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剣と勇気を、与えてください  作者: 羽場速雄
8/15

8.

 私にまかせて――誰あろう、ユイリス=レンフィアが口にした言葉である。

 次から次へと大言を吐いたのは伊達ではなく、グェイン=ガルドとの一件から一夜明けた早朝から彼女の指導は開始された。

 朝靄がまだそこらに立ちこめる、まだ人々が寝静まっている時刻。レイルとユイリスはギョーム河岸へと赴いていた。

 元々この時間、レイルは半年前から散歩と称して毎朝ギョーム河岸へ出向いては秘密の修練を積んできていたのだ。そこにユイリスが帯同するといっても散歩の道連れということで両親への言い訳はついた。

 加えて漁もして店の食材を手にいれるという理由をでっち上げ、さらに数時間を稼ぐことに成功。反面、量の多寡はあれど実際に獲物を持ち帰らなければならないという負債を背負うことになってしまったが、それは心配ないとユイリス。

 実際に修練するのはレイルだから、私が釣りしてればいいでしょう? と至極簡単に言ってくれる。

 そんな簡単に釣れるもんか、と釣りを愛好する身ならではの文句が口を突いて出そうになったが、戯言はすぐに喉元までも出なくなった。

 ユイリスが指導する修練が始まったからだ。

「剣の構えはなかなかのものね」

「武勇伝を聞かせてくれた元騎士のおっさんから基礎のさわりを教えてもらったからさ」

 言われるがままに携行した木剣を構えると、ユイリスはあたかも感心したかのごとく笑顔を見せた。

 しかし、それは悪戯な魔女の笑顔だったことにすぐに気がつくこととなる。

「それじゃ、ちょっと打ち込んでみるわね」

 えっ? と彼女がなにを言っているのか理解できずに目を丸くするレイル。

 言葉の意味を理解する間もなく、木剣は乾いた音とともに彼の手から大空高く舞い上がっていた。

 手が恐ろしく痺れている。当然だ。握りしめていた木剣をユイリスが同じく手にした木剣で思い切りなぎ払い、弾き飛ばしたからである。

 なんの予告もなしに行われた上、あまりの手の痺れに呆然としてしまったが、弾き飛ばされた木剣が河原に落下した音が契機となって我を取り戻す。

「い、いきなりなにすんだよ!?」

「あら、いくら手合いだからって真剣勝負には違いないわ。取り決めがあっても油断した方が負けるのは自明の理よ。修練はもう始まっているんだから、常に意識を張りつめておかなければいけないわ」

「そ、それにしてもいくらなん」

 レイルは最後まで抗うことができなかった。

 先ほどまでの笑顔がまるで嘘のように凍りつくような冷めた瞳がこちらを見据えていたのだから。

「レイル、私が貴方は一週間で彼に勝てると言ったのはね、馴れ合いを一切なくしてそれこそ死ぬ気で修練するという前提を踏まえて言ったのよ。どんな理不尽なことでも乗り越えて心と体を虐め抜いてこそ、貴方の持つ潜在能力は初めて花開くわ。私の言っていること、間違ってる?」

 言い返せない。多少強引とはいえ、彼女の言動は目指すべき方向を違えていなかったのだから。

 だが、彼女が次に放った言葉には即反応する。そうでなければ、自分はここに立っている意味などないのだから。

「彼に勝ちたくないの?」

「勝ちたいさ!」

 試すような眼差しを向けてくるユイリスに対し、拳を握りしめ、視線を逸らすことなく見返した。すると、こちらの意志を推し量るかのように黙っていた彼女だが、不意に相好を崩した。

「結構、男の子はそうでなきゃ。それに、レイルに頑張ってもらわないと、私、あの彼の慰みものになっちゃうわよ」

 満足したように澄まし顔で頷いているユイリス。

 さすがに呆れて、それは自分が言い出したことだろ、という文句が喉まで出かかったが、堪えて何も返さない。彼女の助け舟がなければ負け続けの泥沼から抜け出すきっかけさえつかむことができなかったのだから。

