13.〜the last paragraph 2nd〜
ユイリスならばこの状況もなんとかしてくれるかもしれない――。
レイルが感じていた直感のようなものは、まだ半ばほどではあるが実現していた。
抜剣した彼女は、4人もの手練の男たちを瞬く間のうちに大地に沈めたのである。
その剣術は見ていて背筋が凍りつくほど恐ろしく洗練されたものだった。
まだ見習い剣士程度のレイルでも分かる。
神業のような体捌きと、圧倒的な神速に加え想像を絶する破壊力を伴った攻撃はもはや人間技ではなく、絶対的に数的不利な状態であっても微塵も揺らぐことはなかった。
さらに彼女は、極力敵に同時に攻撃させず、万が一同時に襲われても対処できるよう常に敵全体に気を配って戦闘を組み立てていた。一対多数で戦う際のお手本のような戦いを行っていたのである。
とどめは彼女のあの長剣だ。信じられないほどの切れ味を見せつけているだけでも驚きなのだが、あれだけ酷使した使い方をしているにもかかわらず、いまだ歯こぼれ1つ起こした様子がないのはもはや常軌を逸しているとしか言えない
これが本当のユイリスの力。その片鱗を既に垣間見ていたとはいえ、レイルはその凄まじさに驚嘆を禁じえなかった。
全力を出し尽くしているわけではないだろう。彼女の真の実力はもっと遥か高みで発揮されるに違いない。
ただ、それでも彼女自身真剣を打ち振るう実戦を行っているのだ。その力を存分に活かしていることもまた、間違いのないことだった。
あまりにも鮮烈で衝撃的なユイリスの力に、レイルは引き込まれるように見入っていた。
だからこそ、彼女の攻撃から逃げ出した丸刈りの男がこちらに向かってきた際、反応が遅れてしまったのもいた仕方のないことだった。
男は逃げ出してはいるが、敵には違いない。回避しようにも対応が遅れてしまったため間に合わず、武器もない。そもそも、暴行を受けた傷のせいで体を自由に動かせないのだ。
レイルの背筋に戦慄が走った。
その時、前に出る黒い影。
ウルゼックだった。
黒いマントを翻し、腰から鞘ごと剣を抜き放った彼は、混乱状態に陥り盲目的にこちらへ一直線に向かってきた丸刈りを一撃で叩き伏せた。
肩口に重い打撃を受けて膝を着いた男は、鼻と口から血を流しながら苦悶に呻いた。
「あいつは、あの紋章は、まさか、まさか」
激痛によるものだけでなく、明らかに恐怖にからくる要因で体を小刻みに震わせている丸刈り。
ウルゼックは彼の鼻先に鞘先を突きつけ、詰問した。
「貴様、知っているのか」
「お、俺はフレアミス戦争で帝国兵士として戦っていたんだ。わ、忘れもしねえよ、あの、あの紋章」
「そうか、貴様らにしてみれば『恐怖と死の紋章』だものな。見間違いじゃないぞ。彼女が着けるあの紋章――いや、『隊章』は、かつてフレアミス戦争で多大な功績を残した、エウロニア史上最強の剣士集団『ハーキュリー隊』のものだよ」
丸刈りから目を離し、彼はいまだ剣を打ち振るっている乙女に目を向けた。
「そして、彼のハーキュリー隊隊長にして、フレアミス戦争を終結に導いた『フレアミスの聖女』と謳われる人物は、同時に前剣聖『イスカム=スカラー』から剣聖号とその称号の印である『調和の法環』を受け継いだ現剣聖だ。彼女が振るう長剣『聖剣エル』には、金十字の紋章を抱いた鍔が設えてある」
ウルゼックが言わんとしていることに気づいたならず者は、目と口を丸く開いて驚愕の有様を表現すると、肩口を打たれた激痛など吹き飛ばしてしまったかの勢いで情けない悲鳴を上げながら再び逃げだそうとした。
「待て、丸刈り。貴様の相手はこの俺だ」
目にも留まらぬ早業で抜剣したウルゼックは、丸刈りの鼻先に長剣の切先を突きつけていた。これに丸刈りはどうすることもできず、あらゆる戦意を失ったようで腰を抜かしてへたり込んでしまっていた。
