4.
辺り一面に霧が満ちていた。視界はまったくといっていいほど利かない。
気がつくと、この霧の海のなかに立ち尽くしている自分がいた。いつ、どうやってこんなところにきたのだろうか。思い出そうとしても思い出せない。
「とにかく、霧が薄いところまで出て、状況を確認しなきゃ」
どこまで行っても霧が続くということはありえない。必ず切れ目、境目があるはずだ。それに少しでも風があれば霧は対流し、視界が開けることもある。その場所を目指してまずは移動することが先決だった。
ところが、足を踏み出したとたん、彼女の動きが止まる。2つの理由が彼女の身体を束縛した。
1つは金属と金属が擦れ合う音がしたため。
もう1つは、つま先になにか柔らかいものが触れたため。
彼女はゆっくりと、音がした胸元と、そして柔らかいものに触れたつま先を確認すべく視線を下げた。
刹那、空色の双眸の中心で彼女の瞳孔は閉じられてしまうかのごとき勢いで小さく絞られた。
いつの間にか身につけられている白い鎧。胸に金十字の紋章が入った、愛着のある彼女専用の鎧だった。
ありえない。今は彼女の手元にはなく、遠い故郷の大地に抱かれているはずである。
にもかかわらず、くだんの鎧を身に着けていることも驚くべきことだが、彼女の瞳を驚愕で満たした最大の理由は、城郭を彩る白亜の大理石のような美しい鎧が見るも無残に赤い血で染め上げられていたことだ。
さらによく見れば、鮮血は装甲のある箇所だけでなく全身に飛び散っている。決して自らが血を流したわけではなく、他人の血、すなわち返り血を浴びた結果に他ならなかった。
いったいなにがどうなっているのか、まったくわからなかった。積み重ねてきた記憶がないため、起こってしまった結果だけを見せられた形なのである。常人ならばこの時点で混迷の彼方へ自我を喪失してしまって不思議はなかった。
彼女だからこそ、まだ自分を失わずにいられたのだ。
が、もちろん完全に平静でいられれているわけではない。見開かれた目、凍りついた表情――彼女の胸中に果てることのないさざ波が巻き起こっていることを表していた。
ただ、これはまだ序章に過ぎなかったのである。
小波を拡大させ飛沫を上げる大波の猛威を呼び起こす要因が、彼女の瞳へと映り込んだのだから。
つま先に当たった柔らかいもの。それは、血にまみれ、切断面から臓物を撒き散らした人間の上半身だったのである。
息を呑んだ。見慣れた光景とはいえ、つい反射的に『左手』で口元を押さえてしまう。
駆け巡る疑念。
全身に浴びた返り血。足元に転がる惨殺体。それが意味するところを、考えないわけがない。
彼女はそこでふと、口元を押さえる手が左手だったことに気づく。両腕利きではあるが、基本的には右手を利き腕として使っている。ではなぜ、自分は右手で口元を押さえなかったのか。
よもや、という思いが蝋燭の灯火のように胸中に灯り、それは瞬く間に燃え広がる。すでに血色を失ってしまった唇を小さく震わせながら、彼女は怯えの色さえ浮かびつつある双眸をゆっくり右手へと下ろしていった。
恐る恐る見下ろしたその先には、金十字をかたどっている鍔を持つ、長く苦しい彼女の戦いを支え通した剣――白銀色の刀身を赤く染め、切っ先から血の雫を滴らせた、殺戮の嵐を巻き起こした痕跡を残す長剣がしっかりと握られていた。
とたん、一陣の突風が吹き抜ける。それまでの濃密さが嘘のように、立ち込めていた霧は散り散りになって隠されていた辺り一帯が鮮明になる。
地獄絵図、というものが実在するならば、まさに今この時のことを言うのだろう。
一面に広がる赤い絨毯。否、それは血の海。
無造作に転がる肉塊の群れ。否、それはかつて生きた人間の一部。