 それに、ここで文句や愚痴をたれることは今直面している問題からただ逃げることにしかならない。今はユイリスを信じ、彼女についていくしかないのだ。

 弾き飛ばされた木剣を黙って取りに行き、再びユイリスに向かって構えを取る。

 これに、少し驚いたような表情を見せた彼女だが、それはすぐに微笑みに変わっていた。

 見当違いなのかもしれないが、彼女の微笑みはどこか自身の頼もしさを感じてくれたような色を湛えていた。



 ユイリスの修練は初日から過酷を極めた。

 まず、木剣の素振り千本。回数も尋常ではなかったものの、それ以上に一振り一振りについての正確さを徹底することについて特に厳しく指導された。

 脇を締め、振り上げた木剣を最短距離で鋭く振り抜く――簡単なようで毎回正しい形を維持するのは至極難しい。少しでも形が崩れたり剣筋が揺らいだりすると、すかさず注意を受けた。

 それでもどうにか終えた後に待っていたのは、地獄の体捌き修練だった。

 まずは下半身の動きが大事と、決められた順番での足捌きをとにかく何回も繰り返させられた。同じ動作の反復も苦痛だったが、それを重ねる体力の問題もあった。

 不幸中の幸いは、元々恵まれた体力を持っていた上にこの半年の独自修練が生きていた点である。走り込みによって下半身の地力がしっかりついていたために、どうにか彼女の指導にも耐えることができたのだ。並の少年ならばとうに根を上げていたに違いなかった。

 足捌きの次は上半身も使った全身での体捌き。

 小枝を結んだロープを巨木の枝からおおよそ上体の高さにくるよういくつもぶら下げ、その下に立つ。そしてユイリスが長い棹で次々と小枝を叩いていくのだ。

 当然ながら小枝は不規則に揺れまわり、一群の真下に立っているのだから当然それらがぶつかってくることもある。これを教え込まれた体捌きの基本姿勢を保ったまま全てかわすという、過酷を極める修練だった。

 ぶらさがっている小枝も全てが同じ高さにあるわけではない。例え目線の高さの小枝をかわしてもそこだけに気を配っていると、次に腰辺りへ小枝が迫ってくるともうかわせない。

 小枝だけに当たってもほとんど痛くはないが、修練の意義をまっとうするために消耗する体力は尋常ではなかった。結局ほとんどかわせないままユイリスから休憩の指示が出た時には、既に足腰が立たなくなっていた。

 ところが、ユイリスの指示はあくまで休憩であり、決して修練の終了とは言わなかったのである。

 そう、この後に恐怖の実戦修練が待っていたのだ。

 実戦修練に際して、ユイリスから出された課題はただ1つ。

 素振りと体捌きで学んだことをとにかく忠実に守って打ち込んできなさい――彼女はそれだけを口にすると、至極自然体で木剣を構えた。

 その美貌を除けば、どこにでもいるごく普通の市井の女性にしか見えない彼女が手馴れたように木剣を構えている姿は、何も知らなければ誰もが激しく違和感を抱くだろう。

 一方、レイルは彼女がごく普通の女性などという概念をもはや捨てていた。

 グェインと対峙し彼を圧倒したユイリス、素人には及びもつかない過酷な修練を次々与えてくるユイリス、そして一見自然体に見えてどこからどう打ち込んでいいかわからないほど隙のない眼前のユイリス。

 彼女がただ者ではないと証明する最後の仕上げは、この実戦修練だった。

 隙はなくとも打ち込まねば修練にもなにもならない。逆立ちしても彼女にかなわないのは百も承知で、与えられた彼女の言葉を意識しながらもレイルはユイリスへと立ち向かった。

