5.
「それでよ、その騎士はこう言ったんだ。『我と我が剣を信じ、我に続け』ってな。ところがだ、そいつが突進するのを他所に、部下の兵士は回れ右して逃げちまったんだと」
「そりゃまた人望ないな。結局その後どうなったんだ?」
「もちろん当の本人も尻尾巻いて逃げ出したとよ。情けねえ話だよなあ」
頭を振って心情を表している男に対し、彼の話を聞いていた相棒もちげえねえちげえねえ、と頷いていた。
やれどこそこの騎士は腕っ節は強いが人望は皆無だの、なにがしの騎士団は衆道に走りすぎて自滅しただの、知っている騎士の話について片っ端からやいのやいのと話題に上げて盛り上がっている2人組の男たち。その背中越しに、カウンターに座ったレイルはミルクが入った杯を片手に興味津々とばかりに聞き耳を立てていた。
街道筋の町サイレアはその立地から人の流量が多いため、町としての規模は比較的大きく、旅人のための施設も多い。当然、レイルの実家たるテルミト亭以外にも飲食を楽しめる店は多々存在し、このリュルゾ亭もその1つだった。
ただ、リュルゾ亭は完璧な酒場で、テルミト亭と異なり昼間から酒類の供出も行っており、レイルの実家とは様相を異にしている。
そのリュルゾ亭になぜ彼がいるのかといえば、この店の店主フェンソ=ルロムが父ロイドの旧友だったからである。今でも親交厚い2人は度々お互いを助け合っており、ちょっとした不都合も支えあう間柄だった。今日2度目の使いに出されたのも、仕込みに使う調味料をうっかり切らしたフェンソのために届けるよう命じられたからだ。
指示通りリュルゾ亭を訪れ、フェンソに言いつけのままに届け物を渡すと、幼い頃からレイルのことを可愛がってくれてきた彼は、お駄賃とばかりにミルクをご馳走してくれた。フェンソはロイドと正反対の性格をしており、非常に温厚でよく気遣ってくれる優しい人物だったのだ。
2人の性格を比較すると水と油と言っていいほど異なり、どうすれば長い間付き合い続けていられるのか甚だ疑問であったが、レイルの理解が及ばぬところでうまが合うのだろう。
よくわからない2人の縁というものに首を傾げつつお駄賃のミルクをすすり、レイルはここぞとばかりに油を売っていた。
酒場にもかかわらずリュルゾ亭は比較的静かな店で居心地がよく、レイルもこの店のカウンターの端で油を売るのが心地よいひと時になっていたのだ。
決して客が入っていないわけではなく、店内の雰囲気が落ち着いているためにお客もその雰囲気を受け入れ、騒ぐよりもゆっくりと酒を嗜むことに喜びを感じてるから、と以前フェンソが静かな理由を説明してくれたが、まさにその通りだと思う。子供の自分でさえ居心地がいいと思うのだから、大人にしてみればよほどいい店に違いなかった。
フェンソにはレイルと同い歳の娘ミスリィがおり、いわゆる『幼馴染』というやつで今も腐れ縁が続いており、いつもならリュルゾ亭に使いにくるとせっかくの落ち着いた店の雰囲気を台無しにするかのごとく勢いで話し相手の獲物にと絡んでくるのだった。
幸か不幸か、日中外出していた疲れで当の本人は早晩就寝してしまったとのこと。決して悪い娘ではないのだが、たまに度が過ぎるお喋り娘の邪魔が入らないのは素直に気が安らぐことで、レイルはささやかな安息の時間を楽しんでいた。
リュルゾ亭の雰囲気のよさは折り紙つきだが、レイルがこの店を好きな理由がもう1つあった。店内が静かなために、耳を澄ませば客同士の話が聞こえてくることだ。
客層は当然ながら旅人が多いため、酒場での談話も当然サイレアの外のことがほとんどだ。珍しい話や驚くような話が次から次へと聞こえてくるため、実に飽きない。さらには、彼が胸躍らせるような武勇伝も聞けるため、リュルゾ亭で聞き耳を立てるのは日課のようになっていた。
今日も旅人たちの話を聞いていたのだが、丁度真後ろの円卓を囲んでいる2人組の談話は大当たりで、各地の騎士や騎士団の話に花を咲かせていたのである。
