7.
満天の星空の真ん中に、真円を描いた満月がことさら存在感を誇るようにして浮かんでいる。夜空の王のような風格に溢れた丸い天体の美しい姿をそのまま見とれていたい気持ちにかられるが、体中の傷に冷たい夜風が撫でつけたことで走った鋭い痛みによって、幻想的な星空とは真逆の現実へと引き戻される。
両手両足を投げ出すようにしてギョーム河の河原に仰向けになって倒れていたレイルは、木剣で打ちつけられた全身の打ちみの痛みを堪えながら、ゆっくりと上体を起こした。
「どうした、もう終わりなのか? 早く立てよ」
体を起こすと正面にはグェインがいた。瞳に嗜虐的な光を灯した彼は、己がレイルのことを痛めつけたにもかかわらず、まるで他人事のように立ち上がることを強制していた。
「こちとら体がなまって仕方ないと言ったろう。はいここまでってのはいささか早すぎるってもんだ。もう少し楽しませてくれよ」
余裕に溢れる様を体現するように、一切構えず手にした木剣を肩に担ぐようにしているグェインの言葉には、皮肉という香辛料がたっぷりとまぶされていた。
その程度ならば散々聞かされてきたためにいまさらどうということはなかったのだが、彼が立て続けに発した台詞は看過できるものではなかった。
「約束だろ? 『果し合い』に負けたくせに、ずうずうしくも寝言を漏らす誰かの顔を立ててやってるんだ。それとも、もう誰彼はばからずにおまえの可愛いミスリィをいただいてもいいってことなんだな?」
「誰ももう終わりって言ってないだろ!」
はらわたの煮えくり返る思いが体中の痛みを上回り、傍に転がっていた自身の木剣を引っつかむとレイルは跳ね起きるようにして立ち上がった。
木剣の切っ先と憎悪に満ちた眼差しをグェインに叩きつける。
「おぉ怖いねぇ。でもよ、そうこなくっちゃな」
まったく恐怖心など感じていないだろうに、肩を竦めて見せるグェイン。その目は歓喜に満ちていた。
許せない。
レイルの体は不敵な男に向かって飛び出した。
渾身の力を込めて右上段から木剣を繰り出す。
男は唇の端を歪めて待ち受けていた。
木剣が空を切る。
叩きつけられるべき相手を失った切っ先が大地をえぐり、攻撃が失敗したと悟った時はもう遅かった。
嗜虐的な笑みを満面に浮かべた男の顔が視界一杯に広がったかと思うと、次の瞬間肩口から凄まじい衝撃が全身を貫いた。
あまりの痛みに膝が折れ、踏ん張ろうとする意思が湧き起こる間もなくレイルは前のめりに倒れ伏した。
「残念だったなぁ。えれぇ気迫だったが、そんなもんだけじゃ相手は倒せないぜ」
上の方から嘲笑が響いてくる。すぐにも立ち上がって、再度木剣を叩きつけたかった。
それは虚しい願望だった。彼の肉体は今の一撃を受けたことにより限界を越えてしまったのだから。もはや、体の自由は効かなかった。
せめてグェインをひと睨みしてやらねば収まりなどつかない。このまま大地を舐めるだけというのはあまりにも惨めだ。
首をほんの少し傾けて見上げる動作にもかかわらず、体の自由が利かなくなると驚くほどの労力を要した。
それでも懸命に首を傾けようと、そのことに集中していたからだろうか。
グェインの嘲笑がいつの間にか止んでいたことに気づいたのは、それまでの余裕などどこかへ捨ててしまったかのように驚愕に表情を凍りつかせ、木剣を振りかざしたまま全身を強張らせてた彼の姿が瞳に映りこんでからのことだった。
答えはすぐに判明した。
なぜならグェインの喉元には、細いながらも木剣ほどある長さの木の枝が微塵も揺らぐことなく突きつけられていたからである。
ただでさえ驚くべき光景ではあったが、耳をついた言葉はレイルをさらに驚かせた。
「そこまで。もう彼はなにもできない」
女の声。それも、聞きなれた女性の声だった。
視線をグェインの喉元から細枝を伝わせていくと、聞こえた声に違わぬ人物が月明かりに照らし出されていた。
いつも柔和な微笑みをたたえていたユイリスの横顔は、それまで積み重ねてきた彼女の印象を全て打ち砕いてしまうほどに冷徹なもの一色で染められていた。一切の妥協や反論を許さない、毅然とした意思の力が彼女の全身から放たれていることは、疲弊した意識のなかでも感じ取ることができた。
