11.
あの時に比べ月は真円から欠け始めていたが、その存在感は微塵も揺らがず夜空に輝いていた。
ギョーム河岸に打ち倒され、強制的に月夜を見せつけられることになったあの日から早いもので一週間。レイルの姿は再び、同じ場所にあった。
彼の視線の先には、見慣れた男の姿。
グェイン。彼は約束違わず、きっちり7日目に現れた。日中は一切姿を現さず、日が落ち、月光が支配する夜の世界が訪れてからテルミト亭にやってきたのである。
為すべきことはお互いわかっている。2人は無言でテルミト亭を後にし、このギョーム河岸へとやってきたのだった。
夜空の月が欠けただけで、場所も時間も前回とほぼ同じ。
だが、以前と異なりこの場にいるのは2人だけではない。
レイルには心強い味方、ユイリスがいる。彼女は少し離れた場所からこちらの背中を黙って見守ってくれている。
一方、グェインにも連れ合いの男がいた。細身のグェインとは違い、その男は鋼のような筋肉に身を包んだ屈強な輩だった。
レイルがユイリスを伴ったように、グェインも見届け人として知己のその男を連れてきたのだという。ユイリスが同席している以上、もちろん異を唱えることはできないしそもそも唱えるつもりもない。
グェインに誰が同席しようと関係ない。倒すべき相手はただ1人なのだから。
雄大なギョーム大河から河岸に打ち寄せる穏やかな波の音がしっかり聞こえるほど静まり返ったその場に、どこか喜色を含んだ男の声が響く。
「この一週間でどれだけ力をつけたか知ったこっちゃないが、ま、覚悟はいいな?」
不敵な笑みに口元を歪めたグェインだった。
相変わらずの不遜な態度で、完全に彼はレイルを見下している。
だが、不思議と頭にこない。
やるべきことは全てやった充足感――それが気持ちを落ち着かせ、冷静さを維持させているのかもしれなかった。レイルは無言で頷いた。
「大言吐いたユイリスちゃんよ。約束、忘れてねえよな」
薄ら笑いを浮かべ、レイルの睨みつけるような視線を受け流していたグェインは、ユイリスの方を見やって言った。
約束――すなわち、レイルが彼に敗れるとユイリスが彼の物になってしまうということ。
穏やかだったレイルの心の水面に、さすがに小波が起きる。
一方、当のユイリスは彼の心中とは裏腹にいたって平静だ。
「ええ、もちろんよ。レイルが負けたら、貴方のお好きなように」
一切の動揺もなく、平然と言ってのける様は懐疑を通り越して感嘆すら覚える。
だが、彼女がそこまで自信を持っているのは、自分を信じてくれているからだ。彼女のその思いに応えねばならない。彼女のためにも、そして自分のためにも。
ユイリスからの返答を得て、ことさら嬉しそうに口元をいやらしく歪めたグェイン。余裕に満ちた彼の鼻っ柱をなんとしてもへし折らねばならない。絶対に負けるわけにはいかなかった。
「レイル」
胸中で気持ちを高めていると、後ろから呼びかけてくる声が。
半身だけ振り返ると、ユイリスが真剣な眼差しを投げかけてきていた。
「私が教えたことを全て忠実にこなせば、絶対に負けない。必ず貴方は勝てる。だから、常に冷静に、心を平静に」
いつでも自分を支えてくれたユイリス。親身になって自分を鍛えてくれたユイリス。最後まで助言をしてくれた彼女を、グェインなどに決して渡してはならない。必ず勝つ――その思いを込めてレイルは頷き応えた。
「その意気。後悔のないよう、思いきりやってきなさい」
温かいユイリスに送り出され、レイルは一段と気持ちを引き締める。
グェインに向き直ると、彼は侮蔑の表情を浮かべていた。
「最後まで女に助けられていい身分だねえ、レイル君。お別れ会はもう十分かい」
ユイリスとのやりとりを見、嘲笑し、皮肉をぶつけてくる。
明らかに挑発ではあるが、これまでであればやはり簡単に頭に血を上らせていたことだろう。
だが、今は違う。自然と受け流せる。
