3.
ユイリス=レンフィアの回復ぶりは皆一様驚くほどだった。3日3晩意識を失い、さらにあれほど衰弱していたのにもかかわらず、目を醒ました翌々日には普通に歩けるまでになっていたのだ。
飲まず食わずのままでいたためもあろうが、見かけによらない旺盛な食欲によって失った体力を養うことができたのも回復に寄与していたに違いないものの、彼女自身の生来持っていた生命力が大いに下地となっているのだろう。
とはいえ、しばらくの養生は絶対に必要と医者が言っていた手前もあり、レイルの両親はユイリスに対し、この地へのしばらくの逗留を申し出た。せっかく助けた手前、本当に大丈夫になるまで養生してもらわねば根本的に人のいい両親だけに納まりがつかなかったのだろう。
首に鎖でもつけかねない勢いで心配する彼らに対し、ユイリスも素直に頷きテルミト亭への逗留を受け入れるのだった。
テルミト亭とはフュンフル夫妻が切り盛りする食堂で、街道筋にあるサイレアに立ち寄る旅人たちを相手に商いを営んでいた。1階を食堂にし、2階をフュンフル一家が生活の場にしている形で、ユイリスは2階の一角にある客間にしばしの居候をすることとなったのである。
大人同士で取り交わしたことだったが、もちろんレイルも彼女の逗留は願ったり叶ったりのことだった。なぜだかよくわからないが、とにかく気になる存在のユイリスがしばらくとはいえ自分の家にいてくれるとなれば嬉しくないはずがない。
回復すればするほど面立ちから疲れの色が消え、萎れかかっていた美しい花が再び精気を取り戻し明るく咲きほこるようだった。衰弱の極みにあるにもかかわらず、真摯な面持ちで御礼の言葉を口にしてくれたあの夜のユイリスを忘れはしなかったが、今の、健康美溢れる彼女の笑顔はなにものにも変えがたいような気がしてならない。
助け出された時に来ていた旅人の服は洗濯されていたもののそれ以外に着る物がないため、ミランから借り受けたスカートの裾を揺らしながら隣を歩くユイリスの顔を横目でそっと見上げ彼女の整った面立ち瞳に映し出してみると、その思いは益々強くなるのだった。
「あら、私の顔になにかついてる?」
気分が良さそうに穏やかな表情をしたまま前を向いて歩いていた彼女の視線が、なんの前触れもなくこちらへ向けられた。
「あっ、べ、べつになにもついてないよ。ちょっと、見ただけだよ」
「そうなの? ……あ、もしかして私があんまりにも綺麗だから見とれちゃった?」
本当はまさにその通りなのだが、彼女自身は絶対にそのように思っていないに違いないのにもかかわらず、わざとらしい悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを覗きこんで来る。
「そんなこと、考えたこともないよ」
ちょっとした悪ふざけをしてきているのはわかっていたが、頬を膨らませてまったく関心がない様子を装う。すると、ユイリスはなにやら残念そうに口を尖らせていた。
見た目はそんなことをしそうにもないのだが、意外と子供じみた態度や振る舞いをするというユイリスの意外な面は、それはそれで面白かった。美人は得てして気位が高く気難しいと勝手に思い込んでいただけに、彼女のように自分の美しさを歯牙にもかけない存在は新鮮この上ない。
そう考えると悪ふざけをあっさり流されてしまい、残念そうにしている彼女の態度は至極笑え、照れ隠しに冷たくあしらった舌の根が乾かないうちにレイルはつい噴出してしまう。
「なにを笑っているの?」
「なんでもない。それよりほら、見えてきた」
納得いかない様子の彼女を余所に、低い下草の草原を踏み歩きながら先を目指す。目的地、ギョーム川だ。
青空と暖かい日差しのもと、今日こうして出張ってきているのは、ユイリスを見つけた時に彼女が手にしていたものの、持っていくことができずに置き去りにしたままだったトランクを取りに行くためだ。彼女を助け出した時以来、すっかり忘れ去ってしまっていたが、彼女が所在を尋ねてきたことで記憶が甦った。
ことの経緯を説明し、やもうえず放置してきたことを恐る恐る伝えると、ユイリスは嫌な顔一つせず、『私のことを助けるためだったんだもの。気にしないで』と言ってくれたのだ。