 教えられたばかりのこと――剣の扱い方を忠実に再現し、力一杯打ち込む。

 両腕に強烈な衝撃が走り、危うく木剣を弾き飛ばされそうになった。力を込めてどうにか情けない事態は回避したが、打ち込んだはずの木剣は明後日の方を向いていた。

 ユイリスが己の木剣でこちらの目一杯の打ち込みを振り払ったのだ、それも片腕で。

 呆気に取られそうになるも、そんな暇はなかった。

 木剣を振り払った後の彼女の腕は、緩い楕円を描いて戻ってくる――などというなまやさしい軌道を描かず、鋭角に切り替えして再び迫ってきたのだから。

 慌てて避けようとするが、気がついた時には左太ももに彼女の木剣がめり込んでいた。

 激しい痛みが体の芯を貫き、意図せず片膝をついてしまう。それでも、決して痛いと叫んだり、弱音を吐いたりはしない。

「レイル、体捌きは? 今のは左足を引いてかわすか、手首を捻って木剣で受けるかしなければいけないわ。真剣なら今の一撃で貴方の足、斬り落とされていたわよ」

 木剣を支えにしてどうにか立ち上がると、待っていたのは情け容赦のない指摘だった。いつものユイリスの面影など一切なく、いたわりの言葉も一言すらない。

 だが、それも全て自分のことを考えてくれているからこそなのだ。手厳しい指導にすぐに根を上げ、不満をぶちまけるような腐った性根を持っていないレイルは、彼女の思いを無駄にしないためにも痛みを堪えて立ち上がった。

 なにくそ、と己を励まし、今度は力加減を調整して彼女の対応に反応できるよう再び打ち込んでいく。

 ユイリスが手加減をして受け手を務めているのはレイルの目にも明らかだった。しかも彼女は動きやすいズボンなどではなく、いつものスカート姿。それでも、彼の木剣は彼女の体をかすりすらしなかった。

 もっとも、彼女に対してまともに打ち込んで行けたのは、最初の1撃の他には2、3度ほどしかない。

 実際はほとんど守勢に回るしか打つ手はなく、ユイリスの木剣はこれでもかというほどレイルへと襲いかかってきたのである。

 ユイリスの剣は疾風のごとき。彼女の剣を基準とするならば、もはやグェインの剣術などどんなに間口を広げても比較の対象にすらならない。

 彼女の剣速は常軌を逸していた。どうにか切っ先を視界に入れ、反応し、回避しようとするが、彼女の剣からは絶対に逃れられなかった。

 さらに、軽快さが女性の剣という印象があったものの、彼女の剣はさらに恐るべき破壊力までも伴っていた。あのほっそりとした体のいったいどこから屈強の男顔負けの凄まじい力が出るのだろうか。

 最初に受けた太ももへの一撃といい、直撃すると体の芯まで響いた。何度も息をつまらせるほどの苦痛が伴った。

 それでも、ユイリスは修練を止めなかった。

 もちろんレイルも止めはしなかった。逃げ出したい思いは皆無だったかと問われれば、答えは否だ。

 だが、彼の意地が、矜持が、それを許さなかったのである。ミスリィのため、ユイリスのため、なにより自分のためにも。

 とはいえ。夢中でユイリスに立ち向かったが、いつの間にか先日グェインにやられた時同様、河原に大の字になってへばっていた。気ばかり急いても、慣れていない体が先に限界を迎えるのは自明の理だった。

「お疲れ様。今回はここまで」

 なんとかして立ち上がろうとしていたところに天より降ってきた救いの声。

 先ほどまでの一切の妥協を許さない冷徹なユイリスではなく、いつもの優しいユイリスだった。既に天に昇った朝日の輝きに負けない、柔和な笑顔を浮かべつつ手を差し伸べてくる。素直にその手をつかむと、軽々と引き起こされた。

「よく頑張ったわね。貴方ぐらいの年頃の、いわゆる普通の男の子だったら、最初の千本すら全うすることもできずに音を上げているわ。私の修練を一通りやり通すことができたのは、貴方がこれまで独自に修練を重ねてきた成果よ」

