6.
違和感を覚えたのは、聞き覚えがある音色が鼓膜を打ったためだ。
テルミト亭へと小走りに向かっている最中、あともう一息というところまでの路地へさしかかっている時に当の自宅方面から聞こえてきた音色。それはリュートが奏でる旋律だった。
リュートとは、共鳴口、卵を半分に割ったようなマホガニー製の胴体、その胴体から伸びる短い棹と、途中から後方に折れ曲がった棹の先端から支点を経由して胴体に張られている羊の腸でできた複数の弦が特徴的な楽器である。しかも、弦を指で弾く、というより撫でつけるようにして音楽を奏でるという特性を持っていた。
今はもう辞めてしまったが、ついこの間までテルミト亭には母以外にもルイーズという若い女給がおり、給仕がひと段落した頃に彼女が客の要望に応えて披露していたのがそのリュートによる弾き語りだった。
どこで覚えたのか、その演奏と歌声は旅人たちの乾いた心を潤し、大層人気だったことは記憶に新しい。度々レイルも心を和ませてもらったものである。
が、当の演奏者はもうこの町にはいない。また、この辺りでリュートを所有している店や人家は他になく、やや甲高い独特の物悲しい旋律をつま弾き出しているのはルイーズが残していった我が家のリュート以外には考えられなかった。
とはいえ、両親がリュートを弾けるはずもなく、結局誰にも触られることなくほこりをかぶっていたのだ。それが今、美しい音色を奏でている。
いったい誰が弾いているのだろうか。
不可思議なできごとに釈然としない思いにかられながらも、レイルはたどり着いた我が家、いや、我が店の扉を開けた。
リュートの音色は確かにテルミト亭のなかから奏でられているものだった。9割方埋まった店内はむさ苦しい男どもで一杯だったが、やかましいのが身上の彼らにもかかわらず静かに耳を傾けている。
基本的に音楽とは無縁な彼らが神妙な面持ちでいるのはいつ見てもどこか滑稽であり、なんとも言えない苦笑いが込み上げてきそうになるのを堪え、レイルはリュートを弾く奏者の姿を探す。
瞳に飛び込んできたのは意外な人物。
店の奥の壁際に置かれた椅子に足を組んで腰かけ、膝上に乗せたリュートの弦を軽やかにつま弾いていたのは、なんとユイリスだったのだ。
演奏に集中するためか、はたまた自らが奏でる旋律に聞き入っているのか、彼女は瞳を閉じたまま軽やかに指を動かしている。
数多くの弦を有し、ただ演奏するだけでも至難なリュートから美しい音色を導き出しているその姿は、昨日今日リュートを弾き始めたのではなく、それなりに経験を積んできたということを雄弁に物語っていた。
美しい音色に聞き惚れ心ここにあらず、という状態になりつつあったレイルだが、むっつりと顔をしかめた父親がカウンターから手招きしている姿を視界の端に捉えてしまい、一気に現実へと引き戻させられた。
回れ右して逃げ出したい衝動にかられるが、実行に移せばどんな酷い目に合わせられるか知れたものではない。被害を最小限に押さえるためにも、ここは堪えるしかなかった。
「どこほっつき歩いてたんだ、この馬鹿息子が」
カウンターへ歩み寄ると、早速辛辣な言葉が向けられてきた。ただ、ユイリスの演奏に配慮してか怒鳴られることはなかった。
「フェンソおじさんのとこでお駄賃もらって話し聞いてた」
「また油売ってやがったな。ったくしょうがねえ野郎だ、猫の手も借りてえ時に」
肩を竦めながらも正直に話すと、ロイドは眉間に皺を寄せて目を吊り上げた。が、すぐに鬼の形相を緩める。
「まあいい。ユイリスが給仕を手伝ってくれたからよ、どうにかこうにか方がついた。今日ばかりはユイリスに免じて許してやる。後で礼言っとけよ」
意外にも強く叱責されることなく、あっさり赦免されてしまった。いつもなら拳骨の1発や2発、当たり前のように飛んでくるというのに。
虚を突かれて目を瞬かせたが、父親の態度がなぜいつもと異なり軟化しているか、そのからくりに気づく。
確かにユイリスの演奏に気遣ってるのもあるのだろうが、この短気な父親が怒鳴り散らさずにいられるのは彼の言う通り店の仕事をユイリスが手伝ったからだろう。カウンター近くでゆったりと壁に身を預けてユイリスの演奏に聞き惚れている母親の姿を見れば、ユイリスがどれほど貢献したか己ずと知れてくる。でなければ、母親はいまだに店内を右往左往していたに違いないのだから。
綺麗な人は気難しいという偏見だけでなく、家事も満足にできないし、だいたいがそのようなことは一切しないという偏見を持っていたレイルは、またしても自分の偏狭さに恥じ入る思いを重ねていた。