彼女の性格は段々わかってきたため叱責されることはないだろうとは思っていたが、こうも柔和な対応を取られてしまうと逆に心苦しくなるのもまた然り。よって、レイルの方からギョーム川の川縁に置いてきたトランクのもとへ案内すると買って出るのも自然な流れだった。
数日ぶりに訪れたギョーム川は、氾濫した際の荒れ模様からすっかり在りし日の姿に戻っていた。そのため拡大した川岸も元の位置へと収まり、過日ユイリスを助けた辺りも水の痕跡は少しもなかった。ただ、川の流れがあったと思われる、大地を削り取ったような痕は残っており、ユイリスを助け出した際の記憶を呼び起こさせた。
陽光の明かりに照り返すギョーム川の幻想的な美しさに見とれつつも、目的の物を探す。
もしかすると無くなってしまったのかも、と急に不安が首をもたげてきたが、危惧は霧散した。トランクはあの日同様の居住まいのまま、大地に鎮座していたのだから。
古ぼけたトランクのもとに歩み寄ると、ユイリスはスカートの裾を膝裏に綺麗に畳んでしゃがみ込んでいた。無言でトランクを見つめる彼女の視線は、先ほどまでの明るいものとは微妙に異なる。なにかを懐かしむような、それでいて悲しむような色を含んでいた。
「あのさ、ユイリス。その中身って、なにが入ってるんだい? えらく重くて、俺持ち上げることすらできなかったから、さ」
トランクの表面を撫でつけるように手のひらを置いたまま、思い出に浸るかのように身動ぎ一つしなくなったユイリスに、レイルは手持ち無沙汰も相まってそれとなく尋ねてみる。
するとユイリスは、ゆっくりとこちらを見上げ、困ったような微笑を浮かべ、伏目勝ちに視線を外した。それだけだった。そこには精一杯の気遣いと御礼の気持ちと、明確な『拒絶』が込められていた
思えば彼女の口からいまだその身の上は聞かされていなかった。ロイドとミランが彼女と話している時にこっそり聞き耳を立てたのだが、西方から来たこと、諸国の様々な文化や伝統を見るために旅をしていること、そして旅の最中の嵐に見舞われて鉄砲水に飲み込まれてしまった末にギョーム川の川岸へ打ち上げられてしまったことしかわからなかったし、彼女もそれ以上のことは話していなかった。
聞き耳をたてていたことはその後すぐに両親にもユイリスにも発覚してしまい、引っ込みがつかなくなったために思い切って彼女に身の上を尋ねてみたのだが、先ほどと同様の複雑な微笑でかわされてしまった。なにより、両親がそれ以上の追求を許さなかった。人それぞれ、聞かれたくないこと触れられたくないこともある、と窘められて。
6歳までおねしょをしていたことをお前も誰にも知られたくないだろうと、自らの汚点を例に挙げられたのには辟易したが、両親が言いたいこともよくわかったのでそれ以降はユイリスに過去を聞くようなことはしなかった。
しなかったのだが、つい口が滑って質問してしまった。鉄砲水に飲み込まれても決して離さなかったトランクである。いわくつきなのは間違いなく、彼女の過去がつまっていると言っても過言はないに違いない。そこまで意識することができずに口にしてしまったのは明らかに失言だった。
「ごめん。なんか俺、気が回らなくて」
ばつが悪くなり、素直に謝る。すると、ユイリスは静かに首を横に振った。
「気にしないで。なにも言わない私がいけないのだから。ごめんなさいね、命の恩人を前にしているのに」
「いや、そ、そんなことないよ。ほら、父さんたちも言ってただろ? 『人それぞれ、聞かれたくないこともある』ってさ。だからユイリスこそ謝ることなんてないんだ」
両手を振って慌てて彼女の言葉を遮る。一度彼女の花咲く微笑を見てしまうと、思いつめたような表情は見せられるでこちらが辛くなってしまう。言葉と身振りで彼女の気持ちを盛り立てると、ユイリスは顔を上げ、上目遣いに『あの微笑み』を浮かべていた。
「ありがとう、レイル。優しいのね」
昔を思い出したのか、ユイリスの瞳は心なしか薄っすらと涙に濡れているようだった。
それはもちろん気のせいかもしれなかったが、なんとも言えない眼差しで見つめられた上に感謝の言葉を投げかければ、大人の女性への応対などに慣れていないレイルがどぎまぎしてしまっても無理からぬことだった。
言葉を失い、顔を真っ赤にして口をぱくぱくさせてしまう。なんだかつい先日体験したような気がしたが、思い出している余裕などなく照れ隠しに視線を外すのが精一杯だった。