レイルが反応を示さないことに肩透かしを食らったようで、グェインは舌打ちすると
腰に下げた木剣を抜いた。レイルも手に提げていた木剣を構える。
辛く苦しい修練の集大成。
いよいよ真価が問われる時が来たのだ。
手合いが始まった。
ついにこの時がやってきた。ユイリスは握り締めた拳の中が汗で湿っていることに気づき、微苦笑した。
自分が戦うわけでもないのに、なにを気負っているのだろうか。今教えられること、彼の力を伸ばせることは全てやり通した。後はもう、レイルを信じて託すしかない。
そもそも、そんなに気負ってしまうぐらいならこんな回りくどいことをせずとも一週間前のあの時、グェインを完膚なきまでに己が叩きのめしてしまえばよかったことである。
それをしなかったのは、あくまでレイル自身の手で解決させてけじめをつけさせ、さらには彼の成長を願ったからだ。
だとすれば、黙ってなりゆきを見守るのも己の責務である。
歯痒い思いを内包しつつも、ユイリスはレイルとグェインの戦いをその目に焼きつけようと手合いに集中した。
互いに睨み合い、動かないレイルとグェイン。
だが、2人の距離は打ち合うにはまだ遠すぎる。
どちらが先に仕掛けるか。その命題はすぐに解が導き出された。
初めに動いたのはグェインだった。
突如として突進した彼は、レイルに迫り頭上に掲げた木剣を鋭く打ち下ろす。
色々と偉そうなことを口にするだけのことはあり、彼の剣撃は素人の域を出ている。未経験の人間であれば、あの剣撃をまともに受けてしまうことだろう。
その斬撃を、レイルはかわした。かすりもせずに、体捌きを駆使し半身になってグェインの剣撃を鮮やかにかわしたのである。
一週間前までのレイルであれば、多少は打ち所をずらすことはできても避けることは難しかったに違いない。
しかし、今の彼はいとも簡単にやってのけた。もちろん偶然ではない。この一週間、何度も繰り返し繰り返し体に覚えこませた体捌きの修練の成果が花開いたのである。
自信をもって放ったのだろう。あっさりと自身の斬撃をかわされ、グェインは明らかに狼狽していた。
一瞬でも焦りを浮かべた表情を隠すかのように、グェインは続けて横なぎに木剣を振るった。
対するレイルは、素早く片足を引いて体を後退させると、またもやグェインの木剣をかわしたのである。
一度ならず二度までも。それは決して偶然ではないことを示していた。
一方で、かわしたレイルもグェイン以上に驚きの表情を浮かべているのが垣間見えた。
彼自身も信じられないのだろう。今まで痛い目に合わされてきたグェインの木剣を回避できたのだから。
もっともなことだが、これは当然のことなのだ。それだけの地力を彼は持っていたし、その力を有効に発揮できるようにするための修練をこれでもかというほど施してきたのだから。
綿密にグェインの剣撃を読んで次にこう動いてこうかわす、といった頭で考えて回避したことではなく、体が先に動いてかわせたことについてもレイルは驚いているに違いない。それこそがまさに「体で覚えた」ということで、より高度な実戦になればなるほど必要不可欠のことだった。
頭で考えてから行動に移していては、命が幾つあっても足りないのが実際の戦いというものである。反射的に体が動き、相手の攻撃に対処し、防御あるいは攻撃に転ずるという、流れるように戦闘を組み立てていくことが理想だ。
完璧にこなせる領域までレイルが到達しているかと言えば、もちろんまだほど遠い状態ではある。
ただ、確実に一歩は踏み出している。
焦ったグェインが畳み掛けるようにして始めた連撃にも、レイルは的確に対処して回避し続けていることがその証だった。
これまでならば確実に直撃していた剣撃を二度もかわされて心の均衡に微妙にずれが生じ、それが影響しているのだろう。グェインの剣撃は、剣を繰り出す度に微妙に鈍くなっているのが窺えた。
