も無きにしも非ず。
だが、一連の言動を顧みるとどうも腑に落ちない。特に、先の「あの時は気づかれる兆候など一切なかった」という一言が引っかかる。
レイルは、ウルゼックという人物のことを洗いざらい思い出し、鍵となる事柄を脳裏で検証した。いや、検証するまでもなかった。
簡単なことだ。
ウルゼックはなんのためにサイレアに来たのか。そう、ユイリスを探していたのだ。初めて出会ったリュルゾ亭でも彼はユイリスの所在を尋ねていた。
その彼に、あの場面で自分はどういう反応を示したか。ユイリスという単語が出ただけで慌てふためき、あまつさえそのまま脱兎のごとく走り去ったのである。
よほどおめでたい人間でもない限り、ユイリスのことを知っているからこそ動揺して逃げ去ったと考えて然るべき。
そう、あの後レイルはテルミト亭までウルゼックに尾行され、ユイリスの所在、ユイリスとの関係を既に把握されていたのである。一昨日、修練の帰りに見えたのも決して偶然などではなかったのだ。
人を探しているのだからそこまで行ったとしてもまったく不思議ではないのだが、ウルゼックという男のやることは徹底しており、自分とはあまりにも違う格に素で感嘆を覚えた。
もっとも、口から出たのは、自分がまったくの道化で彼に全てを見透かされていた気恥ずかしさを隠す言葉だったが。
「なんだよ、全部知ってたのかよ。意地悪いよな」
「ほう、頭の回転もいいようだな。ユイリスが目をかけているのもわかるというものだ」
どうやら本当に褒めてくれているようなのだが、例によってウルゼックの声で言われてもあまり褒め言葉に聞こえない上、一連のできごとからすると逆に皮肉を言われているような自虐的な気持ちに陥ってしまう。
今、これ以上言葉を交わす気力を失い、レイルは以降黙ってウルゼックの後をついていくのだった。
ウルに連れられてきた先は、町はずれの小高い丘の上。立ち木が一本生えており、根元付近に野営の跡があった。立ち木の根元上辺りには大きな洞があり、そっと覗き込むとそこには麻布に包まれた荷物や巨大なトランクケースが隠されていた。
「ここで寝泊りしているのか」
「旅の暮らしが長くてな。宿よりも野営の方が気楽でいい」
言って、ウルゼックはその場に座りこんだ。レイルも彼に倣って、彼の眼前に腰を下ろす。
「その様子だと彼女からなにも聞かされていないな」
頷き、レイルはユイリスと出会ってから今日までの一連の出来事をかい摘んで話した。
ギョーム大河の河岸で行き倒れていたユイリスを助けたこと。
以来、彼女は療養のためにテルミト亭に逗留していること。
自分の揉め事に助け入ってくれた上に、問題を解決するための手を打ってくれたこと。
そして、解決するための手として自分を鍛えてくれていること、を。
ウルゼックは黙って聞いていたが、やがて口元を歪めて小さく苦笑いした。
「俺、なにかおかしいことでも言った?」
「いいや。昔とまったく変わらん行状に、彼女は彼女のままだと安心したところだ。むしろ、あまりに変わっとらんことに少々呆れたぐらいでな」
言葉とは裏腹に、ひとしきり微苦笑した後の彼の表情はとても穏やかだった。呆れよりも安心している思いの方が強いことを如実に表しているに他ならない。
感情を面に出さないウルゼックがわずかでも変化を見せていることから、それだけユイリスを案じる思いと彼女との深い結びつきを彼から感じる。
自分にはそこまでの繋がりなどない。レイルは羨ましいと思う気持ちとともに、どこかやるせない思いも湧き上がるのを感じ、戸惑いを覚えた。
心の動揺を読み解かれまいと、レイルは戸惑いを払拭するかのごとく口を開こうとした時、ウルゼックの鋭い声が彼を制した。
「それで、どうしてレイルはユイリスに何も尋ねない」
いきなり最も痛いところ近くへと迫る言葉。レイルは顔を強張らせた。
「彼女に何も聞けず、それでも彼女のことが知りたいから俺のところへきたのだろう? だが、なぜ彼女に話を聞けない? 直接本人から聞いた方が早いだろうに」
追い討ちをかけるかのように、矢継ぎばやに問いかけてくるウルゼック。
彼の言い分は正しい。
しかし、彼の言う通りにはできなかった。なぜなら――
「ユ、ユイリスは自分の昔の話をしたがらないんだ。それに、父さんに『人それぞれ聞かれたくないこともある』って言われてきたし、俺もそう思うから。聞けなかったんだ、なにも」
そう、だからここに来た。ウルゼックに尋ねるために。
だが、それは同時に核心を突かれる危険も孕んでいた。なにより、今まさにウルゼックによって核心――自身の行動に『つじつまが合っていないこと』――を追及されようとしていたのだから。
そして、自ら墓穴を掘ってしまったことにもすぐに気がついた。話の流れで自らつじつまの合わない行動をしていることを証明しまったのだから。
話術や駆け引きには確かに長けてはいないが、自分で自分の首を絞めたことぐらいはわかる。レイルの自己判断は間違いではなかった。