いったい何人の、何十人の、いや何百人の死体があるのかわからない。彼女の剣でしかできない切断面を見せる、バラバラになった五体がそこかしこに飛び散り、吹き出た血飛沫が大地を汚し尽くしていた。
――私が、
長剣を取り落とし、頭を抱える。
――私が、私が、
立っていられなくなり、震えながら膝を折って尻餅をついた。
『私が殺した!?』
天を突く絶叫。それは、全て絶望に染まった末の心の悲鳴だった。
激しい動悸と止まらない身体の震えに、意識まで混沌の渦に飲み込まれてしまいそうになった時、彼女は瞳に映った暗闇の向こうに浮かび上がる無機質な石造りの天井に気づき、我に返った。
静かな室内に彼女の荒い息遣いだけが響いている。肩で息をしていたため、まず呼吸を落ち着かせる。最後に大きく息を吸い込んだ後、深いため息を吐いた。
瞬きすると少し目が痛い。指先で目元を触ると、涙を流した跡があった。もしかしたら目は充血しているかもしれない。
気だるさが全身を包み込むなか、ユイリスはベッドに横たわっていた己が身体をゆっくりと起こした。
トランクを回収した帰り、レイルのお使いにつきあった後、あてがわれている客間に戻ってからの記憶がない。体力がまだ完全に回復していなかったのか、どうやらそのままベッドに倒れ込んで寝てしまっていたようだ。
すっかり陽は落ち、光失くした室内は薄暗さに染まっている。木戸が開け放たれた窓の向こうから差し込む月明かりだけが唯一の照明であり、窓下にある机の上に置かれたトランクケースを照らし出していた。
それにしても現実的な夢だった。いや、むしろ現実として起こっていたことを詳細は別として思い出しただけと言っても過言はないのかもしれない。
重苦しい胸中を振り払いつつ脚をそろえて床に降り立つ。狭い室内のため、すぐ目の前には例の机がある。
机上のトランクのこげ茶色の表面をしばし見つめた後、開閉を封じている止め具に手をかける。蝶番が軋んだ音を立てるとともに蓋が開き、月の光が中へと注がれた。
「あの子に『業』の話をしたから、思い出してしまったのかもしないわね……」
彼女とともに幾多の艱難辛苦を乗り越えてきたものの、あれから使われることのなくなった相棒たちを見つめる。
最も上に収納されていた枯れ草色の衣服に手を伸ばし、綺麗に折りたたまれた袖に触れた。二の腕に縫いつけられた特徴のある紋章がユイリスの瞳に映り込み、かつての記憶を呼び覚ます。
「私の、『業』……か」
蚊の鳴くようなか細い声でつぶやき、彼女は小さくため息を吐いた。
後悔はしていないが、好きで飛び込んだ道でもない。沈鬱な影が表情に張りつくのは仕方のないことだった。
だからといって自分の殻の中に閉じこもってしまうなどということは単なる逃げであろう。今を懸命に生きる――それだけが彼女に与えられた唯一の道なのだから。
沈んだ心を振り払うかのように頭を振る。トランクを元通りに閉じると、ユイリスは机に背を向けて扉へ足を向けた。
考えてみればこの時間帯、意識を取り戻してからはずっと客間で過ごしていた。食事もレイルが運んでくれたのを口にしていたので、階下に降りたことはない。
そう言えば夜は酒場として商いしているとロイドから聞いていたことを思い出す。扉を開けて真っ暗な廊下を進み階段へと差しかかると、彼の言葉を証明する賑やかな複数の声が階下からほのかな灯りとともに上ってきた。
これだけの喧騒を耳にするのは久しぶりのことだ。賑やかなのは嫌いではないが、最近はそういった場自体に近寄ることがなかったので、なんだか新鮮な気分になる。
暗がりから明るく照らし出された1階へ降りたため、まぶしい。腕をかざして瞳に入る光量を調整しつつ、作り出された影から室内を見回した。