今の自分でもわかるのである。であれば、氷の意思を直接ぶつけられているグェインはどうか。油汗をたらし、小刻みに震えていることから答えは明らかだった。
にもかかわらず、彼の体が弾け飛ぶようにしてあとずさったのはほとんど反射的なことに違いなかったが、その行動は徒労と終わる。瞬きするほどのほんの少し前と同じ光景が繰り返されていたからだ。
細枝の先から逃れようとしたものの、グェインの喉元にはユイリスの氷の意思が突きつけられたままだった。彼の逃げ足など足元にも及ばない驚くべきほどの反応を見せ、ユイリスは先ほどと変わらぬ光景を再現したのである。
いや、完全な再現ではなく若干の変更があった。
先ほど、触れるか触れないかの距離でグェインに突きつけられた細枝の先は、わずかではあるが今は彼の喉元にめりこんでいたのだから。
「これ、ただの細い枝だけど、私ならこれでも貴方の喉笛をたやすく貫くことができるの。嘘か誠か、試してみる?」
とんでもないことを事も無げに言ってのけるユイリス。こちらに背中を向ける形でグェインを追い詰めていったために彼女の表情は窺い知れないが、あの冷然とした表情のまま彼に言い放ったであろうことは容易に想像できた。
なぜなら、あれだけ高慢な態度を続けていたグェインが、なにも言い返すことができずにとうとう腰を抜かしてその場に尻餅をついてしまったのだから。
いや、彼女にあの動きで細枝を突きつけられれば、大抵の人間はなにもできずに圧倒されるに違いない。無茶なことに聞こえる彼女の言も、本当に為しえてしまうのではないかと思わされるほどに。
いったい、ユイリスは何者なのか。
剣術を修める段階になど到底及ばぬ今のレイルでも、ユイリスの体捌きが尋常ではないこと、あのような動きはなにも知らない市井の女性になど逆立ちしても真似できないことは理解できる。
グェインに袋叩きにされた傷の痛みも忘れ、微塵も臆する様子のない彼女の背中を、レイルは惹きつけられるように見入っていた。
すると、グェインが戦意を喪失したことを見て取ったからか、こちらを振り返った彼女と目と目が合う。
あの冷徹な眼差しを向けられるのかと一瞬竦んだものの、それが杞憂であることはすぐにわかった。それまでの、感情の欠片も感じさせない表情などあたかも幻だったかのように、彼女は至極心配気な面持ちを向けてきたのだから。
「レイル、しっかり」
細枝を放り捨てて小走りで駆け寄ってきた彼女は、膝を折って座りこみ、ゆっくりと上体を抱き起こしてくれる。そのまま自分の膝上に優しく載せてくれた彼女は、次に体のあちこちを確認するかのようにそっと触り出した。
どのみち体の自由が効かないので為すがままにさせていると、ユイリスは肩を撫で下ろしてつぶやいた。
「よかった。やっぱり折れてなかったわ、貴方のここの骨」
安心したもののそれまでの心配がたたったたようで、安堵のため息を漏らしたユイリスはレイルの鎖骨を指さした。そこは最後にグェインから強烈な一撃を受けた肩口からそう遠くなかった。
「他の傷も数は多いけど、打ち身で済んでる。折れたりはしていないから。大丈夫、きっとすぐによくなるわ」
彼女の指摘には迷いがなく、的確のように思える。確かにありえない方向に腕や足は曲がっていないし、骨を折ったことはないために折れた痛みというのはわからないがそこまで酷い激痛というのも感じなかった。
色々と彼女に尋ねたいことがあったもののそれらは頭のなかで錯綜し、ようやく口にすることができたのは至極単純な問いかけだった。
「どうして、ユイリスがここに?」
「お店での貴方と彼、尋常じゃない雰囲気だったから。心配だったから、貴方たちが外に出ていった後どうにか私もお店を抜け出して探したのよ。でも、すぐに追いかけられなかったからなかなか貴方たちを見つけられなくて。けど、間に合ってよかった」
言って、彼女はようやく強張った表情を緩め、困惑と安堵が入り混じったような微笑みを浮かべた。
ユイリスの様子から、彼女が心から気にかけてくれているということがわかる。素直に嬉しく思え、傷の痛みも引いていくような気がしたが、それも束の間のこと。次に彼女の唇が紡ぎ出した言葉は、湧き上がったしばしの安寧を根こそぎ吹き飛ばす十分な威力を持っていた。
