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剣と勇気を、与えてください  作者: 羽場速雄
12/15

12.

 木扉が開放された窓から射し込む月明かりはどこか優しかった。

 傷ついた体をベッドに横たえたまま、レイルは目を閉じて眠るでもなく空ろな視線を月と星の光がまばゆい夜空に向けていた。

 劇的な逆転勝利を飾ったグェインとの手合いの後、レイルとユイリスはロイドたちに見つからないようこっそりと帰宅。ユイリスから傷の手当てを受けてからこうして大人しくベッドに臥せったのだが、目蓋は重くなってくれそうもなかった。

 一時は敗北寸前にまで追い込まれ窮地を味わったものの、ユイリスの教えを活かして危機を脱しグェインを打ち負かした興奮が冷めやらないから、ということもある。

 だが、それ以上に衝撃的だったできごと。それが、彼を眠りの世界から遠ざけていた。

 彼は何度でも回想する。

 ほんの数刻前に起きた、驚くべきできごとを。





「見せつけてくれるじゃないか。だが、坊やにはまだ早いんじゃないか?」

 抱きしめてくれているユイリスの心地よい温かさに、いつまでも体を委ねていたい思いにかられていたレイルを現実へと呼び戻したのは低い男の声だった。

 泣き腫らした重い目蓋をどうにか開き、声のした方――倒れ伏したグェインを挟んだ向こうを見やった。

 声の主は、グェインに同行したあちら側の見届け人の男である。

 彼は不機嫌さを顔面一杯に貼り付けたまま、ふざけた口調とは裏腹の鋭い視線をこちらに向けてきていた。

「しかしなんだ。グェインが楽勝と言っていたから相手はどんなうすのろだと思っていたが、なかなかどうして、腕の立つ奴じゃないか。最後の技は目を見張ったぞ」

 一方的に喋り倒しているいる男。一見、彼はレイルを褒めちぎっているようだったが、眼光は決して好意的ではない。敵意が全身から滲み出ていた。

 男の真意は、すぐに明らかとなる。

「と、大いに関心させてもらったが、それはそれ。俺の舎弟を叩きのめしてくれた事実は許しがたい問題だ。きっちり落とし前はつけさせてもらうぞ」

 凍てついたような男の眼差しはさらに厳しいものとなった。彼はおもむろに背中へと腕を回すと、背後――服の中に隠し持っていた――から長い棒のようなものを取り出した。

 眼前に取り出したそれを両の手で持つと、一方へとゆっくり引っ張った。すると、中から現れたのは鈍く光る鋭い刃。小剣が仕込まれた偽装小剣だった。

 相手は真剣を取り出した。レイルの背筋に冷たいものが走る。

 こちらも木剣を持っているとはいえ、今や満身創痍。満足に動くことなどできない。

 ましてや相手は真剣なのだ。木剣で受けてどこまで持ちこたえられるかわからない上、万が一受け損なった場合どうなるか――答えは火を見るより明らかだった。

 グェインに放ったようなとっておきの奥の手はもうない。まさに絶対絶命の窮地にレイルは唇を噛んだ。

 突然、彼の視界が何かに遮られた。

 ユイリスだった。レイルの背後にいたはずの彼女は、音もなくレイルを背後に追いやるようにして彼の眼前に立ったのである。

「で? そんなものを取り出していったい何が言いたいのかしら」

 真剣を持つ屈強な男を前にしても怯むことなく言い放つユイリス。

 度々彼女には驚かされてきたが、彼女に怖いものはないのか、とあらためて驚かされる。

 男の方もレイルと同じ気持ちだったようで、偽装小剣にもまったく動じないユイリスに拍子抜けした表情を一瞬見せたが、すぐに我を取り戻していた。

「ユイリス、だったな。多少は剣の腕に自信はあるようだが、あまりいきがらない方がいいぞ。上には上がいるということをわきまえるのが身のためだ。ま、俺も女子供相手に手荒なことはできればしたくない。この手合い、お前たちが負けを認めるならグェインのことは目をつむってやろう」

「あら、正々堂々と勝負に臨んでレイルは勝った。なのに、どうして負けを認めなければならないのかしら?」

「気の強い女だな。少しは痛い目に合わないと己の置かれている立場ってものがわからないのか?」

「どうして痛い目に合わされなければいけないの? おかしいわね。最初の取り決めと話が違うわ。いったいどういうこと?」

 明らかに男はこちらを脅していた。

 いや、端から彼らはそのつもりだったのだ。万が一にもグェインが負けてしまったら、その負けを目の前の男が覆す算段をしていたのである。見届け人などという体のいい言葉を使って男が同行していたのは単なる見せかけだったのだ。