とはいえ、給仕はともかくリュートの演奏までしているのはどういう経緯なのか。父にその旨を問いかけると、明快な答えが返ってきた。
「ルイーズのことを話したから給仕を手伝ってくれたんだが、弾き語りの件も話していたらなんとそれもできるって言うじゃねえか。なんでも歌とリュートが得意で、路銀が寂しくなってくると町々の酒場で弾き語りをして小銭を稼いで旅を続けきたんだとよ」
「それでリュートを」
「ああ。少しでも店の役に立ちたいって言うからよ、とりあえずやってみなって言ったらこれだ。俺は音楽のことはよくわからんが、ルイーズに勝るとも劣らない腕持ってるってのは直感的にわかったぜ。なによりもこいつらが聞き入ってるのがいい証拠だな」
顎をしゃくって店内を示すロイド。その先にはユイリスの奏でる音色に耳を澄ましているむくつけき男どもがいる。
「音楽なんぞくその欠片もわからん奴らを黙らせて聞き惚れさせてるんだからよ、それだけでも大したもんだ」
そう言う彼もまんざらでもない様子でユイリスを見ている。この父親をも篭絡してしまう彼女のリュートに脱帽しつつ、レイルはふと気になったことを尋ねた。
「父さん、ユイリスは歌とリュートが得意って言ったんだよね。今はリュートを弾いているだけだけど、もう歌ったりもしたの?」
「いいや。とりあえず何曲か歌なしで弾いから弾き語ってみるってたぜ。最近リュート触ってなかったから、最初は練習代わりなんだとさ」
なるほど、と頷く。とすれば、彼女の歌声はこれから耳にすることができるわけだ。
凛とした張りと可愛らしさを併せ持った彼女の声で歌えば、きっと素晴らしい歌を披露してくれるに違いない。いやがおうにも期待が膨らむ。
彼らの思いを受けてか、弾いていた曲が丁度よく終わる。男たちの無骨な拍手と歓声が店中に響き渡り、静から動へと切り替わった感情の盛り上がりが彼らを支配していた。
堂に入ったもので、熱烈な拍手を受けても動じることなく軽く会釈して応えるユイリス。音楽で路銀を稼ぐという常人にはできないことをしてきた実績が彼女をそうさせているのだろう。
レイルも心からの拍手を送っていると、それに彼女が気づいた。どこか嬉しそうに頬を緩め、こちらへ向かって軽く手を振ってくれる。
その愛らしい様に呑まれ、ぎこちない笑みを浮かべて反射的に手を振り返す。すると、そのやりとりを見ていたお客の何人かが思い切り嫉妬を込めてこちらを睨みつけてきた。こうなると浮かんだ笑みも苦笑いに変わらざるを得ない。
男たちの痛い視線を気にしないよう努めながらユイリスへ手を振っていると、彼女は小さく頷いて店内を見回し、言った。
「皆さんありがとうございます。それでは、リュートに合わせて『生命の祈り』という歌を歌います。ご清聴いただければ幸いです」
とたん、汀にうち寄せた波が一斉に引いていくように、静まり返る。
静寂を見届けたユイリスは再び目を閉じ、ゆっくりと弦をつま弾き始めた。
前奏だろうか、リュートの音色をあらためて皆に堪能させた後、彼女はゆっくりと唇を開いた。
蒼くまばゆい空
希望を映し出して
白く優しい雲
恵みを与えて
はるか緑の野は
癒しを導く
紅く燃ゆる日輪
豊饒の約束
悠久の時が
静かに満ちる
木漏れ日のゆらぎ
葉揺らすそよ風
この大地に生きる
全ての息吹に
儚くも一握りの
幸よあまねく
この大地に生きる
全ての息吹に
永久に安らかなる
光よあまねく
歌い終え、リュートの調べも静かに幕を下ろす。
静まり返る店内。身動ぎすらしない男たちに戸惑ったのか、ユイリスは怪訝な表情を浮かべたまま再度会釈をする。
だが、まだ男たちに反応はない。さすがに心配になったのか、探るように皆を見回すユイリス。
「あの、お気に召さなかった……のかしら」
その一言が契機となった。
とたん、割れんばかりの拍手と店の外まで余裕で聞こえてしまうであろうほどの歓声が一斉に沸き起こった。
ユイリスの歌声が気に入らなかったから皆黙していたのではない。あまりの素晴らしさに圧倒され、言葉を発することすらできなかったのだ。
「すげえ、すげえよねえちゃん!」
「俺ぁ感動して泣きそうになっちまったよ!」
感極まった彼らの歓声を聞けば、皆がいかにユイリスの歌に心を揺り動かされているかがよくわかる。店にいた男たち全員が立ち上がり、思い思いに熱のこもった言葉を投げかけ、惜しみない拍手を送っていた。
レイルも音楽について詳しいわけではない。それでも、リュートの腕はともかく、彼女の美声は彼のルイーズを遥かに超越していた上、聴く者をその世界に引き込み魅了してしまう奥深さに溢れた歌声だと感じたのは、理屈などでは推し量れない領域で心を揺さぶられたからに違いない。いつの間にか、自身も手のひらが痛くなるほどの拍手をしていたことが、なによりも彼女の歌声に心から惹かれた証である。