これ以上もない話題に、レイルは時間が経つのも忘れて彼らの話に思いを馳せていた。
「しかしだ。最近はとんと勇猛果敢な騎士の話を聞かなかったが、ラミニュランの神聖騎士団は精強だな」
「ああ、大南征なんて夢物語を完遂させちまうぐらいだからな。奴らにかなう騎士団なんぞ、この辺りにゃもういねえんじゃねえか?」
「言えてるかもしれん。あとは、フレアミスで起きた内戦で活躍したっていう奴らぐらいか? 単に強さって面で言えば」
情けない騎士の話題を経て、再び名のある騎士団の話へと移ったようだ。ラミニュラン帝国の話は聞いたことがある。
ただ、その後に上げられた『奴ら』というのはいったい。膨らんだレイルの疑問をさらに増大させるかのごとく、彼らはさらに話を続けた。
「聞いたことあるぜ。嘘か誠か、今の政府を勝たせた立役者だったとかよ」
「ああ。化け物みたいな強さだった、と伝え聞いてる」
「でもよ、そいつら、ハーなんとか隊って言ったか? とにかく面子のなかに女も何人かいたって言うじゃねえか。極めつけは主席があの『聖女』だろ? 反政府軍の象徴だかなんだか知らねえが、おおよそどこぞの娘を祭り上げて、士気の高揚に使ったんじゃねえか?」
「確かに。実際はどいつもこいつもお飾りだったんだろう。どこまで効果があったか知らんが、現実に当時の反政府軍は戦力として政府軍に劣っていたものの、士気旺盛でそのまま時の政府を打ち倒してしまったんだからな。結局のことろ、現政権の力が本物だったってだけさ」
「となると、やっぱりラミニュランの騎士が一番ってことになるな。ここらからももっと骨のある奴に出てきてもらわねえと、ファルアリアなんてあっという間に滅ぼされて、俺らもおちおち商売してらんねえってもんだ」
「ああ、まったくだ」
一通り話しきると、2人は声を上げて笑っていた。
一方、レイルの胸中は複雑な感情に見舞われていた。途中までは心躍らせて聞き入っていたものの、終盤彼らが口に出したとある隊の話や、その主席と言われた『聖女』のくだりを彼ら自身が否定し、貶していたことに強い不快感が湧いたからだ。
貶されていた対象についてまったく知識がないが、人が貶されているのを喜ぶような性根を彼は持っていなかったのである。戦時を駆け抜けた人間を誹謗することは例え真実がどこにあろうとも、平穏な酒場などで安易に口にしていいものだと思わない。
それまで心地よかったのが一転して嫌な気分になる。その時だった。彼の心情を代弁するかのように、彼と2人の男が形成していた空間に1人の人物が押し入ってきたのは。
「今、聖女の話をしていたな」
若い男の声だった。だが、決して青臭くなく確たる『意思の力』が込められた声であった。
気になったレイルは、そっと頭を傾け、横目で後背を窺った。
黒いマントの男が立っていた。歳の頃は20代半ばぐらいだろうか。マントと対照的な栗色の髪を短く刈り込んだ長身のその男は、精悍な面立ちに絶妙に配置された灰色の双眸をもって、例の2人を射るように見下ろしていた。
「は? なんだてめえ」
突き刺さるような視線に腰が引けつつも、男は大して価値のない矜持を守るためかあえて強気な言葉を吐いていた。だが、黒いマントの男はそれをまったく歯牙にもかけなかったのである。
「加えて、彼女とハーキュリー隊の連中を侮辱した。そうだな」
口にする言葉に抑揚はない。ただ、落ち着きはらった声には、子供のレイルにもわかるほどの確たる怒りが滲み出ている。それをより至近で聞かされている2人の男にわからないはずがなかった。
「だ、だからなんだってんだ」
案の定、男の口調が瞬く間に怪しくなる。ほんのつい先ほどまでの威勢はどこへやら、だ。
「彼女らを侮辱する奴は俺が許さん」
マントの合わせ目が若干揺れ、隠された彼の身体が少しだけあらわになる。黒いマントの向こうには、板金鎧を改造した軽装甲を身にまとい腰に長剣を下る武装された身体があった。彼が長剣の柄に手をかけたためにマントの合わせ目が揺れたのである。