 厳しさに満ち溢れた剣とはうって変わって、穏やかな声でこの半年の成果を褒めてくれるユイリス。空色の瞳は優しい光をたたえていた。

 褒められてへそを曲げるような偏屈ではなく、まだ大人社会の汚さに影響されていない素直な心のままのレイルにとって、彼女の言葉は激しい修練で疲弊した心身を少なからず癒してくれた。

 とはいえ、妙齢の美しい女性から褒められるなどということに慣れていない彼は、気恥ずかしさに空色の瞳からつい視線を外してしまう。それを知ってか知らずか彼女は、「大丈夫?」と労ってくれた。空色の瞳から逃れたのは疲れたからではないのですぐに否定すると、彼女は満足そうに頷いていた。

「でもね、肝心なのはこれから。なんと言っても今日を入れて彼との手合いまで実質6日しかないもの。まとまった時間は朝しか取れないけど、少しでも時間を見つけて、できることをしていきましょうね」

 輝くような笑顔もつかの間、それまでの笑顔から一転して表情を引き締めた彼女の意図は、締めるところは締める、というところにあるのだろう。

 それこそ望むところである。この半年味わってきた屈辱を思えば、肉体的な厳しさが勝るユイリスの修練の方がはるかに耐えられる。もう鬱屈した日々には戻りたくないし、紆余曲折あったとはいえグウェインに勝って全てを清算できるかもしれない機会を得た今こそ全力を尽くす時だった。

 レイルも表情を引き締め、真剣なまなざしを彼女に向けながら頷いた。

 気概を込めた姿勢にユイリスも納得してくれたのか、再び相好を崩してくれている。今はそれだけで十分だった。



 修練を終えたレイルとユイリスは、休む間もなく慌てて川釣りをすることとなった。

 朝の散歩だけでは説明のつかない時間を外出で費やしたが、こうなることは事前にわかっていたため、これを偽装する目的で『店用の食材を確保する漁をするのだ』と無理矢理両親を納得させて出て来たからである。

 当初はレイルが修練している間に手すきのユイリスが獲物を釣り上げる、という目論見だったのだが、見通しが甘かった。

 なかなかどうして、世の中の均衡は保たれているものである。天は二物も三物もユイリスに与えていたが、こと釣りの技術に関してはその限りではなかった。

 レイルが必死になって木剣を素振りしている横で彼を指導しつつ釣り糸を垂れていたユイリスだが、引きが来るどころか彼女の釣り竿は微塵も動かなかったのである。

 長い旅の最中、幾度も魚を釣り上げたことがあると彼女は言っていたが、話を聞くとどうも削って槍状にした木の枝を駆使し、小さな渓流の浅瀬で直接小魚を獲っていたことを指しているようだった。

 あれほどの剣術を見せつけるユイリスのことだ。その方法で魚を獲ることぐらいぞうさもないことだろう。

 しかし、まかり間違ってもそれは『釣り』と呼べるものではなく、今回一匹たりとも釣り上げることができなかったのは至極当然の結果だった。

 ユイリスの技術的問題はとりあえずさておき、これから回を重ねて行けばもちろん不漁に終わる時もあるだろうが、初日からいきなり手ぶらで帰るというのもいまひとつ説得力に欠ける。

 結局、修練が終わった後に2人で必死になって釣りをする羽目になったのだ。

 さすがに釣りを趣味としているレイルだけあって、ユイリスとは違い目に見えた結果を出した。

 時間が限られているのでさすがに次々と、とまではいかなかったが、携行した籠の底が見えなくなる位には釣り上げることができた。これならば両親から疑惑の目で見られることはないだろう。

 一方ユイリスの戦果は、小指ほどの大きさの小魚一匹。剣術等々でレイルがユイリスに勝るものはなかったが、こと釣りに関してはユイリスの完敗だった。

「もっと簡単にいくと思っていたのに。なんだか自信無くしちゃうわ」

 サイレアへと戻る途上、小さな林に切り開かれた林道を並んで歩いていると、気持ち肩を落としたユイリスが力無くぼやいた。

 ということは「あれ」で自信があったのかと。さすがにどう応えていいかわからず、レイルは引きつった笑みを浮かべるだけだった。

 とはいえ、なにをやらせても完璧、ないし完璧に近い結果を見せてきたユイリスにも苦手なものがあったと判り、これまで以上に親しみを覚える。考えるまでもなく全てが完璧な人間など存在するわけもないのだが、これまでのところ目立った隙をほとんど見せなかったユイリスだけに、今回の一件は彼女との距離を一層縮めてくれたような気がしていた。