「それで、なぜこんなことに?」
当然の問いかけではあった。
逆の立場であったら自分も同じ台詞を吐くだろう。
ただ、それは今最も耳にしたくない台詞でもあった。ユイリスの唇からこぼれた問いかけは、まさに忌避したい台詞そのものだったのである。
できるのであればこのまま黙っていたかった。
だが、彼女はそうすることを許してはくれなかった。口調こそ優しかったが、こちらを見下ろしているユイリスの瞳には一切の嘘やごまかしを許さない光が灯っていたのだから。
もはや言い逃れることは叶わない。レイルは観念し、これまでの全てを打ち明け始めた。
ことの発端は半年ほど前、当のグエインとリュルゾ亭の当主であるフェンソの娘ミスリィの間で起こったいざこざだった。
もちろん2人に面識などはなかったのだが、サイレアを跨ぐ街道を利用している隊商の1人としてこの町に立ち寄ったグェインが、たまたま町外れで出会ったミスリィに目をつけてちょっかいを出したのがきっかけとなった。レイルはその場に偶然出くわしたのである。
当然のことながらミスリィは彼を拒絶していたのだが、それでも執拗に迫るグェインの姿を見、レイルは座視して看過することなく2人の間に割って入った。
もっとも、ミスリィをその場から逃がすことには成功したが、その道の手練でもないのに歳も体格も上の大人の男相手に立ち向かって無事に済むはずもなかった。レイルはグェインに叩きのめされてしまった。
この時は素手で立ち向かったのだが、善戦空しく先ほど同様に大地に大の字になって天を仰ぐこととなったのである。
それでも彼は諦めず、ミスリィに手を出すなと息巻くと、思いもがけない提案がグェインから持ちかけられたのだ。
すなわち、ミスリィに対して余計な手出しをしない代わりに、グェインが属している隊商がサイレアに立ち寄る度に剣術の相手になれ、という条件だった。
グェイン曰く、最近剣術に入れ込んでおり仕事の傍ら木剣を振るって修練しているとのこと。
ただ、より実戦を意識した修練をするには相手がいた方がいいに違いないのだが、隊商にはその相手がいないという。そこで、修練の相手としてレイルを求めてきたのだった。
力ではグェインに敵わない。彼の提案を足蹴にしてもミスリィを守ることはできない。
彼の修練の相手になる――レイルはその選択肢を受け入れたのである。
大人の助けを求めることも考えなかったわけではない。
しかし、レイルは男としての矜持が、座して負けたままでいることを許さなかったのである。彼はまだ大人ではなかったが、もうただの子供でもなかった。
こうして、グェインとの間に結ばれた取り決めに従い、彼がサイレアに立ち寄る度にレイルは剣術の相手を務め続けてきたのである。
「そう、そんなことがあったの……」
レイルの上体を抱き起こし膝上で支えた状態のまま黙って彼の話を聞いていたユイリスは、表情を曇らせながらそうつぶやいた。と、彼女はなにか続けようとしたものの躊躇する素振りを見せた。
それでも意を決したように唇を開いた彼女からの問いかけは、今回の一件が暴露した時点でいずれ明らかになることであり、もはやレイルにとって動揺することではなかった。
「ねえ、レイル。貴方が日々鍛錬を積んでいた目的っていうのは」
「その通りさ、あいつに勝つためだよ。取り決めたあの日――半年前のあの日から欠かさずに」
自分で決めたからには、誰の手も借りずにこの問題を解決したい――それが彼の信念となり、以来、彼は彼なりにグェインをねじ伏せて全てを取り消させるための努力を続けてきたのである。残念ながら今のところはその努力も実を結ばずにいたが。
「それじゃ、貴方から騎士になりたいと半年前ぐらいに打ち明けられた、とご両親から聞いていたけど、騎士のお話は鍛錬のことがお2人に万が一知られた時のさながら逃げ道?」
真剣な眼差しを向けて来るユイリスの鋭い指摘に、レイルは素直に頷いた。
親に今回の一件を知られたくない以上は、もし鍛錬していることが明らかになってもその理由づけを事前に匂わせておけば色々詮索されることはないだろうと考えたためだった。