「なるほど、いい心がけだな。だが、彼女のことを俺から聞きだしてしまったら結局同じことなのではないか?」
凍るような冷たい視線をこちらに向けながら、ウルゼックはレイルが危惧した通りの正論を投げかけてきた。
ユイリスを追い込むほどの男である。こんな基本的なことに気づかないわけがなかった。
ウルゼックが対話の機先を制した時点で、こうなることは既に決まっていたのである。
過去を知られたくないというユイリスの姿勢を尊重しながらも、その裏で彼女の過去を探るというつじつまが合わない事実。非難されても文句は言えなかった。
もはやウルゼックにユイリスのことをまともに尋ねることなどできるはずなく、レイル自身も黙しているしかない――そう思っていた。
「それでも――」
溢れ出す言葉。握り締めた拳に力が入る。頭の中が真っ白になり、押し留めることはできなかった。
「それでもユイリスのことが心配だったんだ!」
叫んだ。そして、我に返って自らがなした行為に驚いた。
叫ぶつもりなど毛頭なく、それどころか放った言葉の内容自体、考えてもいなかった。ほとんど無意識的に、感情の赴くまま出てしまった言葉だった。
「お、俺、いったい、なにを」
興奮も一瞬で醒め、我を取り戻したレイルは、自身の行為に動揺し、視線を泳がせる。
彼が灰色の双眸を落ち着かせたのは、ウルゼックが彼の名前を呼んだ時だった。
ウルゼックを見やると、彼の眼光から冷たさは失われていた。ユイリスの今を知って安堵した時の穏やかなものに戻っていたのである。
「案じているのだな、彼女のことを」
彼の瞳には、レイルを非難する色などなく、ユイリスに対する思いを吐き出したことをむしろ喜ぶような優しい光が湛えられていた。
本心から心配しているからこそ出た叫びであったが、筋から言えば無茶苦茶なもので、てっきり批判されると思っただけにレイルは怪訝な表情を浮かべるしかない。
予期せぬ反応を見せたウルゼックだが、彼はさらにまったく予想外の言葉を投げかけてきた。
「もしや貴様、彼女に惚れたか?」
まったく考えていなかった問いかけだっただけに、一瞬彼が何を言っているのかわからなかった。脳裏で反芻してみて言葉の意味を理解してからようやく、だがあっと言う間に赤面する。
「そ、そんなんじゃない! き、綺麗な人だと思ってはいるけれど」
興奮したり冷静になったり、そしてまた興奮したりと、もはや自分でも何を言っているかわからなくなってきているため、言わなくてもいいことを口走ってしまう。羞恥に顔を真っ赤にしたまま慌てて口をつぐむが後の祭り。
しっかりとその耳に届いた証として、ウルゼックは声を上げて笑い出した。それは、表情をほとんど変えない彼が初めて見せた満面の笑みだった。
微苦笑したり穏やかな表情を見せたりと、ほんのわずかな変化はこれまでもあったが、彼がここまで感情を露にすることなどなかった。なによりその外見からは想像もできなかっただけに、恥ずかしさも忘れてレイルは目を丸くした。
「正直な奴だな、レイルは。気に入った。貴様のような人間は好感が持てるぞ」
ひとしきり笑った後、彼は一言謝ってからそう言った。どうやらまたしても褒められているようなのだが、あれだけ笑われてから言われても素直に喜んでいいのかわからず、レイルは今日何度目かの複雑な表情を浮かべるしかなかった。
「まあそう腐るな。俺はお前を買っているんだぞ。素直に喜べばいい。それに、彼女のことも案ずることはない。彼女はとても芯の強い女性だ。必ず自らけじめをつける。そういう人間だ」
自分のことはともかく、あれほど責めたユイリスのことも称えるウルゼック。ユイリスに冷たく当たっていたのがまるで嘘のようだった。
「ウルはユイリスのことが嫌いなんじゃないのか? こないだあんなに責めていたのに。それが今日は、なんだか褒めてるみたいだ」
訝しげに問うと、ウルは再び破顔した。
「俺は彼女のことを嫌ってなどいないぞ。むしろ敬意を払っている。だからこそ、だ。ま、貴様も大人になればわかる」
だからこそだと言われても、言っていることとやっていることが食い違っているようにしか思えず、レイルはどこか釈然としなかったが、ユイリスがとても芯の強い女性であるという言には諸手を上げて賛成だ。
今まで見せたことのない一面を突然見せられたためにユイリスのことが心配でならなくなっていたのだが、ウルゼックから諭されたことでユイリスという人物がどんな人間であるか、思い出させられた。
今は彼女を信じて待つことこそ、ユイリスを慮ることになるのだ。
「時が来れば彼女の方から胸の内を明かしてくれるだろう。それまでは彼女を信じ、見守ってやってくれ」
異論は一切ない。レイルは深く頷いた。
会談の席は終わりを迎えた。どちらからともなく、2人は立ち上がる。
別れ際、ウルゼックは言った。
「彼女に伝えてくれ。俺はしばらくここに逗留している。気持ちに整理がついたら、会いにこい、と」