また、レイルに対する見通しの甘さがグェインの冷静さを簡単に欠かせた要因にも違いない。おそらく一週間やそこらで何が出来ると高を括っていたのだろう。その油断が仇となった。
ただでさえレイルの回避能力が向上しているのである。あの剣撃ではレイルに傷一つつけることはできないだろう。
そして、レイルもいつまでもかわしているだけで終わるはずがない。
彼に教えたのは相手の攻撃をかわす術だけでなく、相手を攻撃する術も含まれているのだから。
何度目かの斬撃をかわした後、レイルの腕が翻った。
木剣でグェインの剣撃を弾き返し、流れるように攻撃へと転じたレイルの打撃が彼の横腹に命中したのである。
痛さと、信じられない思いを顔一面に浮かべてよろめくグェイン。
有効打を彼に与えたのは恐らく初めてに近いのだろう。打撃が命中したことに逆に一瞬驚いているレイルの姿があった。
が、すぐに我に返ったようで、続けて剣を放つ。対するグェインも歯を食いしばって痛みを堪えながら、今度は迫り来るレイルの攻撃を木剣で必死に防御していた。
大勢は完全に逆転し、レイルがグェインを圧倒し始めた。あれだけ自信に溢れていたグェインの姿は見る影もなく、今や一方的に守勢に回っている。
ユイリスにとって、こうなることは当初からわかっていたことだった。
始めはグェインが攻勢に出るだろうが、どの時機を経て切り替わるかはともかく、必ず立場が逆転することは2人の力を客観的に比較すれば自ずと答えが出ていたからである。
では、安心してこのまま結果を待てるか、と言えばそれはまた別の話だ。
しかもユイリスは、得体の知れない胸騒ぎを感じていたのである。
確かにレイルは優勢に立ったが、ほんのわずかながらその剣先から攻撃当初の鋭さが次第に欠け始めているのをユイリスは見切っていた。
疲れから来ているものなどではない。大勢には影響はない程度だが、その変遷はレイルの心に、彼自身も気づいていない隙間――『油断』が生まれた結果である可能性が高い。
また、確かに今やほとんどの面でレイルはグェインを上回っていたが、1つだけ確実に上回っていないことがあった。
それは『経験』である。
実は、今回の手合いでユイリスが最も懸念していた点こそ、2人の経験の差だった。
様々な状態、状況を経験してこそ、戦闘においての臨機応変さや柔軟性は磨かれる。その経験が、レイルは相手よりも絶対的に不足していた。
もちろんその点も踏まえ、様々な想定をして修練も行った。
ただ、それはあくまで修練でのこと。台本のない実戦では想定し得ない事態も巻き起こるであろうし、仮に想定していたとしても、実際の事態に対応できるかと言えばそれはまた別の話だ。実際に対応できるかどうかを左右するものこそ、培った『経験』だからである。
胸騒ぎの果てにあるものがいったい何か。それはわからない。
わかっているのは、レイルの感情の変遷、そして2人の経験の差が胸騒ぎに影響を及ぼしているだろうということだけだ。
それでも、グェインに有効な手数がなければレイルの勝利は時間の問題である。
そう、このまま何事もなければ。
ユイリスは彼の勝利を祈った。
ただ、祈った。
――いけるぞ!
守勢に回り、一方的に攻撃を受け止めるだけになったグェインが、ついにじりじりと後退し始めたのを見、レイルは勝利を確信した。
初めは半信半疑だった。
グィエンに勝つための辛く苦しい修練を、わずか一週間とはいえこなしてきたのである。多少なりとも力はつけられた、という自信はあった。
しかし、これまでグェインと手合いをして勝てたことなど一度もない。
いつも負け続けてきたのである。力をつけた自信はあっても、確実に勝利を収められる自信を持つまでには至らなかった。負けられない、という思いを固めることとは話が違う。
ところが、実際に手合いが始まるとまったくもって予想しえない事態が起きたのである。