「いい態度だ。フレアミスの聖女だけでなく、この俺まで敵に回してしまっては命が幾つあっても足りんからな」
大業なことを言って、満足そうに頷いているウルゼック。そこらの人間が口にするのであれば法螺か虚勢にしかならないが、彼が言うとこれ以上ない事実にしか思えない。
彼の見た目は見かけ倒しなどではなく、雷光のような抜剣の鋭さや、隙のない構えを見れば、凄まじい手錬だということはレイルでもわかる。
ウルゼックの力に感嘆するが、それ以上に驚くべきは華麗に長剣を打ち振るっている師匠のことだ。
今ウルゼックが語ったことに触発され、以前のリュルゾ亭で彼が語ったことも思い出し、頭の中が混乱しそうになる。
ただ1つ言えることは、『歴史上の人物』を目の前にしているということだ。
生涯忘れることのできないであろう光景を片時も逃さぬべく、レイルは目を見開き歴史的な戦いを見守るのだった。
残るならず者は5人。
高慢な悪党どもでもさすがに彼我の力の差を認めざるを得なくなったのか、各個に攻撃することは止めたようだった。ユイリスを囲むように散らばると、その輪を少しずつ狭めようと動き出した。
小賢しい知恵を働かせようとしたのだろうが、まさに浅薄。
最大で50人を超える敵と1人で対峙したこともある彼女にとって、この程度の包囲はざるにすらならない。
己がいかに矮小な存在であるか。そのことを体で教え込ませるべく、彼女は行動を開始した。
多数の敵を圧倒するには、まず先制するのが第一である。守勢に回れば数的有利を武器に押し込まれてしまう。
第二には、いかに早い段階で敵集団の指揮官を倒すかだ。多数の敵というのは統率され組織的な攻撃力を展開できてこそ最大の威力を発揮する。逆に言えば、集団を統制する指揮官を失えば、下手をするといかに数的戦力があっても単なる烏合の衆に成り果てかねない弱点を孕んでいた。これを回避するため、優れた集団は指揮官が倒れても次席の指揮官が予め決められ、どんな状況にも対応できるようになっている。
とはいえ、今回の場合は数的優位という一点だけしか彼らには有利な面はなく、元から烏合の衆であるため、指揮官云々は考えずともよい。
だとすれば、ただ1つ。機先を制するだけのことである。
先に切先で威嚇してやった顎鬚に狙いを定め、神速を飛ばした。自身に向かってきた彼女の姿を見、顎鬚は慌てて剣を繰り出してくるが無駄な抵抗だった。
1対1で彼女に勝てる可能性を持った人間は2人いたが、1人は彼女が3年前に命がけで辛くも打ち倒し、もう1人は彼女の恩師で病没した前剣聖イスカムである。つまり、この地上で現在、1対1で彼女に勝てる人間は存在していない。
怯えながらも打ち下ろしてきた顎鬚の長剣の軌跡を易々と見切り、最小限の回避だけでかわす。
彼の間合いを制したユイリスは、下方からエルを斬り上げた。
それは顎鬚の長剣を下段から凪ぎ、エルの刃はその剣身を切断。折られたのではなく『切り裂かれた』顎鬚の長剣の刀身は、回転しながら明後日の方向へと飛んでいく。
信じられない光景に、恐怖を顔一面に貼りつける顎鬚。
だが、ユイリスの攻撃はそれで終わったわけではなかった。
殺傷を目的とせずにエルを打ち振るうには間合いが接近しすぎている。ユイリスはエルを使えない代わりに、近間の間合いを逆利用した。斬り込むことで体に乗った速力を、そのまま突き出した膝に乗せ、腹部へと叩き込んだのである。
たまらず嘔吐し、腹を押さえて前のめりになる彼を、ユイリスはまだ容赦しなかった。がら空きの後頭部へエルの柄頭を叩きつけたのである。こうなるともはや立っていることなどできず、顎鬚は夢の世界へと旅立つ他なかった。
「矢だ! 矢を射れ!」
突然泡食った絶叫が上がる。声からしてグェインなのだろうが、今注意せねばならないのは今の声を受けた相手の方だ。