すると、しばし間を置いた後、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めるユイリス。
「……このトランクにはね、私の過去とともに、私が背負った『業』がつまっているの。一生忘れられない、忘れてはならない『業』が」
静かな語りだった。ユイリスが過ごしてきた過去は、きっと彼女の容姿とは正反対の、決して平坦ではない日々が続いてきたのだろう。短い言葉のなかに込められた深い思いがひしひしと伝わってくる。
語りながら視線をトランクへと移していたユイリスの背中は、どこか悲哀に満ちていた。つい先ほどまで笑顔を見せていたその表情も、灯が落ちたランプのように影が射している。
やはり、昔に思いを巡らせているのだ。いったいどんな苦難があったのかは想像だにできなかったが、決して裕福とはいえないとはいえサイレアで平穏な日々を送ってきた自分は遥かに恵まれているであろうことはよくわかった。
そう考えると、悲しそうにしているユイリスを見ていられず、なんとか元気づけてやりたい、などという殊勝な思いが首をもたげる。
とはいえ、この状況で、それも妙齢の女性に対して気の利いたことを口にできるほど人生経験を積んでいるかと言えばもちろんあるはずもなく。自分でも思ってもみなかったことを口走ってしまう。
「あ、あのさ、無学で悪いんだけど……『業』って、どういう意味?」
まったくもって空気を読むこともへったくれもない発言である。
こんなことを言いたかったわけではないのに、と己の未熟さを呪ってみるが後の祭りだ。
ユイリスは顔を上げてくれはしたものの、案の定目を丸くしたまま小首を傾げている。
「いや、あの、なんだか珍しい言葉で気になっちゃったりしてさ、その」
どうにか挽回してみようと試みるものの、口から出るのは意図不明な発言ばかり。脂汗が背中を伝うが、こんな変な汗をかくのは初めてだ。レイルは泥沼にはまりつつあった。
と、子犬がじゃれついているかのような笑い声が。ユイリスだ。
口元を手のひらで押さえ、次から次へとこぼれ出る笑い声を押しとどめようと背中を丸めている。
「ユ、ユイリス?」
動揺している有様について呆れ果てられた末のことか。なんだか逃げ出したくなる思いにかられつつ、彼女の名前を呼ぶ。
するとユイリスは、目尻に浮かんだ『笑い涙』を「ごめんなさい」と言いながら指先で拭っていた。
「そっか、そうだったのよね。ここ一帯の文化圏、ううん、宗教圏には『業』って言葉、ないものね。それなのに私ったらなに馬鹿なこと言ってるのかしら。見識がないのは私の方ね。自分の間抜けさについ笑っちゃったわ」
悪戯っぽく小さく舌を出すユイリス。普段通りの調子の彼女だ。経過はともかく、結果よければ全てよしということで、レイルは己の痴態を水に流すことにした。
「『業』、のことだったわね」
とりあえず彼女が元気を取り戻してくれたことにレイルが胸をなでおろしていると、彼女はトランクを置いたまま立ち上がり、雲一つない青空を見上げ、言った。
「人が生きていく上で積み重ねていく、善いこと、それから悪いこと。簡単に言うとそんなところかな。前者を善業、後者を悪業と言って、それぞれ必ず自分へと返ってくるものとされているのよ。善いことを積み重ねれば善いことが、悪いことを積み重ねれば、悪いことが」
一言一言ゆっくりと紡ぎ出すようにして語りつつ、彼女は思い出したなにかを確かめるかのように腹の前で指を組み合わせている。背に流した亜麻色の髪が、彼女の言葉と調和するかのように静かに揺れていた。
「そんな業が、このなかにつまっているわ。それが善業なのか悪業なのか、私には決められない。それがいずれかに属するのか。このトランクと、それから……この青い空の向こうにいる人々が決めてくれるわ」
言って、ユイリスは首を巡らし、西方彼方の空へ瞳を向けた。そちらの方角の遥か遠くにはサイレアが属しているファルアリア王国の国境であるウェゼルレーン山脈が行く手を阻むかのようにそびえ立っている。彼女が言わんとしているのはもしかしたら天上の国のことかもしれなかったが、実際に存在しているあの山脈の向こうを指し示しているのであれば、そこにあるのは確か――
「レイル」