初めて見た時も思ったより広いと感じた店内は、満席とまではいかないものの酒盛りをする客らでごった返しており、ともすれば息苦しさを感じさせるほどだ。
所狭しと並べられた円卓をそれぞれ囲み、赤ら顔の男たちが杯を豪快に傾けながら談笑している。ささやかな幸せを堪能し、皆一様に満足そうだ。
彼らの間をミランが忙しく給仕に駆けずり回り、壁際に設けられたカウンターの奥ではロイドがこちらも忙しく料理の仕込みをしていた。それなりに繁盛していると話には聞いていたが、これならば彼らの言も素直に頷ける。
十分すぎる繁盛ぶりに感心しつつ、ユイリスは壁際を歩いてカウンターへ歩み寄った。
するとこの店の主人もこちらに気づき、少し驚いたような顔をして迎えてくれた。
「おぉ、大丈夫なのか? さっきうちのが様子を見に行ったら寝ちまってるって言ってたからよ、熱がぶり返したのかとも思ってそのまま寝かせてたんだが」
「少し疲れていたみたいです。でも、お昼寝したらすっかり元気になりましたからもう大丈夫です。色々と気を遣って下さって本当にありがとうございます」
礼を述べながら丁重に頭を下げる。すると、レイルをそのまま歳取らせたような、彼によく似た――正しくはレイルが父親によく似たと言うべきか――店主はよしてくれと手を振った。
「気にするこたあねえよ。むしろ、大したこともできねえで申し訳ねえぐらいだ」
「そんなこと。レイルを始め、ロイドさん、ミランさん方々がいらっしゃらなかったら私はどうなっていたことか」
「そう堅苦しく考えんなって。困った時はお互い様ってやつだ。そうだろう?」
口元をニヤリと歪めて笑うロイド。レイル曰く、頑固でどうしようもないというが、決してそれだけではないということをその表情が雄弁に物語っている。ユイリスは彼の配慮に最大限の御礼を込め、はい、と微笑みをもって応えた。
「ところでレイルの姿が見えないようですが」
テルミト亭に戻り、客間に引っ込んだ時に別れて以来姿を見ていない。店内にも彼の姿を確認することができず、首を傾げた。
「そうなんだよ。もう一度使いに出したんだが、どうやらまた使い先で油売ってるみたいでよ、あの野郎まだ帰ってきやしねえ。このくそ忙しい時になに考えてやがるってんだ。帰ってきたら半殺しだな、うむ」
額に青筋を浮かべて頭に血を上らせつつ、自分で自分の発言に納得したように頷いているロイド。この父親なら本気で半殺しにしかねないかも、とユイリスは内心苦笑いしつつ、命の恩人の身の安全を考えてせめてもの手助けとばかりにとりあえず強制的に話題を変える。
「それにしても大盛況ですね。お昼も沢山のお客様がお見えになってましたけど、夜分のテルミト亭を見るのは初めてなので、お昼以上のお客様の入りに驚きました」
「ところがそうでもねえんだよな、これが。見ての通り、満席じゃんねえだろ?」
舌打ちしながら、顎をしゃくって店内の方を示す。階下に降りた時から感じていたことを店主から指摘され、改めて確認する。彼の言う通り、若干ではあるが空席が見受けられた。
「最盛期は席が足りなくて、家んなかから私用のを引っ張り出して来て使ってたぐらいだからな。ところが今じゃ満席になりやしねえ。それもこれも、南の馬鹿帝国の奴らのせいだ」
苦虫を噛み潰したかのような顔をして、舌打ちするロイド。彼の言う帝国とは、ファルアリア王国の南東に国境を接している大国、正式名称・神聖ラミニュラン帝国のことに違いなかった。
「そう言えば旅の最中耳にしました。ラミニュラン帝国との国境付近で彼らに不穏な動きがあると」
「そうそうそれだ。おかげで街道筋を旅する人間が減っちまって、このざまだ。周りに迷惑かけまくりやがって、ふてぇ野郎どもだ、まったく」
吐き捨てるように怒りをあらわにするロイド。ただ、彼の主張は至極もっともなことだった。