ならず者の中には弓矢を持った男がいる。彼らの姿を見た時から常に注意を払っており、何度か狙撃されそうにはなったが、彼女の神速が実射はおろか射撃する機会すらつかませなかったのである。
浅薄ながらも攻撃の機会を窺っていたのだろう。何度目かにしてようやく一瞬だけつかんだ機会――誰かを攻撃している最中という、他に対応し辛い状態――を、グェインは形振りかまわず利用したに違いなかった。
実際、グィエンの声を受けて矢は発射された。そこらのごろつきにしては腕がよく、狙い違わず一直線にユイリスに迫る。
接近戦で勝ち目のない相手に対して弓矢を使う考え方は、1つのやり方としては間違っていない。
ただ、グェインは1つ大きな要素を加えていなかった。
狙った相手がいったい誰なのか、ということを。
即座に反応したユイリスは、自身の頭目がけて飛来した矢に対してエルを一閃。この近距離から発射されたそれをなんと叩き落とした。
泡食った弓矢の男は、怯えながら矢筒から矢を取り出し、闇雲に2発、3発と射撃する。
これに対し、ユイリスは大してエルを構えもせず、ほとんど腕の振りだけで2発目も3発目も労せず迎撃していく。しかも、弓矢の男の方へとゆっくり歩み寄りながら。
4発目を男が矢をつがえようとした時には、もはや弓矢の間合いではなかった。
「もう終わり?」
感情のまったくこもっていないユイリスの声は、弓矢の男に心底からの恐怖を生み出したのだろう。彼は体を竦ませ、矢をつがえようとしたまま固まってしまっていた。
その彼の目先にエルを突きつける。よほど恐ろしかったのだろう。それだけで、男は黒目を反転させ、さらに失禁して腰を抜かした。
「覚えておくといいわ。私が最低10人以上の敵と同時に戦っている中、気配を殺し近距離の物陰からよほどの匠が作り上げた初速の高い弓で私を狙える――そんな状況でもない限り、私に弓矢は通用しないということを」
意識を失っているためもはや彼の耳には届いていないが、ユイリスは手向けの言葉のように残すと、既に3名まで減少した徒党の残存を見やる。
完成しても包囲網どころかざる以下にしか過ぎず、しかもとうに失敗した彼らの戦術は最後の足掻きを迎えようとしていた。
お飾りにすぎないグェインを除いた2人――鼠顔の男と大きく肥えた男の2人は、示し合わせた初めての有機的な連携を見せようとしているようで、目配せをして頷きあっている。
何を企んでいるかはわからないが、彼らが通ってきた道よりも遥かに険しい茨の道を潜り抜けてきた自負が不安を感じさせない。
警戒しつつ、今度は彼らの出方を待った。
動いたのは鼠顔だった。小さな体躯を活かし、狙いを定めさせない目的か俊敏に移動しながら徐々に接近してくる。
最中、鼠顔は何か光る物を放った。
それは一直線にユイリスへと向かってきた。
彼女は反射的にエルで凪ぎ払う。
しかし、そこで彼女はその行動が今回初めての適切ではない対応であることに気づいた。
時既に遅し。
エルの刃が凪いだのは、投げナイフとその柄に括りつけられた小さな袋。袋は凪がれた衝撃で破れ、中から白い粉が開放されたのである。
投擲されたナイフの勢いがついていたのだ。白い粉はそのまま大きく広がるように展開してユイリスに襲いかかった。
相手は粉である。エルでは防ぎきれない。
ユイリスは咄嗟に両腕を掲げつつ、視界を奪われるのを防ぐために目を閉じた。
なるほど、彼らの目的はこちらの視力を奪い、もって立場の逆転を狙ったのだろう。
卑怯ではあるが、命を奪い合う実戦で使う手としては上策ではある。
しかし、やはり浅薄だった。
本能的に反応して策にはまったとはいえ、彼女はもっと汚い手を何十回と仕掛けられてきた人物である。これで終わるわけがなかった。
なんと、ユイリスは目を閉じたまま反転し、初めて両の手でエルを構えると反転で生まれた力を利用し、エルを横凪ぎに振り切ったのである。
激しい衝撃を両の手に受けながらもエルを決して離さない。