「な、なんなんだよいったい! 頭おかしいんじゃねえか!?」
「おい行こう。こんなやばい奴相手にしてられん」
完全に呑まれきった2人はそれぞれに捨て台詞を残すと、尻尾を丸めて逃げる犬のようにそそくさと席を立ち、店の外へと消えて行った。
あっという間のできごとだった。暴言の2人が出て行ったのを契機に張り詰めた空気が緩み、面倒ごとには関わりたくないと息を飲んでいた周りの客も再び各々の世界を楽しむべく会話を再会させている。
ただ、レイルはまだ黒いマントへとその視線を釘付けにさせられていた。
2人が出て行くのを確認した男は、長剣の柄から手を離しマントの合わせ目を直すと、冷たく凍るような視線をこちらへ向けてきたのだ。驚き、慌ててカウンターへと顔を戻す。杯を両手で持ち、顔を伏せる。中に入ったミルクを見つめ、視線を上げない。
すると、石造りの床を踏み歩く長靴の音が一歩、また一歩とこちらへと近づいてくるではないか。にわかに心臓の拍動が早まり、背筋が凍る。
自分はなにも言っていないのにもかかわらず、あの冷たい視線で見据えられ、レイルの意識は完全に呑まれていた。
足音はすぐ傍まで近づき、拍動も最高潮に達した時、隣の座席に誰かが座る物音が。
強張った身体に抗い、反射的に隣を見る。すると、あの男がそこに腰かけていた。そして、彼は灰色の眼差しをこちらへ向けていたのである。
「子供がなぜこんなところにいる」
生まれて初めて体験する、静かなる威圧感。怒鳴られているわけでもないのに身が竦んだ。答えようにも声が出てこない。
「ああ剣士さん、すいません」
男の視線に射竦められ微動だにできないでると、慌てつつも丁寧さのこもった声が2人の間に割って入った。
「その子はあたしの友人の息子でして。使いに来てくれたのを労っていたところなのです」
助け舟となった声のおかげで、金縛りにあったかのように動かなかった身体に自由が戻ってきた。既に男の視線は外れ、カウンターの向こうを見ている。助け舟の主がいる方であり、レイルもそちらを見やった。
フェンソだった。寂しくなってきた金色の頭髪に、見るからに人の良さそうなふっくらとした面立ち。なにかと気にかけてくれるこの店の主人が、慇懃な態度でレイルを庇ってくれていたのである。年齢に見合った場数を踏んできているからか、丁寧な物腰は崩さないものの彼はまったく臆した様子を見せず、一歩も引かない姿勢を見せていた。
「そうか。仕事を果たした対価を得ていたんだな。勘ぐってすまなかった」
フェンソの言を聞き納得したのか、黒いマントの男は頷き、意外にも素直に謝罪してきたのだ。それまでの強硬的な言動から最もかけ離れているであろう行為を見せつけられ戸惑ったものの、逆にそんな彼に丁重な対応を取られてしまえば、とまどいながらも反射的に恐縮してしまう。
「い、いいんです。気にしてないですから」
「そうか、ならばいい」
短いやりとりだった。感情が欠落しているような素っ気ない態度はおそらく生来のものなのだろう。自分の非を素直に認めてしまうような潔い人柄から決して悪気がないことはわかるのだが、こうもあっさりしていると拍子抜けしてしまう。
鋭い眼光、存在から滲み出る威圧感、そして腰の長剣を見せつけながらも抜かずしてその場を制した男の迫力に圧倒されはしたが、実は彼に対する好奇心の方が恐れを上回っていた。騎士への思い……いや、レイルの心の奥底にしまってある思いがそうさせていたのである。
ところが、当の本人は実に我が道を歩んでおり取りつく島もない。
とはいえ、とても話しかけられるような相手ではない。ここまでだった。
「俺はまだなにも頼んでいないが」
訝しげな男の声が。横目で見ると、カウンターに両肘をついている彼の前にビールが並々と注がれた杯が置かれていた。
「こいつは、あたしのおごりです」