 がっしりした体躯の男は、全身からグェインよりもはるかに手だれである雰囲気を滲み出させている。低い声はその迫力をさらに増長させていた。

 にもかかわらず、ユイリスは一歩も引かない。むしろ、男を焚きつけるような言葉を次から次へと投げかけている。

 いくらユイリスが相当な使い手であるとはいえ、相手は真剣を持っているのだ。さすがに不安が胸を過ぎるが、当の彼女は先ほどから一環して毅然とした姿勢を崩さなかった。

「『約束』、なんてものはその都度変わるものさ。そんなことも知らずに生きてきたのか? おめでたい女だな」

「つまり、そちらはお互いが納得して取り決めた『約束』を反故にする、ということなのね?」

「そうだ、と言ったら?」

 ぬけぬけと言い放つ男。これにはレイルも憤りを隠せず、拳を握り締めた。

 怒りに気を高ぶらせたレイルだが、すぐに我に返る。

 返らされた、と言うべきだろうか。そっと後ろ手にユイリスの右手が差し出されていたことに気づいたからだ。

 彼女が何を無言で言わんとしているのか。短い間ではあるとはいえ、彼女と交流を深め、彼女の弟子として修練を重ねてきたレイルはすぐに悟った。

 悟りの答えとして、彼も無言で手に持つ木剣の柄を彼女の手に受け渡した。

「なら、私はもう影に徹する必要はないわね」

 レイルから木剣を受け取ったユイリスは、そう言った後、後ろを振り返らぬまま小声で、

「レイル、相手が例え真剣を持っていたとしても、相手が間違っているのなら屈しては駄目よ。戦い方を間違えなければ、真剣相手だとしても恐れる必要はないわ。弱い己の心に負けず、勇気を持って事に当たれば道は開ける。よく見ていなさい、道を開いてみせるから」

と語った。彼女はそのままゆっくりと前へと踏み出す。

「ほう、やる気か。いいだろう、その小生意気な鼻っ柱、へし折ってやる」

 偽装小剣を構え、男も前へと踏み出した。

 もはやレイルにはユイリスを見守ることしか出来なかったが、不思議と不安はない。

 彼女の姿勢、彼女が語った言葉、それらがレイルの心に深く響いていた。

 彼は師匠の背中を静かに見送った。

 いかな戦いになるのか。圧倒的にユイリスにとって不利な条件での勝負である。どんな展開になっても見逃してたまるかと、まだ痛む両目をどうにか見開いて動向を追おうとした。

 図らずと行われたこの戦いは、だがレイルが想像できる程度の生易しいものではなかったのである。

 勝負はたった一撃で終わった。硬いものを粉砕するような鈍い音とともに。

 いったいいつ始動したのかもわからなかった。

 気づいた時には、木剣を横に凪いだユイリスの姿と、その切先の方向に大きく吹き飛ばされていく男の姿。

 弾かれるように宙を待った男は、二の腕に新しい関節を一つ作られた挙句、河原に体躯を叩きつけられて転がり、ようやく静止した後には微動だにしなくなった。

 あまりにも衝撃的な光景に、両目に走る痛みも忘れ見入るレイル。

 目にも留まらぬ、という言葉があるが、誇張や比喩などではなく現実のものとして存在していることを彼は知った。

 もちろん見切ることなどできるわけがないのであくまで推測だが、男の真剣など恐れるるに足りないユイリスにとってみれば彼の動きなど蝿が止まっている程度のものなのだろう。だからこそ、相手が真剣でも躊躇せずに踏み込み、相手の剣が自身を害す前に打撃を与えられたに違いない。

 と、顧みることはできても、一瞬でそれを為してしまった彼女の神速と言ってもいい体捌きと剣速はあまりに常軌を逸していた。

 なにより、あれだけの体躯を持つ成人の男を、ただの一撃で、あのか細い腕で遠くへと弾き飛ばしたことなどとても人間技ではない。その破壊力がいかに壮絶だったかは、男に打撃を与えた木剣が衝撃に耐え切れずに折れ曲がってしまっていたことからも分かる。

 少なくともどんなに手だれでも、このような芸当は女性には不可能だと直感が囁きかけてきていた。

 修練を通して彼女の凄さは身に染みていたはずだった。修練では手加減していることもわかっていたが、ある程度彼女の本当の強さを予測していたつもりだった。

 その予測が根本から間違っていたことを、彼は知ることとなった。

 つまり、修練の時、彼女は手加減どころか爪の先程度の力しか見せていなかったのだ。

 レイルは凍りついたようにあまりにも凄まじい光景をただただ凝視するしかなかった。

 一方、驚愕に呆然とするレイルをよそに、当の本人はいつの間にかにくだんの男の元へと歩み寄っていた。派手に宙を舞い、河原に叩きつけられた挙句二転三転しようやく仰向けで止まった男は、二の腕をありえない方向に曲げたまま力尽きていた。