ユイリスに倣ってウェゼルレーン山脈の方を眺めつつ、その向こうにある国の名前を脳裏に浮かべようとしていると、急に名前を呼ばれたために思考を中断させる。彼女の方を見上げると、空色の瞳がこちらを見つめていた。
時に天真爛漫な少女の微笑みを浮かべたかと思えば、今のように清楚な気品を漂わせる大人の女性そのものの真剣な表情を向けてくる。幼子と大人の心を併せ持ったようなこの不思議な女性に見つめられるとなにも考えられなくなりそうになるが、そこをどうにか踏み止まる。
「貴方、『騎士』になりたいのよね」
彼女の瞳を見返すと、思ってもみなかった言葉が投げかけられてきた。
「どうしてそれを」
「ご両親から聞いたの、話の流れでね。でも、ご両親はテルミト亭を継いで欲しいと思っている。それを聞いて、なぜ私より身体の小さな貴方がここから私をテルミト亭運ぶことができたのか納得したわ。きっと隠れて鍛練を行っている――騎士になるために、って」
息を呑んだ。騎士願望のことについて、ではない。身体を鍛えていることを見抜かれていたことについてだ。頑として騎士への道を否定している両親に知られないよう、慎重に慎重を重ねて続けていた鍛錬のことをあっさり見抜かれてしまったのだから、驚かない方が無理というものだ。
すると、大丈夫、と言って彼女は軽く頭を振った。
「ご両親にそのことは伝えてないわ。私はあくまで部外者だから、貴方たち親子の問題に介入する権利なんてないもの」
驚愕がそのまま表情に出てしまっていたのだろう。己が抱いた危惧を、そこからものの見事に見透かされてしまったことについてさらに目を丸くする。
同時に、彼女が気づいたということは、両親も同様の結論にたどりつきやしないかという不安が首をもたげ、表情を強張らせていると――
「多分、ご両親は気づいていないと思うわ。私という突然の来訪者のことで頭が一杯みたい。だから、貴方が私を運べたこと、気づく間もなく忘れてしまっているようだから」
またしても、である。もしかすると彼女は本当に人の心を読める力があって、なにからなにまで全てお見通しなのかもしれないと本気で思いたくなった。
「狐につままれた顔してるわね。でも、別に不思議なことじゃないわよ。培った観察眼と経験則の賜物、って奴ね。もっともっとレイルも様々な体験をしていけば、自然とわかるようになるわ」
「そ、そうなのか。でも、なんだかそういうの面倒くさそうだな。俺は別にそこまでわからなくてもいいや」
相手の思考や感情の微妙な起伏がわかれば会話する上で便利かもしれないが、どうも自分には馴染みそうもない。だいたいがほんの少しユイリスに見透かされただけで混乱してしまう自分には100年経っても観察眼やら経験則なるものを培えそうもなく、自嘲の苦笑いを浮かべてしまう。
それにしても、どうしてユイリスはいきなり騎士の話を持ち出してきたのだろうか。はたと根本的なことに気づく。
「ところでさ、なんでいきなり騎士になりたいのよねって確認したんだよ。もしかして、俺が騎士を目指すことに反対なのか?」
「あら、それなら貴方の鍛錬のことを含めて、あることないことをとうにご両親へ話しているわ。辛辣な注釈もたっぷり添えてね。それで済むことでしょう?」
小首を傾げて肩を竦めたユイリスの言う通りだ。どうやら彼女は別にこちらの意思を挫こうとしているわけではなさそうだった。
ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、レイルは彼女の口から次に発せられた言葉に耳を疑った。
「貴方に伝えたいことがあったから、だから確認したの。貴方の口から、騎士の道への思いが確かなのかどうかを」
騎士の道への思い――つまり、なぜ騎士を目指すのか、ということに他ならない。
騎士を目指す彼にとって、そのことは最も大切なことでありながら、実は最も触れられたくないことでもあった。彼は『ある重大な思い』を胸中に隠し持っていたのだから。
だからこそ、具体的に『騎士への道』などという言葉が出てしまえば、敏感に反応せざるを得ない。裏のない、澄んだ空色の双眸が真っ直ぐ見つめてきているのだから、なおのことである。
ユイリスはあくまで『レイルの思いを確認した事実をさらに反芻しただけ』だ。
だが、過敏に反応してしまったレイルは、理性では彼女の言葉の意味を理解しつつも感情が先走ってしまっていた。