神聖ラミュニラン帝国は領土的野心が非常に強く、5年をかけた大南征で3つの国を侵略し、一昨年にいずれも降伏させたことは記憶に新しい。
しかし、ジェラルシア大陸西方にて東西に広がるエウロニアと呼ばれる一帯には、ラミニュラン帝国の支配下にない国々がまだまだ数多く存在している。
ユイリスの故国もそのうちの1国であり、ラミニュラン帝国に比するほどの国力を備えた国だった。
その故国も3年前に勃発した内戦により国体が改められ、現在は新政府が政を執り行っている。
内戦により多大な代償を払うこととなったが、不幸中の幸いだったのは、内戦時、緩衝地帯――ファルアリア王国のことである――を挟んで火花を散らすラミニュラン帝国が大南征を行っていたことだ。
征服されるエウロニア南部の国々にとっては非常に不謹慎なことに聞こえるだろうが、あの時もし彼の大南征がなければ、故国の内戦を契機に神聖ラミニュラン帝国は大北伐の檄を飛ばし、ファルアリア王国を瞬く間に飲み込んだ余勢をかって、大挙して来襲してきたに違いないのである。さしもの大帝国も大南征中に反対方向までは手がまわらず、結果として故国はエウロニア南部の国々の犠牲によって生きながらえた、と結論づけても決して過言ではなかった。
しかし、予断は許されなくなった。大南征の完結によって。彼らが今度は北西を目指すであろうことは明白だったからだ。
悪名高い前政権に比べ、故国の現政権は非常に庶民的であり、国民からも慕われていた。このように政情は大変安定しているのだが、後退した国力はまだ回復していなかった。
エウロニア西方の雄国と目されていた故国が力を削がれた今、神聖ラミニュラン帝国が『北伐』という侵略の牙を剥き出しにする好機であることは、誰よりも彼らがよく認識しているだろう。
これらを踏まえると、巷の噂を単なる流言として看過することはできない。国境に近づけば近づくほど真実味を帯び、国境から街道筋の町を2つ挟んで存在しているこのサイレアでラミニュラン帝国が不穏な空気がもたらしている現状をまざまざと見せつけられたのだ。
各国の国情と時勢、そして眼前の事実を鑑みると、自分がこの地方へと足を踏み入れた『本当の目的』は達成されつつあった。懸念が発端となり彼女を突き動かしたのだが、それは悪い方で的中しつつある。
「どうした、難しい顔をして」
つい自分の世界に入り込んで憂いてしまった。ロイドから声をかけられ、ユイリスは我に返る。心中を表情には出さず、何事もなかったかのように応対する。
「いえ、別に。なにごともなければ、と祈っていたところです」
「だな。戦争やられて一番迷惑を被るのは俺たち庶民だ。えれぇ奴らはそれがわかってねえ。まったく困ったもんだ」
腕を組み、口を山なりに歪めて心情を表している頑固店主に、ユイリスは苦笑いしつつ軽く頷いた。本当は同意の声を上げたいぐらいであったが、あえて自重する。己の過去を顧みると、客観的に見ればロイドの言う『えれぇ奴ら』と立場は違えど同じ舞台に上がっていたわけであり、彼のように愚痴を言うことなど許されない。……いや、おそらく民衆は許してくれるだろう。だが、彼女自身が自らを許さなかったのだから。
ともあれ、神聖ラミニュラン帝国の野望はどうやら限りなく実行へと近づいているようだった。対応を迫られているのは間違いなく、その先に待ち受ける暗雲立ち込める未来にユイリスは胸を痛めた。
「よう大将! 大将ってば!」
複雑な思いを胸中で渦巻かせながらロイドの調子に合わせていると、唐突に客席から声が投げかけられてきた。見ると、カウンター傍の円卓を囲んでいた、見るからにがたいのよい中年の男たちが上機嫌で顔をこちらへ向けていた。