グェインとのことがなくとも、元々レイルには心躍らせる武勇伝や強い剣士への純粋な憧憬が多少なりともあり、その様子を両親は見てきている。突然騎士への道を切望したとしても、驚きこそすれ意外には思われないという布石もあった。
「この一件、ミスリィさんには?」
「親にだって言ってないんだ。ミスリィにだって言うもんか。これは俺自身が選んだ道だから。誰にも頼らないで片付けるって始めたことなんだ。だけど、ユイリスに助けられちゃったもんな……情けないよな、俺」
絶対にどうにかしてやると始めたことだったが、結局なにも進展しないまま今日まできてしまった挙句のこの結果であるのは動かし難い事実だ。
悔しかった。自然と手に力が込められ、拳を握り締めた。唇をかみ締め、伏目がちになる。
不意に覚えのある柔らかい温もりが頬を包み込んだ。
目を見開くと、全てを受け入れてくれるような優しい微笑みを浮かべたユイリスがこちらを見下ろしている。頬を包み込んだのは、温かい彼女の手のひらだった。
「そんなことないわ。貴方は情けなくなんてない。だって、まだ終わったわけじゃないでしょう?」
そう言って彼女は急に茶目っ気を出したかのように片目をつむって見せていた。
いったいどういうことなのか目を瞬かせていると、彼女は『まあまかせなさい』という風に頷いた後、グェインへと視線を移したのである。
「話は聞かせてもらったわ。レイルと貴方の間で結ばれた取り決め、ことの経緯はどうあれレイルが同意している以上は『有効』と私も認めます。でも、こんなことはいつまでも続けてはいられないと思うの。そこで相談なのだけど、1つ取引といかないかしら?」
なにを思ったか、いきなりグェインに取引という提案を投げかけるユイリス。予想しなかった彼女の言動に、レイルは口を大きく開けたままなにも言うことができなかった。
「日をあらためて貴方とレイル、2人の手合いの機会を設けること。そして、そこでもしレイルが貴方を圧倒して事実上の勝ちを収めたら、ミスリィ嬢はもちろんのこと、彼にも今後一切の手出しをしないということ。どうかしら、受けてくださる?」
なにを頼んだわけでもないのに彼女は独断で次から次へと取り決め事項を並べていく。
事実として、それらはこちらにとってのみこれ以上のないうまみのある提案だった。ただそれは、相手が受け入れてくれた場合に有効なのであって普通に考えて受けいられるわけがなかった。
ユイリスに圧倒されてから腰を抜かして呆然とし、これまでの過程を彼女に伝える間も魂を抜かれたようにしていたグェインだったが、彼女の提案には我を取り戻し、さすがに目を剥いていた。
「そ、それじゃ俺が勝ったらどうするんだ。あんたの話だと一方的な取引じゃねえか」
もっともな反応だった。ユイリスの提案した取り決めは、そのままであればグェインにとってなんら得はないからである。彼が勝った場合について言及されていなからだ。
グェインの指摘は的を得てはいるが、言うがままに彼が勝った場合の話しまで進んでいくのであればもう後戻りできなくなってしまう。
ユイリスが止めなければレイルはグェインにそのまま弄られていたのであり、すなわち2人の現在の力関係を如実に表している。このことを考えれば、日をあらためたとしてもレイルがグェインに勝つなどという楽観的なことを誰が思いつくというのだろうか。
これ以上話が進むことを止めなければならない。慌てて声を上げようとした彼を遮り、ユイリスはとんでもないことを口にしたのである。
「貴方が勝ったら――そうね、貴方の好きなようにしていいわ」
「ユイリス!?」
レイルは声を裏返して彼女の名前を叫んだ。当たり前である。ユイリスは涼しい顔をして、とんでもないことを表明したのだから。
自分が立ち入る機会をつかみ切れない間に事態はとんでもない方向へと進もうとしている。立て続けの驚くべき事態に目を白黒させていると、すっかり余裕を取り戻したグェインも彼女の提案を受けて即座に切り替えしてきた。ユイリスに負けず劣らない要求を突きつけてきたのである。
「じゃあ、あんたには俺のものになってもらうぜ」
無茶苦茶な要求にも驚いたものの、それ以上に意外だったのは当のユイリスがさらに涼しい顔――それこそ親しい友人からのたわいのない頼まれごとを2つ返事で受けるかのような顔で、
「ええ、かまわないわ」