フェンソだった。温厚な表情ににこやかな笑みを乗せて男を見ていた。
「彼らは常連なのですが、あまり品がよろしくなくてね。とはいえ、客であることには変わりませんで、どうにもできずに少々困っていたところだったんです。おかげで助かりました。これで、彼らも少しは懲りたでしょう」
肩を竦め、おどけたようにしている店主。これを一瞥した男は、表情を変えず黙したまま杯に手を伸ばしていた。フェンソのささやかな好意を快く受け入れる思いを表すかのように。
「剣士さん、フレアミスからお越しになったんですか?」
ビールを嚥下する男を横目で見ていると、ただでさえ近寄りがたい外見の彼にも臆することなく、相変わらずの調子で談話を続けるフェンソ。思えばまったく性格は違えど、ロイドもどんなお客にも分け隔てなく接していた。長年商いをしているということはこういうことなのかと妙な感心を覚える。
だが、レイルの心をより動かしたのは、例の男が「ああ」と答えたことだ。無愛想なその面持ちから絶対に談話など続けることはないと思っていたため、意外なことに驚いた。
好奇心をかきたててくれる男が口を開いてくれるのならばこれにこしたことはない。なおも話を続ける2人を、レイルはこれ幸いと見守った。
「よくわかったな」
「先の一軒で『聖女』っておっしゃってましたでしょ? ここいらまで名が届く聖女様なんて、今時分ではフレアミス帝国――ああ、今はフレアミス連合評議国でしたな。そのフレアミス連合評議国建国の功労者で、多くの民を救ったとされている『フレアミスの聖女』様ぐらいですからね。もっとも、あたしのこの話も旅のお客さんからの受け売りで、委細については詳しく知りませんが……ま、そういうことです」
「そうか。酒場の店主でもその程度の知識なら、三下風情が馬鹿なことを口にするのも無理はないということか……」
表情は変えていなかったが、男の口調にはどこか悔しげで切なげな響きが込められていた。
「フレアミスの皆さんに、好かれてらっしゃるんですな。聖女様は」
男を慮ったのか、フェンソによる話題の『聖女』について肯定的な感想が。これに男は、さにもあらんといった様子で頷いていた。
「ごく自然なことだ。彼女、それに彼女を支えたハーキュリー隊がいなければあの国はいずれ滅んでいたろうよ、内憂外患でな。だが、彼女たちがあの国の膿を全て出し切ってくれた。だから今があるし、皆が彼女たちを忘れない」
「それだけの働きをなされたということは、さぞ剣の腕前も相当なものだったんでしょう」
「相当、などというものではない。彼女はエウロニア一帯で認められる称号を受け継いだ現『剣聖』だ。店主も剣聖号については知っているだろう」
「存じ上げております。剣の道を究極まで極めた者が代々受け継いでいく、剣士最高の称号ですな。ですが、剣聖号の世代交代があったとは今まで知り及びませんでした」
「そうかもしれん。正式に式典等が行われて委譲されたわけではないからな。当のフレアミスでさえ、聖女としての彼女を知っていても剣聖としての彼女を知らん輩は少なくない。国外ならなおのこと窺い知らぬ者も多いことだろう」
男はそこで息継ぎをするかのように杯をあおり喉を潤すと、ほんのわずかではあるが過去を懐かしむかのように初めて表情を和ませ、続けた。
「彼女は本当に強かったよ。俺も腕に覚えがあったが、彼女は別格だった」
「剣士さん、立ち合ったことがあるので?」
「ああ、初めて見えた時はお互い敵同士だったからな。何度か立ち合い、持てる力を振り絞って剣を繰り出したが、全て彼女の聖剣に阻まれた。それどころか、その聖剣の餌食になるところだった。斬られなかっただけ幸いというところだろうな」
どこか自嘲気味に語る男ではあるが、その表情に悔しさや憎悪は皆無だ。命をかけて戦った相手なのだろうが、彼の口調には相手に対する敬意と賛辞が窺い知れた。それはすなわち、心から相手――『フレアミスの聖女』を認めている証だろう。