すなわち、自分の奥底にある思いを包み隠すために、わざわざ自ら騎士への思い――その場しのぎでしかない思いを口にしてしまったのだから。
「よ、4年前ぐらいだったかな。サイレアに立ち寄った元騎士のおっさんがいてさ、色々話を聞かせてもらったんだ。そのおっさんの活躍ぶりがなんてか、こう俺の心を揺さぶったっていうかなんていうか――」
元騎士の活躍ぶりを表すかのように身振り手振りを交え、さらに拳を握り締めて思いを込めている様を表現してみせつつ、身体を動かすために外していた視線をちらと戻してみる。
ユイリスの目は、彼の話に笑うでもなく、嗜めるでもなく、ましてや怒るでもなく、ただただ静かに見開かれているばかり。こういう時はなんの反応もないことが最もやりづらい。
「と、とにかく、俺は騎士の格好よさに魅せられたってわけなんだ」
だから俺は騎士を目指した――と、言葉を続けようとしたが、薄蒼い眼差しに咎人の罪科を確認するために神が使うという『正義の天秤』の存在を思い出して重ねてしまったレイルは、それ以上唇を動かすことができなかった。
ただ、先ほどのように胸の内を見透かされていやしないかと心配になり、空色の双眸から逃れるように瞳を閉じて胸前で腕を組んで胸を張った。
男はこうでなくっちゃ――と、手前勝手な思いを込めたつもりの体勢であり、もちろん単なる虚勢である。これ以上詮索されないための現実からの逃避そのものだった。
「ありがとう、話してくれて」
どういう反応をされるか、あたかも審判を待つ罪人のような気持ちに心を支配されそうになっていると、凛とした声が鼓膜に響いた。ゆっくりと目を開くと、後ろ腰で指を組み合わせたまま下を向き、ギョーム川の氾濫により運ばれたまま取り残されそこら中に散ばっている小石をつま先でもてあそんでいるユイリスの姿が網膜に飛び込んできた。
その姿はまったく警戒感を感じさせず、それは彼女に対して垂れたいい加減な能書きに対しての彼女の姿勢を表しているようだった。
子供のように小石と戯れる様を黙って見ていると、ユイリスはそのままの体勢で再び語り出す。
「思いはね、人それぞれ。きっかけもまた、人それぞれ。そこに序列なんてない。レイルの話してくれたことも1つの真理に違いないわ」
少し強めに蹴られた小石は、転々と転がっていく。その行き先に視線を送りつつ、ユイリスは流れるように瞳をこちらに向けてきた。
「だから、これから話すことはあくまで貴方よりも長く生きて、様々な体験をしてきた先人からの戒め……1つの指針よ。聞き流すか受け止めるかも貴方の自由。でも、耳に入れるだけは入れてね」
既に彼女を謀っている負い目があるため、彼女の言にレイルは素直に頷いた。
その反応に満足したのか、ユイリスはありがとう、と言って微笑み、先に見上げた青い空を、思いを馳せるかのように目を細めて見上げていた。
「私は何人もの騎士たちを見てきたわ。主君に忠実な騎士、武勇に優れた騎士、庶民に優しい騎士、私欲に目がくらんだ騎士、殺戮の狂気に染まった騎士……挙げればキリがないほどのね。ただ、彼らに見え、彼らと触れあい、私が体験してきた上で総じて言えることは、騎士は『業』深き存在だということ。善い業を修める機会ももちろんあるけれど、正反対の業を修めてしまう機会の方がずっと多いの」
と、そこで言葉を止めるユイリス。彼女は再びレイルへと向き直り、その眼差しを向けていた。右手を伸ばし、彼の頬を柔らかい手のひらで包み込むようにしながら。
「騎士になってみなければわからないことが多すぎるから、そう言われてもにわかには理解できないかもしれないけれど……貴方が貴方の望む理想の騎士を目指すのなら、貴方へ伝えた言葉を、どうか忘れないで」
温かい手のひらは、彼女の優しさを体現しているようだった。決して上辺だけなどではない、心からの思いを投げかけてくれている様がよくわかる。
にもかかわらず、自分はどうか。慮ってくれる彼女の心を真っ直ぐ見つめ返すことができるのか。レイルは複雑な思いにかられながら、それでもなにも言えずに黙って小さく頷き、後はユイリスの手のひらの温かさに甘えていることしかできなかった。
それを知ってか知らずか、ユイリスはあくまで自分の調子を崩さず、彼の頬から手を引いたかと思うと両手を腰に当て、あからさまにお姉さんぶって嗜めるかのように言った。