などと答えたのである。これにはたまらず声を張り上げた。
「ちょ、ユ、ユイリス! 待ってくれよ!」
止めようとするが、彼女はこちらを一瞥して『大丈夫よ』と小さい声で制すると、再びグェインへと視線を戻した。
「俺は明日ここを経つが、一週間後また仕事で立ち寄る。立ち会いの日はそれでいいか?」
一方のグェインは既に立ち上がり、何事もなかったかのように服についた埃を払いながら先ほどの無様な姿などまるで嘘のような口ぶり。そんな彼に対し、ユイリスも何事もなかったかのごとく至極平然と頷いている。
2人の間であっという間に話が進んでまとまってしまったことに異を唱えようと身を乗り出すと、目敏いグェインに咎められた。
「見苦しいぜ、レイル君よ。女に守ってもらっておいてごたごたぬかすな。ま、短い時間でせいぜい腕磨いておくんだな」
見下した笑みを浮かべながら吐き捨てたグェインは、最後にユイリスへと『待ってろよ、俺のユイリス』などという気色の悪い捨て台詞を残して踵を返した。
去っていく仇敵の背中を苦々しく見つめていたが、すぐに我に返り、全身の打ち身の痛みなどおかまいなしで体を起こしてユイリスから離れたレイルは、彼女と真正面から向き合った。
「どうしてだよユイリス。どうしてあんな取り決め交わしちゃったんだよ。見てただろ? 俺はあいつに叩きのめされてたんだよ!? これまでだってそうさ。それなのに、勝てるわけないだろ!?」
最初は冷静でいようと思ったものの、言葉を連ねているうちに段々と熱を帯びてしまう。
先ほどグェインに叩きのめされたこと、これまでもそうだったことを顧みると虫唾が走ったが、どんなに悔しくても目を背けても事実は事実。現時点でレイルがグェインに勝てる要素などはなにもない。
にもかかわらず、ユイリスは勝手にグェインととんでもない取り決めを交わしてしまった。あまりにも無謀すぎる取り決めであり、もしレイルが負ければ彼女はグェインの手中に落ちてしまうのである。ただレイルが負けるだけでは済まされないのだ。自然と声を荒げてしまうのも無理のないことだった。
ところが、当のユイリスは先ほどからずっと涼しい面持ちで、自分がなにを取り交わしたかも自身の今置かれている状況がいったいどれほど危機的であるかもまったく意に介していないようだった。
「ユイリス! どうしてそんな落ち着いていられるんだよ!?」
「それはそうよ、レイルが勝つんだから。レイルにもミスリィさんにも、そして私にも、彼は指1本触れることはできないわ」
「どうしてそんな、そんなことが言えるのさ!?」
彼女がなおも落ち着き払っているので、レイルはさらに強く迫った。
返ってきたのは、射抜くように真っ直ぐと向けられた双眸と、意外な言葉だった。
「言えるわ。だって、貴方は本当に強いから」
まったくもって予想もしていなかったことを言われ、今日何度目かの絶句を味合わされるレイル。そんな彼をよそに、ユイリスは少しも揺るぎのない口調で、
「私にはわかるの。貴方が持っている『力』のことを」
と言い切った。
どうしてそこまで言い切れるのかその根拠がまったくわからず、レイルが言葉を失ったままでいると、ユイリスはまぶたを伏せ、おもむろに立ち上がった。
「確かに、今のままでは彼には勝てないでしょうね。でも、貴方が本来持っている力は彼を凌駕しているわ。これまで勝てなかったのは、その力を有効に引き出せていなかったから」
再びまぶたを開き、天上の月を見上げながらなにかを確かめるかのようにゆっくり、静かに語る。満月と美しいユイリスの姿が重なり、ついレイルはその光景に見入ってしまうが、彼女の言葉から彼女が先ほどなにを為しえたかを思い出す。
「ユ、ユイリス、いったい君は……。そ、そうだ、グェインへのあんな細い枝での突きだって、普通の女の人にはできないよな……」
勝てることなどできずとも、何度も対決したことでグェインの力量はよくわかっている。一流の剣士などには及ぶべくもないだろうが、町の不良者などよりはよほど優れた剣を使う。剣術に傾倒していると吹いているだけでなく、実際修練を重ねている結果に違いない。
考えるまでもなく、ただの市井の女がどうこうできる相手ではなかった。