強者のみが知りえるであろう『敵を称える』という感覚にどこか羨ましさを感じつつ、レイルはこの青年剣士がもしかすると相当名のある人物なのではないか、と思い始めていた。
フェンソらの話で『フレアミスの聖女』が比類なき功績とともに恐るべき剣術の達人ということはよくわかった。
では、その彼女と渡り合ったというこの男は。
立ち合ったことを騙るなら、わざわざ自らの力が劣っていたようには口にしないだろう――斬られなかっただけ幸い、などと。だいたい、男の言動を見聞きしているととてもなにかを騙るような人物には見えない。
興味を通り越し、レイルの思いは憧憬へと変わろうとしていた。
「……酒が入ったからか珍しく舌が滑らかになってしまったな。雑談は終わりだ。店主、実は聞きたいことがある」
盛り上がってきたと思った矢先、男は省みたのか不意に昔話を止めてしまう。代わりに口にしたのは、彼がここに来た本当の目的であろう内容だった。それは、胸ときめかせる物語の終焉に落胆したレイルの目を大きく見開かせる。
「人を探している。亜麻色の髪の女性だ。年の頃は20歳ぐらいになると思う」
嚥下したミルクを吐き出しそうになった。男がフェンソに尋ねた人探しの対象――それは至極見知った人間の特徴に合致していたからである。
ただ、男の質問を受け、首を傾げながらも答えるフェンソが戸惑ったレイルの心中を落ち着かせてくれる。
「20歳ぐらいで亜麻色の髪の女性、ですか。この町にも若い娘は多いですし、なにせ街道筋ですからねえ。亜麻色の髪の娘もよく往来しているます。もう少しなにか特徴がありませんかね」
まさしくその通りで、亜麻色の髪の若い女性など別段珍しくもない。そもそもあの彼女といきなり重ねてしまう方がおかしいと、レイルは勝手に納得し、自らを落ち着かせるためにも再びミルクを口に含んだ。
「『ユイリス=レンフィア』、と名乗っているはずだ」
さすがに今回は堪えることができなかった。レイルは白い液体を思う存分カウンターに吐き出した。
「おいおい、大丈夫かい? 変なところに飲み込んでしまったのかい?」
突然ミルクを噴出したレイルを心配し、怒るどころか優しく声をかけてくれるフェンソ。
「ご、ごめんなさい。ちょっとむせちゃって。あ、お、俺戻らないと。油売ってるって父さんに怒られる」
「おやそうかい。ああ、いいよいいよ、あたしが片付けるから」
作り笑顔を無理やり浮かべて自らを取り繕いつつ、席から立つ。汚してしまったカウンターをどうにか綺麗にしようとすると、店主はやんわり気にするなと気遣ってくれた。
「本当、ごめんなさい。おじさん、ご馳走様。またね!」
フェンソの言葉に甘えると、レイルは例の男を視界に入れないよう踵を返してリュルゾ亭を後にした。
急ぎ戻らないといけないことを思い出したことは本当であり、現に足早にテルミト亭へと向かっているが、きっかけとなったのはもちろん男の言葉だった。
あの男はユイリスを捜している。亜麻色の髪の若い娘という特徴だけならまだしも、なんと姓名並べて名指ししたのだ。勘違いの類であるはずがなかった。
立ち居振る舞いはぞんざいだが決して悪い人間には見えない。ただ、過酷な戦場を渡り歩いてきたあの男のような人物と、殺伐とした空気がまったく似合わない明るいユイリスに接点を見出すことができず、困惑する。友人知人がユイリスを探している、という形にはどうしても見えないのだ。
もしかすると昔の恋人かなにかかも――不意に浮かんだ思いに、レイルは胸がちくりと小さく痛むのを感じた。
これまでにない感覚に戸惑うが、すぐに軽くかぶりを振って無理やり打ち消す。
そんなことよりも、彼のことをユイリスに伝えるべきかどうか。いずれが適切なのかをテルミト亭に着くまでに考えねばならない。
降って湧いた話に頭を痛めつつ、足取りが重くなりそうになりながらも歩を進めるのだった。