 いまだにあの結果が気に入らないのかぶつぶつと愚痴を垂れ流し続けている姿に対し、胸中で苦笑することは禁じ得なかったが。

 剣術や剣術に対する心構えは彼女から教えを請うているが、お礼に釣りの仕方を教えるというのも、もしかしたら少しでも借りを返せるのかもしれないなあ、などとたわいもないことを考えていると、不意にユイリスの足が止まった。

 突然歩みを止め、いったいどうしたのだろう? と隣の彼女の顔を見上げようとした時。

「頭下げて!」

 鋭い叫び声。同時に、いきなり頭を押され、視界の中で空が回った。

 次の瞬間、目の前にあったのは雑草がちらほら生えた茶色い大地。レイルはすぐに自分が地面に押し倒されたことに気づいた。

 押し倒した張本人はもちろんユイリス。彼女も大地に伏せ、油断なく周囲を見回していた。

「ユ、ユイリス? いったいどうしたんだよ」

 当然の質問である。説明抜きで地面に押し倒されたのだ。心の準備もなにもなかったので、倒された時に体をかばって地面に着いた手も痛い。いささか憮然とした表情をして抗議の姿勢を見せるのも当たり前のことだった。

 が、レイルは二の句がつけなかった。ユイリスはグェインに対して見せた、あの恐ろしいほどの氷の表情をしていたのだから。

 もちろんそれはレイルに対してではなかったが、他者に決して反論を許さない圧倒的な威圧感の前に言葉を失わざるを得なかった。

「ごめんなさい、レイル。でも仕方なかったの。そこの幹、見て」

 何が起こったかさっぱりわからず、挙げ句にユイリスの厳しい表情を見せられ呆然としていたからだろう。さすがに周囲を警戒する姿勢は解かなかったものの、こちらに配慮してくれたのか顎をしゃくるようにして頭上を指し示していた。

 言われるがままに見ると、林道脇に立つ木の幹に数本の鋭い金属が突き立っていた。それは紛れもなく短剣であり、丁度人の頭当たりの高さに突き立っている。もしユイリスが押し倒してくれなければ、命中していたのは自身の頭かもしれなかった。

 さすがに恐ろしくなって生唾を飲み込む。そうしている間にも、ユイリスは意識を張り詰めさせ、いつでも不測の事態に対処できるよういつの間にか木剣を握り締めていた。

「いるわ。でも1人?」

 彼女の言葉に恐る恐るレイルも周囲を見回すが、人の姿など視界に入ってこない。

「気配に悪意は感じない。いったいなにが狙いなのかしら」

 なるほど、ユイリスは相手の気配を感じ取っていたのだ。とすると、相手が短剣を投げたのを直接見たわけでなく、投げる気配を感じ取って身を伏せたということになる。

 そこでふと思う。

 昨日から少しずつ蓄積されていた疑問だ。

 彼女は自身が身につけた戦う技術は、旅の最中に襲い来る脅威から自分の身を守るためだと言った。

 その主張は至極真っ当だ。しかし、女性の身であればおのずと限界があるだろう。幼い頃から剣士や騎士を目指して修練した上での戦う技術と、旅路の中で身を守るために後々覚えた戦う技術には必ず差が出てくるはずだ。なぜなら後者はあくまで自衛を目的としており、最低限の戦う力さえあれば事足りるのである。

 だが、先ほど見せた彼女の反応といい、視界にない相手を気配で感じ取る能力、なにより昨日の対グェインから今朝の修練まで存分に見せつけられた筆舌し難い強さを考えると、どう贔屓目に見ても自衛の為の力を遙かに超越しているとしか思えなかった。