散々翻弄されてきたグェインの剣が、動きが、あたかも時の流れが遅くなったかのごとくはっきりと捉えられたのだ。さらに、ごく自然に体が動き、彼の攻撃を易々と回避することができたのである。
毎度やられてばかりだったのがまるで嘘のようにグェインの剣をかわすことができたレイルは、自らの成長に驚いていた心が落ち着いてきた頃、ついに攻撃へと転じた。
素人ではないとはいえ、せいぜい毛の生えた程度の剣でしかないグェインには幾つかの隙があり、驚くほど錬度を上げたレイルはその隙をはっきりと認識していた。
苦し紛れに放ってきた突きを切っ先で打ち払い、間合いを詰める。がら空きとなったグェインの上体に対し、頭で考えるより体が反応し小さく振り抜いた斬撃を放った。
レイルの木剣は吸い込まれるようにグェインの横腹に命中。たちまち彼は苦悶の呻きを上げ、苦痛に顔を歪めながらよろめいて2歩、3歩と後退った。
まともな打撃を彼に与えたのはこれが初めてのことだけに、レイルは一瞬我が目を疑ってしまう。これまで散々煮え湯を飲まされてきたグェインに対し、一矢報いたのだ。信じられない思いに駆られても無理はない。
では、これは夢なのか、それとも幻なのか。答えは否。現実なのだ。
であれば、この好機を逃すことは愚の骨頂である。
修練によって著しいまでにも剣技を、戦術に対する才を伸ばしたレイルは、思考を素早く切り替え、すぐさま次撃を繰り出した。
さすがにグェインも必死になって堪えていたため、なかなか直撃を与えることはできなかったものの形勢は真逆になった。格段に素早さと鋭さを増したレイルの剣撃が間断置くことなくグェインに襲いかかり、グェインは反撃の糸口すらまったくつかむことができぬまでに追い詰められていったのである。
レイルの剣は手合いを完全に支配していた。
ことここまでくれば、初めてにして大変価値ある一勝を確かなものと感じるのも当然のことだ。
不確かな自信を確信に変えたレイルの攻撃は、この手合いの終焉を飾ろうとしていた。
強烈なレイルの斬撃を受け損ねて体勢を崩したグェインは、たたらを踏むようにして後退るも踏ん張りが利かずにそのまま後ろに倒れてしまう。
丁度尻餅をついた形になるグェインだったが、その倒れ方に勢いがありすぎた。尻餅をついた衝撃で木剣を手離してしまい、まったくの無防備になってしまったのである。
グェインにとっては絶体絶命の窮地。
レイルにとっては完全なる勝機だった。
手合いはあくまで修練の一環であるため、相手を必要以上に傷つけたり、ましてや殺すことが目的ではない。
よって、相手が戦闘力を明らか失った場合は、その鼻先に木剣の切っ先を突きつけることで手合いの勝敗を決めるのが一般的な規定だった。
グェインは武器を取り落とし、さらに尻餅をついた状態で明らかに無防備だ。
このまま彼の鼻面に木剣を突きつければ、誰が見てもレイルの勝利を疑う者はいないだろう。
記念すべき、初めての勝利。それがとうとう手の届くところまでやってきた。
ユイリスの厳しい修練に必死になって喰らいつき、辛く苦しい一週間を耐え抜いたこと――それだけではない、この半年の屈辱の日々を耐えてきたことが今まさに報われようとしている。
これから迎える結末に、胸が高鳴る。もはや後がないグェインは苦虫を噛み潰した表情でこちらを睨みつけていたが、今となってはまったく気にならなかった。
これまで味わったことのない勝利の高揚感に、レイルは頬を高潮させていた。
一歩、また一歩、倒れているグェインに近づく。
――これで終わる。
なんとも言えない思いが胸の内一杯に広がるのを感じつつ、いよいよ木剣を宿敵の鼻先へと突き出そうとする。
その時だった。突然、急に胸焼けを起こしたような非常に不快な感覚に襲われた。
これまで感じたことのない感覚に、反射的にレイルの動きが止まる。
――いったいなんなんだ?