乾いた2つの音が背後からしたのを背に受けながら、彼女はまるで全てが見えているかのように駆け出した。
もちろん、目蓋を下ろした彼女の視力はいまだ皆無だ。
だが、彼女には見えていた。正確に言えば、彼女は感じていたのである。その場にいる全ての者の『気配』を。
視界を潰されて戦闘を継続できなくなるのは普通に考えれば当たり前のことだ。
しかし、彼女は全ての剣士の頂点に立つ『剣聖』なのである。
視界を失っても相手の気配を察知し戦闘を組み立てることなど造作もない。それは、剣の道を究めた者だけが到達できる『心眼』の境地だった。
心の中で警鐘が鳴る。危険な気配が3つ、同時に飛来していた。
即座に反応し、ユイリスは鞭を振るうかのように腕をしならせてエルを操る。
甲高い音がほとんど同時に3つしたかと思うと、危険な気配は消え去った。
であれば、狙うは駆け出した先にある、小刻みに走り逃げようとしている小さな気配。
ユイリスの神速から、逃れられるわけがなかった。
手を伸ばし、掴みかかる。確かな感触を得ると、彼女は掴んだ物を思い切り横に引き倒した。
『鼠を潰したような』悲鳴がするのと同時に、大地を転がり回る物の音が耳に響いた。
そこで初めて、彼女は目蓋を開いた。
鼠顔が放った白い粉は彼女の双眸を害してはいなかったのである。咄嗟にかざした両腕と、すぐに目蓋を閉じた行動が彼女の空色の瞳を守ったのである。
ただ、あの手の粉末は一時的に空中に滞留するため、効果が及ぶ範囲外へ到達するまで彼女はあえて目を閉じて戦っていたのだった。それは、彼女が様々な体験を重ねることで培った経験の賜物である。
『心眼』により大体のことは把握しているが、視界が戻った今、あらためて確認してみると感じた通りの現実がそこにはあった。
白い粉を受けてから最初に対処したのは、後ろから巨大な何かが迫ったからだ。
それは両手で抱えなければ持ち上げられないほどの石だった。
鼠顔が彼女の目を潰し、そこに大きく肥えた男が道端から拾ってきた石を投げつけるという連携だったのだろう。
並みの人間であればそこで終わりだろうが、ユイリスはその策を見事に噛み破った。
襲いかかってきた石を、反転した余勢を最大限活用してエルにて両断。粉砕ではなく綺麗に切断された石は、1つから2つの塊となった。
直後に響いた乾いた音と、離れて転がっている2つの石がいい証拠である。
次に訪れた危険は、3つの気配。それは泡食った鼠顔が苦し紛れに放った投げナイフである。いずれも迎撃されて大地に転がっていた。
最後に捉えた気配は、鼠顔そのもの。逃げる彼の襟首を掴み、投げ飛ばしたのである。
結果、彼女の恐ろしいほどの力に投げられた彼は派手に大地を転がり、今は静かになっていた。
彼らの最後のあがきはこれで完全に失敗した。
今や残るのは大きく肥えた男とグェインのみ。他のならず者は全てが沈黙するかあるいは戦意を喪失している。
テルミト亭前の小広場にはあたかも戦場の跡のような光景が広がっていた。
「さて。グェイン以外で残ったのはそこの彼だけど、どうする、まだ続ける? 私は別にかまわないけど」
上体にかかっていた白い粉を軽く叩き落としながら、ユイリスは大きく肥えた男を見やる。
まさかこのような結果になるとは思っていなかったのだろう。予備の石を抱えていた彼は、そのまま呆然と棒立ちになっていた。
が、声をかけられたことに気づいた彼は、慌てて石を放り投げ、さらに腰から下げた長剣や懐に隠し持ったナイフまでも次々と投げ捨てひざまずくと、両手を挙げて降伏の意を露にしつつ激しく首を横に振っていた。
であれば、残るはただ1人。
ユイリスは彼の方へと向き直ると、ゆっくりと歩き出す。
「や、やめろ。く、来るな」
万全と思われた策を見事に粉砕され、仲間を全て撃破されたグェイン。彼は今にも泣き出しそうな顔をしながら後退ろうとしていた。