にもかかわらず、ユイリスはグェインを遥かに圧倒し、つけ入る隙をまったく与えなかった。あのグェインが腰を抜かしていたのである。その光景は今思い返すと実に胸のすくものではあるが、それとユイリスの一件はまったく別のことだ。
そもそも、彼女はあくまで旅の人であり彼女の経歴は謎に閉ざされている。
先日、例のトランクをギョーム河の川縁に取りに行った時、彼女の過去を聞ける機会があったがあえて聞かなかった。人それぞれ、聞かれたくないことがあるという父親の教えに共感していたのだから。
今は状況が違う。どうして彼女がそこまで自分のことを押すのか、その根拠はいったいどこからきているのか、そしてそこまで押せる彼女とは何者なのかを確かめねば前へ進むことはできない。
彼女からの答えを求め、レイルは河原に座り込んだままユイリスを見上げた。
月を見つめていた彼女もこちらの視線に気づき、空色の瞳を真っ直ぐに向けてくる。そこに、一切の揺らぎはなく、問いかけているこちらがまるで詰問されているかのような気になってくる。
固唾を飲んで反応を窺っていると、彼女は形のよい唇を開き、少しもよどむことなく語り始めた。
「私はただの旅の女よ。でも、女の1人旅は危険が大きいわ。であれば、自然と自分で自分の身を守る術を修める努力をするのが最低限の身だしなみというもの……わかるでしょ?」
確かに彼女の言う通りである。1人で諸国を回る旅の女性が、まったく自身を守る術もないという方がおかしい。
「その点、私は貴方よりも多くの経験を積んできているし、実戦も経験しているわ。だからこそ、貴方が持つ力もわかるのよ」
繰り返し重ねられる言葉。ユイリスはレイルに対してしきりに『力』があるという。しかもそれはグェインを凌駕してしまうほどであると。
ユイリスには戦う力が確かにあるのだろうし、それはグェインに対して証明してみせた。その彼女であれば、他人の力を見抜くこともできるのかもしれない。だが――
「でも、俺にはそんな力……わからないよ」
それがレイルの正直な気持だった。
いくら言葉で言われても、実際問題当の本人には実感のつかめない話に他ならない。なにより、いくら努力してもことごとくグェインに返り討ちにされている現実を見ればユイリスがどんなに持ち上げてくれてもそれを安易に信じることなどできるわけがない。
伏し目がちになり、肩を落としてうつむく。
と、月明かりを遮るように目の前に人影が立ちはだかった。
「彼と戦うことを選んだのは他でもない、貴方でしょう? そのために酷い目にあっても、これまで頑張ってこれたんでしょう?」
正論が胸を突いた。今回、いつになく徹底して叩きのめされたために意気も消沈していただけになおのこと胸に迫る言葉だった。
だからこそ、自分を客観的に省みることができた。確かに今日は酷くやられたが、だからといってこれまでの努力を自分自身で否定することなど馬鹿げている。
なにより、彼女の言う通りグェインと戦う道を選んだのは他ならぬ自分なのだ。であるのなら、その道を追求するのが筋というものではないか。それこそ、あらゆる手を尽くして。唇をかみ締め、レイルは顔を上げた。
腰をかがめ、両手を両膝に当ててこちらを覗き込んでいるユイリスは、先の厳しい物言いが嘘のような優しい微笑みを浮かべて、
「だから、ね?」
と一言。
そこまで言われて奮い立たないほど、レイルは腰抜けではない。
弱気になっていた自分の心と決別するかのように表情を引き締め、彼は亜麻色の髪の麗人を見つめ返しながら頷いた。
「その意気。貴方の勇気、最後まで諦めないという心、どうか忘れないで。大丈夫、私がついているから」
輝く太陽のように明るい笑みを一杯に浮かべたユイリスは、威勢のいいことを言いながら身を起こしていた。少し前まで悲壮感に埋もれていたレイルだが、現金なことに彼女のその笑顔に魅了されて見とれてしまう。もっとも、次に彼女が放った一言によってあっさり我に返らざるをえなかったが。
「私にまかせて。今度はレイルが彼を引きずり倒して叩きのめせるようにしてあげるから」
白い歯を見せて茶目っ気たっぷりに大言を吐いて笑うユイリスに対し、レイルは信じられないものを見たかのように目と口を大きく開いて言葉を失うほかなかった。