 彼女にどんな過去があったのかはわからないし、そのことを彼女が隠している以上知る術はない。

 だが、彼女に問うことはできない。これまでにもやんわりと拒絶されているし、なにより父親譲りの『人それぞれ、聞かれたくないこともある』という考えがレイルには浸透していたからだった。

 ユイリスに謎は多かったが、決して信義にもとるような人物ではない。今は彼女を信じてついていけばいい。

 そう考えると、こんな時は彼女の強さがとても頼もしかった。もっとも、比較するのも愚かしいが、彼女に比してなにもできない自分の力のなさに幾ばくか気落ちさせられもしたが。

「どういうこと? 無警戒で近づいてくる」

 色々と思いを巡らせているレイルとは違い、片時も気を抜いていなかったユイリスはやにわに立ち上がった。

 レイルも彼女に倣い、慌てて立ち上がる。続けて表情を崩さないまま彼女が見据えている方向を彼も見、息をのんだ。

 木立の間を抜け、人影がこちらへと向かっていた。

 見覚えのある人物だった。

 忘れるはずがない。昨日リュルゾ亭で対面した、ユイリスを探していたあの黒いマントの男だったのだから。

「き、気をつけてユイリス。あいつ、昨日の夕方、リュルゾ亭でユイリスのことをフェンソおじさんに色々聞いていたんだ」

 あの青年の言動からは悪意を感じはしなかったが、なにせ身なりが身なりである。加えて、彼の言を信じるのであれば隣国フレアミスからはるばるユイリスを探しに来ているというではないか。よほどのことがなければそこまでできないし、あの男のいでたちからはどうしてもいい方向に考えることができなかった。

 どうにか絞り出した声でユイリスへ注意を呼びかけたのはそのためだったが、レイルの危惧は途中で霧散させられることとなる。

 黒マントの男を見据えたまま微動だにしない彼女の異変に気づき、不審に思ったレイルはそっと首を巡らせ、覗き込むようにしてユイリスの顔を見上げた。

 すると彼女は、「大丈夫」と一言。

 いったい全体なにが大丈夫なのか見当もつかない。そうこうしている間にも男は着実にこちらへ近づいてくる。男は短剣を放ってきたが、武器はそれだけではないはずだ。彼が腰に長剣を下げていたのを、昨日その目に焼き付けていたのだから。

 ユイリスは確かに強かったが、彼女が今手にしているのはただの木剣である。真剣相手には分が悪すぎる。

 にもかかわらず、彼女は逃走を促す素振りを見せるどころかまったく臆した様子を見せていなかった。

 が、すぐにその疑問は解決することになる。

「心配いらないわ。知り合いだから」

 感情の抑揚なくつぶやいた彼女の言葉にさらに驚いた。ついにすぐ目の前までやってきた男と知己なのだというのだから。

「3年ぶりの再会にしてはあまりにも随分なご挨拶ね」

 久方ぶりの再会だと自身で言いながらも、決して再会の喜びなどに表情を緩めていないユイリス。諸手を上げて歓迎していない様子がありありと伝わってくる。もっとも、いきなり短剣を投げつけられて笑顔で迎えることができる方がおかしいというものだが。

 一方、男の方も表情に変化はまるでなく、感情を表に一切出していなかった。

 本当に2人は知り合いなのだろうか? という疑問が脳裏を過ぎるものの、内容はどうあれ、知り合いでなければできない言葉の応酬をすぐに見せつけられることとなった。

「貴様の腕が落ちてないか確認しただけだ」

「その割には射角に遊びがあったようね。直撃射線からはわずかに外れていたようだけど」

「一応貴様が腑抜けていた場合のことを考えた。腑抜け相手にもし当ててしまったら寝覚めが悪いからな」

 まったくもって旧知でなければ不可能な掛け合いである。きつい物言いを互いに投げ掛けているが、2人が知り合いなのは違いないのだろう。

 しかし、それにしてもどうしてこの男はユイリスに対して突っ掛かるような言い方をするのだろうか。元々仲が悪いのであれば、国を跨いでまでわざわざユイリスを探すことなどしないだろう。いったいどういう類の知り合いなのかレイルには見当もつかなかった。