だが、恐怖が体の自由を奪っているのだろう。実質的にはほとんど後退ってはおらず、挙句、脚をもつれさせて尻餅をついてしまう。
その彼に対し激しい怒りを浮かべるわけでも、かといって嘲笑を投げかけるわけでもなく、ただただ冷め切った表情のまま近づいていくユイリス。
何本もの剣を切断し、果ては石までも両断したにもかかわらず、刃こぼれ1つない抜き身の聖剣エルを無造作にぶら下げながら無表情で歩み寄っていくのである。彼の心情を考えると、今すぐにも現実から逃避したいことだろう。
残念ながら逃げ出すことはできない。彼は彼が起こした罪に対する罰を負わねばならないのだから。
もはや恐ろしさで何も言葉を発することができなくなったのか、口元を戦慄かせているだけのグェインの傍までやってきたユイリスは、彼を見下ろした。
「お仲間はもういない。後は貴方と私だけ。1対1で決闘するのもよし、でなければ――2つに1つ。ただし、私に向かってくるのならば全ての禍根を断つためにももう手加減はしない。命を捨てる覚悟で剣を握ることね」
押し殺した声でそう告げると、言葉を発することのできない彼は陸に打ち上げられた魚のように口を何度も開閉していたが、無意識的に握り締めていた長剣をやがて慌てて放り捨て、逆らう意思はない旨を表明していた。
決闘ではない選択をした彼ではあるが、そこでユイリスの追及が終わるかと言えばそれはまた別の話である。
必死に無抵抗な様を表しているグェインの素振りを無視するかのように、ユイリスは身を屈めると、彼の胸倉を掴んでそのまま激しく押し倒した。
男のくせに情けない悲鳴を上げた彼の哀願など無視し、彼女は逆手に持ち替えたエルを翻すとそのまま首筋に向かって鋭い突きを放った。
一瞬、誰もが彼のことを刺し殺したと思ったことだろう。
聖剣エルはグェインの喉元を刺し貫いて―――いなかった。
首筋をかすめたエルは、彼の襟元を貫通し、服を大地に縫いつけただけだった。
だが、その刃はわずかに彼の首の皮一枚を切り裂き、血が滴り出している。
長剣の衝撃と首筋の痛みに、グェインはこれまでで最も顔を引きつらせ、心底から恐怖を感じている有様を露呈していた。
ユイリスは彼に対し、ありったけの声を振り絞り、サイレアに来てから口にしたことのない激しい口調で言い放つ。
「いいかグェイン! これは最後の警告だ! 今度レイルやレイルの縁者の前に姿を現し彼らを害したら、生きたまま少しずつ肉片に解体し、魚の餌にしてやる!」
半分は脅しではあるが、もう半分は本気で怒り狂っていたからこそ出た言葉だった。彼がこの警告をも反故にするようなことがあれば、次は本当に容赦するつもりはない。
その彼女の凄まじい気迫と殺気を全身で感じたからか、グェインは焦点が定まらなくなった双眸を宙に向けたまま全身を小刻みに震わせている。いつの間にか彼の股間には濡れた染みができ、やがて地面にもその染みを広げていた。
後にも先にも、彼がこれほどの恐ろしさを感じることはないだろう。だからこそ、彼の心には一生焼けつくに違いない。今日という日に受けた、本当の恐怖を。
生涯ユイリスの影に怯え続けなければならないのはある意味哀れではあるが、それは身から出た錆、自ら積み上げた悪業の為せることである。自分で自分の首を絞めた愚か者に同情する言われはない。
「人生をまっとうしたいのならば、己の身の程を知って慎ましく生きていくことね」
立ち上がったユイリスはエルを引き抜くと、一転静かな口調に戻り、最後にそう残した。
これで全てが終わった。
激しい戦いを潜り抜けたにもかかわらず輝きを一切落としていない聖剣エルを白き鞘の内へと納め、踵を返した。
ほんの少しの静寂の後、それまで息を凝らしてことの趨勢を見守っていた群衆からの大きな喝采と、鳴り響く拍手が巻き起こる。