 それでもか細いうめき声が聞こえてくる。どうやら彼女は命まで奪ったわけではないようだった。

「聞きなさい」

 男の傍に立ちはだかったユイリスは、意識が混濁しているであろう男を見下ろしつつ声を張り上げて言った。

「当初の約束通り、今後一切、レイルとレイルの近親縁者に害を為すこと、近づくことを私は許さない。これは警告よ。禁を破れば、次は命がないと思いなさい」

 恐ろしいほど凍りつくような声だった。優しさや温かさなど微塵も込められていない、いつものユイリスからは想像もできないほどの冷徹さに満ちた声に、レイルは彼女が本気で怒っているということを感じた。

 彼女はこちらに背中の多くを向けているため、その表情までを窺い知ることはできない。

 だが、以前グェインを制止した時同様、彼女の全身から一切の妥協や反論を許さない毅然とした意思の力が放たれていることを感じ、それ相応の恐ろしい表情をしているだろうことは認識できた。

 緊迫した雰囲気が辺りに立ち込め、レイルも固唾を呑んで事のなりゆきを見守っていたが、均衡を破ったのは当のユイリスだった。

「さ、帰るわよ」

 彼女の声――いつもの優しい声だ――に、レイルは体の強張りを解いた。

 言いたいことを言ったので満足したのか、それまでの冷徹な意思がまるで幻だったかのように、踵を返して事も無げにこちらへ戻ってくるユイリス。レイルを視界に納めたその表情には、薄っすらと笑みまで浮かんでいたほどである。

 あまりにも急激な変化に目を白黒させたレイルだが、それでもどうにか心を落ちつかせてふと気になったことを問うた。

「グ、グェインたちは」

 確かに憎むべき輩たちだが、今はもう何をすることもできない。傷を負って倒れている以上、いくら敵でもそのままにして立ち去るには若干気が引けたのである。

 これに、ユイリスの答えは明快だった。

「放っておきなさい。手加減はしたから命を落とすことなんてないし、しばらくしたらこれに懲りて自分たちの足で大人しく帰るでしょう。それとも、約束を破って私を手篭めにしようとした彼らの面倒まで見ていく?」

 彼女の言う通りだった。男が認めさせようとしていた敗北をもし呑んだら、結果は負けが付くだけでなくユイリスがグェインのものになってしまっていたのだ。

 それを強要しようとしていた奴らの面倒などどうして見てやれようか。レイルは無言で首を横に振った。

「でしょう? じゃ、帰りましょう」

 満足げに笑みを浮かべたユイリスは、体が自由に動かないレイルの腕に腕を回して支えると、テルミト亭への帰路へと誘う。

 こうして、悶絶しているグェインと意識が混濁したまま倒れた男を後に、2人は夜のギョーム河岸を後にしたのだった。





 幾度振り返っても、いまだに信じられないほどのできごとだった。

 単に『強い』、という一括りの言葉で表現できないほどの、その場にいる者全てを圧倒してしまうような、そんな力をユイリスは見せつけだのだ。

 思い出せば思い出すほど、なんだか自分がグェインに勝ったことなど遠い昔の大して重みのないものに思えてくる。

 月の夜空から自室の天井裏へと視線を戻し、レイルは小さく嘆息した。

 彼女の実力は果たして本当は幾ばくのものなのか。もはや見当もつかない。

 信じられないほどの彼女の力はレイルに衝撃を与えたが、その衝撃は同時に一つ、彼に気づかせることとなった。

 あれだけの力を持つ彼女だ。文化や伝統を見るためだけに諸国を渡り歩いているという話に嘘はなくとも、旅をする理由はそれだけではないはずである。何らかの目的でこのファルアリア王国へと足を踏み入れ、このサイレア近郊までやってきたに違いない。