 ただ、男の次の一言とそれに併せた行動が場の空気を一転させたのは間違いなかった。

「もっとも、本当に腑抜けていたらいっそ直撃させてしまってもよかったのかもしれん。この宝環の持ち主ならば、避けることができて当然のことなのだから」

 言って、彼は腰に下げた小さな袋から大事そうにこれまた小さな木箱を取り出した。手のひらに載せたそれを開け、中で折り畳まれた厚手の布包みを丁寧に開いていく。

 厳重に保護された布の中央には、小指の先ほどの円形物が収められていた。銀色の指輪だった。

 とたん、ユイリスの表情が驚きの色へと変化する。どんなことにも泰然とした様子でいた彼女が初めて見せた表情だった。

「どうしてそれを貴方が」

「戦師が俺に託された。貴様のもとへと届けるよう。俺がわざわざフレアミスから出向いたのはそのためだ」

 男の言葉を受けて明らかに狼狽しているユイリスだったが、努めて冷静でいようとしているのが拳を握り締めている様子からもありありとわかる。

「いったいなにがあったの?」

彼女は押し殺した声で、男の真意をただそうとしていた。男は容赦なく言い放った。

「戦師イスカムは亡くなった。貴様の行く末を案じながら」

 よほど男の言葉が胸を抉ったのだろう。ユイリスは目を見開いて言葉を失っていた。見る間のうちに顔色は青ざめ、先ほどまでの氷の表情が嘘のように消えている。あまりに衝撃的だったのか、よろめいて倒れそうになるのを必死に踏ん張って耐えていた。

「嘘、嘘よね、ウル」

「俺が『調和の宝環』を持ってここにいることがなによりの証拠だ」

 彼の言葉、『調和の宝環』という言葉には決定的な意味合いが込められているのだろう。

「そんな、先生が亡くなるなんて、そんな……」

 これまで出したこともないか細い声を漏らしたユイリスの反応が、ウルと呼ばれた男の言葉が全て事実を述べていることを証明していた。

 情勢はもはや決していた。

 が、男はなおも彼女への追及の手を緩めない。

「戦師の御身が病に冒されていたのは貴様も知っていたはずだ」

「でも、先生は微塵もそんなご様子を見せなかったわ」

「そういう方だということも貴様はよく知っていたはずだ。にもかかわらず、貴様は己の責務を放棄して逃避した。違うか」

「違う、私は逃げてない。私は、自分を見つめ直したかっただけ。自分の進むべき道がわからなくなったから、だから」

 それ以上、彼女は言葉を紡ぎ出さなかった。否、出せなかったに違いなかった。

 俯き、歯を食いしばり、拳を握り締めた彼女の肩は震えていた。まなじりからは透き通った雫が2つ3つ頬を伝ってこぼれ、大地に弾けた。ユイリスが初めて見せた、『弱さ』だった。

 彼女を放ってはおけないとは思ったものの、息を呑んで2人のやりとりを見つめていたレイルの体は緊迫した場の雰囲気に身が竦んだのかいつの間にか強張り、見えないなにかで拘束されているかのように自由が効かなくなっていた。

 呪縛が解けたのは、踵を返して半身になった当事者の1人が去り際に言葉を投げかけてきたからだ。

「少年。レイル、と言ったな。頼んだぞ、彼女を。また出直す」

 旧友に厳しい言葉を投げかけ、あまつさえその友人を追い詰めてもまったく悪びれることなく言い放った男は、そのまま立ち去っていった。声をかけて制止する間もなく。

 残されたのはただただ呆然としている自分と、肩を落としてうつむいているユイリス、そして再び静まりかえった小さな林。

 先刻までは想像もしなかった重苦しい空気が、辺りを支配していた。


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