「おう、なんだ。お前らか」
「なんだじゃねえよ、まったく。さっきから呼んでんのに」
どうやらこの店の常連らしく、ロイドは腰に手を当ててむっつりっと顔をしかめた。それに、男の1人は不満げに赤ら顔をしかめて抗議を示す。
が、不毛なやり取りなどやってられるかとばかりに、別の男が円卓に杯を叩き置き、ユイリスに向って指差した。
「てか、そんなこたあどうでもいい! そこのえらい別嬪なねえちゃん!」
突然のことにユイリスもつい自分で自分を指差し、『わ、私?』と混乱してしまう。これに、男は頷きながら口角泡を飛ばす勢いでまくし立てた。
「そうだ、あんただ! ルイーズの代わりに新しく雇われたねえちゃんなんだろ、そうだろ!」
いきなり意味不明なことを言われ困惑するが、間違いないのは彼がなにかを勘違いしているということだ。
とはいえ、酔っ払い相手にどう回答すればいいというのか。答えを考えあぐねていると、ロイドが助け舟を出してくれた。
「馬鹿野郎、この人はうちのお客人よ。ちょっかい出そうもんなら、店から叩き出すぞ!」
助け舟を出してくれたはいいが、生半可な助け舟ではなかった。
およそ客に向かって言う台詞などではなく、暴漢相手にでも吐き捨てるような言葉に、逆に焦るユイリス。助け舟はありがたいが、なにもそこまで……と慌ててロイドを止めようとすると、暴言を叩きつけられた当の客たちは声を上げて笑い出したのである。
「なんだよ、そうならそうと早く言えってばさ。危うく大将に蹴飛ばされるとこだったぜ」
「てか、お前の場合ルイーズに手を出しかけて一度本当に叩き出されてたしな」
「あれには腹抱えて笑わせてもらったぜ。でも、そのルイーズちゃんも今や人妻……寂しくなったなあ」
異様に盛り上がったと思えば、今度は急に肩を落として沈み込む一団。いくら酔いがまわっているからとはいえ、あまりにも激しい感情の起伏に圧倒され、ユイリスは呆気に取られた。
「すまねえな、ユイリス。こいつらここんところいつもこうでな」
さしものロイドも呆れた様子で、落ち込んでいる男たちを傍観している。ユイリスは、気にしてませんから、という意思表示を込めて軽く手を振った。
「ありがとうよ。ルイーズがいてくれたらこいつらももうちょっと大人しいんだが。ああ、ルイーズってのはついこないだまでうちで働いていた、ちょうどあんたぐらいの若い娘でな。これがよく気がつく娘で、給仕を完璧にこなしてくれていた上にだ、特技で客どもを魅了してたんだよ」
「特、技?」
「ああ。歌を歌うのが上手かったんだ。しかもリュートを手前で弾きながら、ときたもんだから、いっぱしの歌姫のようだったぜ。常連にはかなり人気で、夜、給仕がひと段落した頃によく歌ってくれてたもんだ。ところがあんまりにも人気を博したもんで、話を聞きつけた旅の金持ちだかなんだかに見初められてそのまま一緒に旅立っちまった、ってわけだ。俺としても使いでのあるいい娘がいなくなっちまって残念極まりねえがな」
ロイドの説明で合点がいった。よくよく考えてみれば、減ったとはいえこの客の量をミランだけでさばけているはずもない。ルイーズという女性がいたからこそ、店も回っていたのだろう。
そう考えると、フュンフル家に命を救われその後の世話も受けている自分として、彼らに恩返しできる最良の方策がなんなのか――答えはすぐに導き出された。
「ロイドさん」
一見馬鹿にしながらも、しょうがねえなあ、という風に彼らのことを心配している人情味厚いロイドに対し、ユイリスは真剣な面持ちを向けた。急に顔色の変わった若い娘に、ロイドは訝しげな目を向けてくる。
「どれだけの期間お役に立てるかどうかわかりませんが、その、私にルイーズさんの代わりを務めさせていただけないでしょうか」