 彼女がこの町へ来てからもう2週間近くが過ぎ去っていた。

 失われていた体力はすっかり元の通りに回復し、さらに彼女が担ったレイルの修練師匠役も目的を達成している。

 彼女は昔からこの町に居たわけではない。そして、彼女がこの町に居続ける理由は、もはや失われていた。

 レイルは直感的に感じ取った。

 ユイリス=レンフィアとの別れが、もう目の前まで近づいているということを。



 サイレアに来てからほぼ2週間が経ち町中も方々歩き回ったつもりだったが、思えばここに来るのは初めてのことだ。

 真上に昇った太陽の日差しを心地よく受けながら、ユイリスはサイレア郊外にある小高い丘の緩やかな斜面を一歩一歩踏みしめて登っていた。

 運命の手合いがレイルの勝利という結果で終わり、明けた翌日。

 いつの間にか傷だらけで起きてきた息子の姿に大騒ぎとなったフュンフル夫妻にありもしないできごと――夜釣りに出かけ、化け物じみた巨大怪魚と格闘した末の有様というもちろん創作で、言い訳けにならない言い訳――を信じ込ませるのに大層骨を折ったものだが、どうにかその場は収めることに成功。

 レイルと共に胸を撫で下ろしたものだが、彼が昨晩為し得たことに比べれはほんの些細な後始末である。

 厳しい一週間の修練に耐え抜き、レイルは見事に己の才能を開花させ、グェインを打ち破った。それも、グェインの狡猾な戦法を受けた上での勝利である。

 今回のことは自らの力で難題を克服したということで大いに自信になったであろうし、一回りも二回りも彼のことを成長させたに違いない。

 それはつまり、ユイリスの役目――すなわち、『剣と勇気を与える』務めも終わりを迎えたことを意味する。

 そう、サイレアを離れる時がやってきたのだ。

 ただ、その前にやっておかなければならないことがあった。

 だからこそ、この丘へとやってきたのである。

「来たか」

 小高い丘の頂き辺りにそびえ立つ巨木の元へと近づいた時、彼女を迎えたのは特徴のあるあまり抑揚のない声。

 声の主は巨木の影から姿を現した。ウルゼック=ラインローグである。

「必ず来るとは思っていた。様々な肩書きを持つ貴様も、元をたどれば我らの恩師イスカムが最後の弟子。戦師が認めた者が賢明な判断を下せぬはずがないからな」

 3年ぶりの再会の際はあれほど辛辣だったウルゼックだが、今は表情も語り口も穏やかだ。実際、色々と誤解を受けやすい性分をしている彼ではあるが、理路整然としながらも損得だけでは決して動かない義に厚い心に血の通った人間である。戦師イスカムから託された『遺志』を果たすためだけに、国を跨いでユイリスを探し回っていたことがその証の一つだった。

 そして、彼は手に持った小さな木箱から戦師イスカムの『遺志』を取り出した。『調和の法環』という名の遺志を。

「ここへ来たということは、本来進むべき道へと進む、その決意をしたということだな」

 大層な装飾はないが、何代もに渡って重責を担う証として受け継がれてきた銀色の指輪を手のひらにのせ、ウルゼックはその手を彼女へと差し出してきた。

「レイルに、教えられたから」

 ウルゼックの真摯な眼差しを空色の双眸で受け止めつつ、ユイリスは調和の法環へと手を伸ばした。そして、左手の中指にゆっくりとはめ込んでいく。およそ三年ぶりに本来の持ち主のもとへと戻った瞬間だった。

「貴方に言われた通り、私は逃げていた」

 あたかも何十年も前からそこにあったかのように、見事にユイリスの指と馴染んでいるその名称通りの銀色の指輪が収められた左手を眼前にかざし、それを懐かしそうに見やりながら彼女は語り出した。

「あの戦争が終わって、隊を解隊して旅に出たのは身も心も疲れていたから、安息を求めたかった――と、皆に残して国を去ったのは口実で、逃げ出した理由ではないわ」

 ゆっくりと腕を下ろすと、やや表情を曇らせ、彼女はおもむろに巨木へと歩み出した。

「私がフレアミスを去ったのは、平和になったあの国にとって私の力はあまりに強力すぎたから。私の力や影響力はあの国には不要なものだった。それどころか、私が居るだけで方々に悪影響を及ぼしかねなかった。私の居場所は、フレアミスにはなかった」

 淡々と語りながら巨木の根元までたどり着いたユイリスは、そのまま俯き、瞳を閉じた。

「そして、それ以上に私がフレアミスを去った理由は、私が現実から目を背けて逃げ出した理由は、私自身に備わった力とこの先どう共生していけばいいか、目指すものを失ってしまったから」

 段々と弱々しくなる声。それは、彼女が思い悩んできた胸の内を証明するかのようだった。それでも、彼女は語ることを止めなかった。

「この力があったからこそ、私は私の故郷の皆が味わった辛酸と無念を晴らすことができたし、数々の困難も乗り越えられたわ。ひいては多くの人を救うことができた。だから何も後悔はしていないわ」