大歓声の中、ユイリスは悠然と歩を進めた。
守り通した、彼女の大切な人々のもとに。
ユイリスの筆舌し難いほどの壮絶な戦いぶりを見守っている最中、レイルは自分がいつの間にかに拳を強く握り締めていたことに気づいた。
それでも不安や焦りはまるでなかった。
それはそうだ。彼の師匠はエウロニア最強の剣士たる称号を持つ人物だったのだから。
その肩書きを体現するかのように、圧倒的な力でグェインらを徹底的にねじ伏せたユイリス。首謀者たるグェインはさすがに少し可哀相になるほど彼女に精神的に痛めつけられていたが、そうなったのは自ら種を蒔いたからである。
散々卑怯な手を使われたものの、気持ち的にやるせない思いは既にない。鬱屈した思いは、もう十分にユイリスが晴らしてくれたのだから。
にわかに歓声が上がった。
骨の髄までグェインを懲らしめたユイリスが立ち上がり、踵を返してこちらへ戻ってきたからである。
ロイドやミランはもちろん、ミスリィ、果ては遠巻きに息を呑んでことの次第を見守っていた群衆からも上がった大歓声は、テルミト亭前の小広場全体に広がっていた。
「ただいま」
屈強な男も恐れる冷徹な顔は奥底に引き込み、いつもの温和な面立ちが戻った彼女は、少し茶目っ気を効かせたのかレイルに向かってそう言って微笑みかけた。
颯爽と戻って来た師匠に目を奪われていたレイルは、よもやまっさきに自分へ声がかけられるとは思わなかったために泡食った。
「お、おかえりなさい」
ぎこちない返しをするのが精一杯。
「怪我の具合は?」
「だ、大丈夫だ、です」
慌ててしまったのもあるが、ぎこちなさは立て続けに妙に丁寧な言葉遣いを呼び起こしてしまう。一番の理由は、やはり今目の前にしている相手が伝説的な人物であるからに他ならなかった。
すると、彼の師匠はほんの少しの間だが、悲しく、寂しそうな顔を覗かせたのだ。
なぜ、と思ったのもつかの間、すぐに何事もなかったかのように、彼女はいつもの咲き誇った花々のような笑顔を見せていた。
「よかった。でもちゃんと手当てしなければ駄目よ、ロイドさんと一緒に。ミランさんと、それからミスリィさん? お2人は大丈夫ですか?」
しゃがみこんで父親を介抱していた母親と、頬を張られた以外は何もされていないために自力で立っていられたミスリィにも気を配り、声をかけるユイリス。彼女の言葉に、ミランはにこやかに頷き、一方のミスリィは自分は大丈夫だが父親のフェンソが心配である旨を明かしていた。
「わかったわ、誰か人をやりましょう。その前にまずロイドさんとレイルを運ばせてね」
丁寧で、あくまで優しいユイリスに、おずおずと頷くミスリィ。これに、ユイリスはありがとうと応えた。
「ウル、ロイドさんをお願い。私はレイルを連れて行くから」
いつの間にか剣を納め、ユイリスのことを懐かしそうな眼差しで見つめていたウルゼックは、ああ、と短く答えて彼女の指示に素直に従っていた。
あれほど彼女のことを叱責していたことがまるで嘘のようである。本当に彼女のことを慮っていたからこそ、だということがあらためてよくわかった。
父親がウルゼックに丁寧に担がれていく様子を見守っていると、レイルの小脇にも優しく腕が回された。ユイリスが腕を回して彼の体を支えたのだ。
「さ、行きましょうか。帰る――いいえ、私たちは彼らに勝利したんだから、凱旋ね。胸を張って凱旋しましょう」
そう言ってユイリスは、伝説の人物でも英雄でも聖女でもない、初めて出会った時のままの、清楚で気高い無垢なる美しいままの微笑みを湛えていた。
レイルは、応えた。殴られ、頬は腫れ上がってはいたが、彼女と出会った頃とは見違えるような精悍な表情で小さく頷いて。
とめどない喝采と鳴り止まない拍手の凱旋門をくぐりながら、レイルたちはテルミト亭へと凱旋した。
彼が師匠と肩を並べてテルミト亭の門戸をくぐったのは、それが最後となった。