導き出した結論を端的に伝える。突然の申し出に、ロイドは最初彼女の言葉を理解できなかったようで首を傾げていた。が、すぐに言わんとしていることがどういうことか気づき、口を大きく開けて驚いていた。
「命を助けていただいた上に、ただただお世話になっているだけではあまりにも申し訳なくて」
「い、いいんだよ、あんたは気にしなくて。あんたはうちのお客人なんだからよ」
一貫して気にするな、という立場を取り続けているロイドは、ここで悪い意味での頑固さを発揮。降って湧いた話に一瞬とまどっていたものの、すぐに我に返って頑なにユイリスの申し出を拒絶した。
感謝の意を少しでも示したい、との思いから出した提案だったが、店主であるロイドに断られてはそれ以上どうすることもできない。下手に強く申し出れば、いたずらに彼に不快な思いを抱かせてしまい、恩を仇で返すことになってしまう。そうまでして申し出ることではないし、他に幾らでも恩返しの方法はあるはずだ。
ここはひとまず諦めるのが得策。少し残念だったが、ユイリスはそれ以上の申し出を控えようとした。
その時だった。
「ちょっと待て大将! 健気なねえちゃんの一途な思いを無駄にする気か、この唐変木!」
なんと、先ほどとは逆に、今度は酔っ払いの一団が逆に助け船を出してくれたのである。
「そうだそうだ! 馬鹿の一つ覚えな頑固一徹にもほどがあるぜ!」
「ひっこめくそ親父!!」
先ほどやりこめられた反動もあるのだろう。ここぞとばかりに言いたい放題まきちらす男たち。
するとロイドの顔が見る間のうちに赤く染まっていった。
「なんだとこの野郎!」
売り言葉に買い言葉。怒声を張り上げたロイドは、袖をまくり上げ彼らにつかみかからんとカウンターを乗り越えるべく脚をかけていた。
助け舟はありがたかったが、なんだか事態が複雑な方向へ向っていってしまっている。正直、こうなるとこの場から逃げ出したくなってくるが、当事者の1人としての責任も感じるため、ユイリスはため息を吐きながらも、ロイドを止めるべく声をかけようとした。
「お止めっ!」
ロイドや男たちだけでなく、店内にいる全ての客たちの声が失われた。あれほど喧騒にまみれていた店内が、たった一言で一切の音もなく静まり返る。
怒気を含んだ女性の一喝は、全員を金縛りにしてしまうほどの威力があったが、ユイリスが叫んだわけではない。
ミランの声だった。
「もう、いい大人がみっともないったらありゃしない! 恥じを知りなさい、恥を」
栗毛色の長い髪を首の後ろ辺りで束ねたエプロンドレス姿の中年女性――ミランが、店の中央で腰に両手をあてつつ肩を怒らせて立ち、鬼の形相でロイドをにらめつけていた。
客たちの視線を一身に浴びながらも微塵すら臆することなく、彼女は大股でユイリスたちのもとへと歩み寄ってきた。
蛇ににらまれたねずみ、というのはこういう状況を言うのだろう。我が道を行くロイドが脂汗を垂らしながら凍りついていた。この場合、どちらが蛇でどちらがねずみかは言わずもがなである。
決して美人ではないが、歳をとっても愛くるしい面立ちのミラン。だが、怒るとかなり怖い有り様をこれ以上もなく見せつけながらユイリスのもとへやってきた彼女は、最後にロイドを一瞥すると表情を一転柔和に変え、ユイリスを見つめた。
「いいじゃない、ユイリスが申し出てくれているんだから。私も助かるわ。ねえ?」
悪戯っぽく片目をつむり、肩をポンと叩いてくれる。目まぐるしく変化する状況にわけがわからなくなりそうだったが、ミランの温かい配慮が気持ちを落ち着かせてくれた。
「は、はい! 頑張ります!」
少しでも恩返しができるならこれ以上のことはない。ユイリスは素直に表情を輝かせ、思いの丈を言葉に乗せるのだった。