 言って、ユイリスは閉じていた双眸を見開き、顔を上げた。振り返り、ウルゼックへと悲壮な光を湛えた空色の瞳を真っ直ぐ向けた。

「けれどその先は? フレアミスを解放したその先は? 一生、死ぬまで消えないこの力をどう使えばいい? 私は自身の行く末に対して道標がなくなってしまった空虚感に心を支配されてしまった」

 いささか感情的になって心情を吐露してしまったが、ウルゼックは何も言わずに黙って独白を聞いてくれている。ユイリスはそんな彼に感謝しながらも、努めて冷静さを取り戻そうとした。

 それでもウルゼックの真っ直ぐな視線を直視できず、彼女は視線を外し、一拍間を置いてから続けた。

「でも本当はね、私、わかってはいたの。私が得てしまったこの力、戦うための力が一生消えないのであれば、戦いの場でこそ活かし、人々を救済するために生きていくことこそ、生涯私に与えられた使命だということを。それをわかっていながら、私は空虚感に身をつやし、一度離れた戦いの世界へと再び一歩踏み出す勇気を失っていた。本当、私は逃げていたんだわ」

 わかってはいた。だが、わかろうとしなかった自身の不作為と、彼女は今、自ら口にすることで初めて正面から向き合っていた。

 3年という短くも長い年月の間、現実から目を背けていた彼女を変えたのは、他ならぬ1人の少年だった。

「その、逃避している私に道を指し示してくれたのが、レイルだった。彼の真っ直ぐな生き様、困難に打ち勝つ強さ――それは私に思い出させてくれた。そう、自分に打ち克つこと、自分に負けないということを」

 伏目勝ちになっていた両の目を見開き、彼女は言い切った。自らに言い聞かせるように。

 その表情にもはや迷いはない。

 かつての彼女が、今、帰ってきたのである。

「今貴様がここにあるのは、レイルのおかげということか。貴様はレイルの師匠なのあろう? これではどちらが師なのかわからんな」

 黙って聞いていたウルゼックが口を開いたかと思えば、出てきたのは皮肉めいた言葉。

 だが、それはユイリスを悪し様に思っているからではない。重く沈鬱な空気を払拭するための彼なりの優しさの現われだった。

 その心遣いがよくわかったからこそ、

「失礼ね。レイルの先生はあくまでこの私よ」

とむくれても見せる。

 これに、ウルゼックは破顔して応えた。彼の笑みを見たのは本当に久しぶりのことである。驚きはしたが、すぐにユイリスも微笑みを湛えた。

「そうだ。決意した貴様には、これが必要だろう」

 何かを企むようにユイリスを一瞥した後、ウルゼックは巨木の根元にある洞へしゃがみこんで手を伸ばした。

 中から次々に取り出したのは、両腕でようやく抱え込めそうな古びた大きなトランクケースと、麻布で包まれた上に縄で何重にも縛られたやや縦長の板状のものだった。

 それらがいったい何か、ユイリスはすぐに気づいた。

「どこでその在り処を?」

「ハンスから聞いてな。しかし随分深く埋めたな。アデューフェの根元を掘り返すだけでも大層骨が折れたぞ」

 嘆息し、首の後ろ辺りを撫で回す仕草をするウルゼック。いかに苦労したかを表現しているのだろう。

 ただ、そういった仕草はあまり彼には似合わない。ユイリスはつい小さくも噴出してしまう。

 彼女の反応に憮然とした表情のウルゼックではあったが、すぐにあらため、真剣な、それでいて温かみのある眼差しを彼女に向けた。

「調和の法環も、こいつらも、貴様と共にあるべきものだ。いつか貴様の後継が現れる時までは、もう二度と手離すなよ」

 淡々とした言葉遣いの中にも彼の温かい想いがしっかりと込められている。

 彼の想いに、ユイリスは深く感謝し、頷いた。

「色々とありがとう、ウル」

「礼なら戦師イスカムの御霊に報告するんだな。いつか、我らが心の故郷フレアミスのブルーフェン郷で」

 それは、ユイリスの故郷にほど近い、彼女がしばらく逗留した戦師イスカムの庵がある場所だった。

 同時にその場所は、今では偉大なる恩師の墓所であることをウルゼックの言葉は示していた。

 彼の言う通り、いつかはブルーフェンに戻り、戦師イスカムの墓標に自身がたどった生き様を報告せねばなるまい。

 だが、それはまだ先の話だ。

 今為すべきことは決まっている。

 旅立ちの時がやってきた。


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