「さて、そろそろ戻りましょうか。お父様に『どこで油売ってたんだ』って怒られてしまうわよ。貴方、まだお使いの途中だったでしょう?」
いつもの、子供っぽい無邪気なユイリスだ。彼女の明るい立ち居振る舞いは強張った心の氷を溶かしてくれるようで、まさしく救われる思いがした。だからこそ、レイルも「いけね、忘れてた」と調子を合わせる。
半分は本当に焦ったため、まずいという有り様を表情に出すと、ユイリスはそれがおかしかったのか小さく喉を鳴らして微笑んでいた。やはり、彼女にはこういう笑顔でいつもいて欲しい――それだけは間違いのないことだと思うのだった。
そんなことを思いながら、腰を屈めてトランクに手をかけ、取っ手をつかんで持ち上げる彼女の様子を見ていたレイルは、肝心なことを思い出して驚いた。
彼が持ち上げようとしてもびくともしなかったトランクを、片手でひょいと空の木桶を持ち上げるかのようにして手にぶら下げたのだ。
だいたいがこの細腕で常に持ち歩いていたということすら驚異だというのに、まざまざとその事実を目の前で見せつけられれば開いた口も塞がらなくなるというものだった。いったい全体、どこにそのような力があるというのか。
ただ、助け出した彼女が目を醒ました時、錯乱している彼女を押しとどめようとしてえらい力で押し返されたことを思い返すと、あながち不可能ではない気がしてくる。
してくるものの、よくよく考えればトランクの重さは『持ち上げられるかられないか』という範疇を思い切り逸脱していた。にもかかわらず、現実に彼女は苦もなくあのトランクを持ち上げ、あまつさえ鼻歌を奏でながらサイレアへ向かって軽やかに歩き出しているではないか。
いったいどうなっているのか。二律背反する命題にレイルは難しい顔をして悩み込んでしまう。
「あら、どうしたの?」
首を捻って立ち尽くしていると、ついてこないことに気づいたユイリスは立ち止まって振り返り、訝しげな眼差しを向けてきた。ただ、トランクに注がれていたレイルの視線から、すぐにその眼差しが意図するところに気づいたようで、彼女はなんとも言えない苦笑いを浮かべるのだった。
「ああ、これ? 基本的に私しか持てないから。力のあるなしの問題じゃないの。なんならもう一度試してみる?」
胸のあたりまで軽々とトランクを持ち上げ、どこか誇らしげに見せつけているユイリス。
いったいどんな理由があって力のあるなしの問題ではないのかさっぱりわからなかったが、理屈抜きで楽にあのトランクを持ち上げている彼女の素振りを見ると、なんだかとても悔しくなり、レイルはぷいと横を向いた。
「い、いいよ別に。どうせ俺には持ち上げられないんだから」
「それは残念。なら、早く行きましょ。ほら拗ねてないで」
ささやかな抵抗を試みていると、小馬鹿にしたしっぺ返しが。このまま黙っていられるかとばかりに勇んで反論しようと彼女の方を向くが、当の本人は我関せずとばかりにすたすた歩いてしまっていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ!」
慌てて彼女の背中を追いかける。ところが、彼女は背後を一顧だにせず、そのまま歩を進めていた。
ようやく追いつくと、彼女の肩が震えているのに気づいた。
「ユ、ユイリス?」
どこか具合でも悪いのか、それとも疲れがぶり返したのか、急に心配になり問いかける。すると彼女は足を止め、にわかに振り返った。その顔には一面の笑顔。なんのことはない、彼女は笑いを堪えていたのだ。
「か、からかったな!」
「だって、慌てる様が可愛かったんだもの」
レイルも立ち止まって抗議の声を上げるが、まったく効果なし。悪びれもせずに小さく舌を出し、10代半ばの少女のように顔をほころばせている有り様を見せつけられると、毒気を抜かれたように憤りも静まってしまう。
一方でユイリスは、こちらが毒気を抜かれているのを他所に踵を返すと、鼻歌混じりに再び歩き出していた。あくまで自分の調子を崩さない姿勢にある意味天晴れな思いが湧きあがるなか、それでもレイルは悪くない思いを抱きながら不思議な来訪者の背中を追いかけた。
どうして彼女は騎士について造詣が深いのか――湧き上がった疑問を尋ねたくなったものの、調子を取り戻したユイリスの笑顔を消さないためにも、今はそっと胸にしまいこんで。