それにしてもまさかこんな特技がユイリスにあったとは。
なるほど、これならば路銀が乏しくなった時に美声を披露すれば懐を温めることはできるだろう。彼女が女1人で旅を続けてこられた真相に、妙に納得するレイルだった。
『生命の祈り』によって一発で『テルミト亭の歌姫』と客らに認められ、我先にと群がってきた彼らに声をかけられているユイリスの、少々困った表情を浮かべながらも笑顔で応対している姿を何気なく見やりながら、ふと彼らとは反対側に目をやる。
皆がユイリスのもとへと馳せ参じて行ってしまったために、打ち寄せた波が引いた後のようにその一帯は空席だらけになっている。
だからこそだった。1人残っている若い男の姿にすぐに気づいたのは。
痩せ型で頬もこけ気味の男は、年の頃はまだ20歳前後ほどであり、短く刈り込んだ銀髪と蜥蜴を思わせるような細く鋭い目元が特徴できだった。
レイルの体が強張った。
まるで彼の態度に呼応するかのように当の男もレイルを見やったからである。
男は、口元を醜く歪めた。獲物を見つけて歓喜した様を見せつけるかのように。
おもむろに立ち上がると、彼はユイリスと彼女のことで盛り上がっている他の客のことなど見向きもせず、悠然とした足取りでこちらへ向かってきた。
これに、レイルは身動ぎ1つできずに立ち尽くしている。眼差しは男から外すことができなかい。握り締めた拳は小刻みに震えるえるだけで、振り上げられることはなかった。
自身より頭1つ分大きい男は、レイルのもとまでやってくると視線も口調も見下ろす形で言った。
「久しぶりだな。元気そうでなによりだ」
本来であれば、再会を喜びつつ相手の息災を喜ぶ挨拶の言葉。
それも、彼が口にするとまったく優しさも労わりも欠片もない。上っ面だけの単なる言葉並べにしか過ぎないというのはいつもながら感情を逆なでしてくれる。レイルは強張って動かない体に歯噛みしながらも、せめてもの抵抗の意を込めて男をにらめつけた。
「そんなに怖い目をするなよ。お前に逢えて俺は嬉しいんだぜ? ここのところ仕事が忙しくて、腕がなまって仕方ないと思っていたところだったからな」
男は薄気味悪い笑みを顔面に貼りつけたまま親指を立て、その指先を屋外へと向けた。
「い、今からなのか?」
「今夜は月が明るい。夜の闇は障害にはならないぜ」
降って湧いた話にまともに言葉が出てこない。見透かしたように鼻で笑い、男は続けた。
「わかってるよな、自分の立場。ただでさえあの娘の件で譲歩してやってるんだぜ? ま、俺はかまわないけどな、この店には新しい女給が入ったようでもあるし」
男の視線がにわかに動く。眼差しの先には、客たちに囲まれた美声の歌姫が1人。男の意図がなにを指し示しているかはすぐに理解できた。
「わかった、わかったよ。だから、彼女にも、ユイリスにも手は出さないって約束しろ」
ユイリスまでこの男の脅威にさらさせるわけにはいかない。レイルに選択権は一切存在していなかった。
「ほう、ユイリスって言うのか、あの女」
レイルの憤りなどまるで眼中にないかのごとく、男の視線はユイリスに向けられたままだ。
怒りが男に対する苦手意識を上回った。固まったままだった腕が自然と降り上がりかかる。
「おいおい、こんなところでやるのか? 彼女に迷惑かけちまうぜ」
男は困ったように――実際には微塵も困ってなどいないに違いないのだが――肩を竦めると、顎をしゃくってユイリスの方を指し示す。
彼女を巻き込まないと決めた以上は、今ここで揉め事を起こすのは得策ではない。なにより両親にまで知られてしまう。頭に血が昇っていたためにカウンターにいる父親のことを失念していたことに気づき、恐る恐る横目で見やる。
レイルの決意に対して天が味方してくれたのか、はたまた邪な存在の気まぐれか、父はこちらのやりとりに気づいた様子なく、ユイリスと彼女を囲んで騒いでいる客たちの様子を面白そうに眺めていた。
安心すると幾分冷静さが戻ってきた。レイルは振り上げかけた腕を下ろした。
とはいえ、安息の時が戻ったわけではない。彼に選択肢など与えられていなかったのだから。
「とにかく、今夜は付き合ってもらうぜ」
冷たい現実をそのまま表しているかのような物言いだった。踵を返してテルミト亭から出て行く男の背中は、有無を言わさぬ壁となって存在していた。
力を込めた拳を握り直すと、皆に気取られぬよう注意を払い、レイルは男――グェイン=ガルドの後に無言で続いた。