考えてみても心当たりはまったく浮かばない。
その答えを教えてくれたのは、この場において彼の最大の敵であった。
もちろん忘れていたわけではない。
ただ、自身に急激に湧き起こった不快な感覚に気をやってしまったのも間違いのないことだった。
それまで苦渋に満ちた表情をしていた眼前のグェインが、いつの間に唇の端に歪めて不敵な笑みを漏らしていたことに気づいた時はもう遅かった。
グェインの手が翻った瞬間、一瞬にして視界一杯に広がる無数の何か。
とっさに両手を目の前に翳して瞬間的に防御するが、間に合わなかった。
目をつぶるも、その何かが両の目の中に入ってしまったのである。
激痛が走り、目を開けることができない。
慌てて手の甲で目元を拭うが、まったく効果はなかった。
異物が目の中に入ったことにより当然滝のように涙が溢れ出すが、事態はまったく好転しなかった。
突然、激痛は両目元だけでなく、腹の真ん中にも湧き起こった。
痛みと共に襲い来る浮遊感。レイルは、自分の腹に何かが当たり、後ろへ弾き飛ばされたことを悟った。
一週間とはいえ、ユイリスの地獄の修練を耐え抜いただけあり、レイルは目が見えずとも反射的に受身を取って衝撃少しでも緩和していた。
それでも、背面から地面に叩きつけられたことには変わりなく、その衝撃に呼吸が一瞬止まりむせ返る。
目元と腹、さらに背中から襲い来る痛みという三重苦に、さらに四つ目の苦しみがレイルを襲った。憎きグェインの勝ち誇った肉声となって。
「ざまあねえな、レイル。それなりに腕を上げたことは認めてやるが、しょせん付け焼き刃。たかだか一週間やそこらで俺様に勝てるわけがねぇだろ?」
痛みのせいで見開くことはできなかったが、片目をほんの少しだけなら開けることはできたため、涙の向こうにうっすらと映る男の姿を見た。
立ち上がり、いつの間にか取り戻した木剣を弄びながらゆっくりと近づいてくるグェインだった。
あとほんの少しだけ手を伸ばせば手に入った勝利。それが、ほんの刹那の気の迷いから失われようとしている。
満面に喜色を浮かべたグェインが、木剣を振り上げているのが見えた。斜め横なぎにそれは振り下ろされた。
衝撃と激痛が、再びレイルを襲った。
ユイリスが抱いた懸念は、現実のものとなってしまった。
木剣を失い、さらに尻餅をついた状態に追い込まれたグェインに勝機はもはやなく、レイルがとどめを示すために木剣を彼の鼻先に突きつけるだけで勝敗は決まるところだったにも関わらず。
なぜか。その理由は明白だった。
ユイリスは、グェインが尻餅を着いた時点で、逆にレイルに危機か迫ったことに気づいた。狼狽している表情とは裏腹に、グェインは戦意を失わず河原の『砂』をゆっくりと握り締めていくのを見逃さなかったからである。
一方のレイルはその彼の行為にまったく気づいていなかった。目の前の勝利だけしか見えていない状態に陥っていた。
このままではグェインの手から放たれた砂つぶてがレイルを襲い、まったく気づいていない彼は無防備なままその攻撃を一身に受けてしまうことだろう。
砂つぶてが目に入れば、痛みで目を開けられないのは必至。そうなれば勝負の趨勢は再び逆転し、今度は圧倒的に不利なレイルに勝機など塵ほどもなくなってしまう。
グェインが無法を働いているのでれあれば、それを理由に手合いを止めてレイルの反則勝ちと決定づけられるが、直接目を突くのは禁じられているものの砂を投げつけてはいけないという規定はない。
手合いの掟が破られていない以上、一対一の手合いが一度始まってしまったら助けに入るのはもちろんのこと、声をかけることすら許されない。もしそれをすれば、規定を犯したとみなされて逆にレイルが反則負けとなってしまう。
彼を助けることはできない。
それでも、まだ今ならば間に合う。自分の力だけで窮地を乗り越えられる。
グェインの異変に対しレイルが一刻も早く気づくこと――ユイリスはひたすらそう願った。
彼女の願いが通じたのか、レイルの動きが止まった。
気づいてくれた――ユイリスは歓喜に小躍りしそうになるも、すぐに凍りつく。遅かったのだ、全てが。
グェインの手が翻り、彼の手を離れた砂つぶては手をかざしてたレイルの防御をかいくぐってその両の目に飛び込んだのだから。
懸念は、最悪の事態となって具現化した。
両目を潰されてしまったレイルは瞬く間に打ち倒され、それまで圧倒されていた鬱憤を晴らすかのごとく、グェインの陰湿な攻撃にさらされていた。
目が利かない中、レイルは激痛に耐えながらも勘を頼りに木剣を振り回して反撃を試みてはいたが、ことごとく失敗してしまう。
懸命に反撃しようとしている姿勢がグェインの嗜虐心を煽ったのか、圧倒的有利な立場となった彼は、満面に負の喜色を湛えてレイルの体にさらに木剣を打ちつけていた。
もはや、レイルがグェインに勝利するのは極めて難しい。皆無に近いと言っても語弊はないだろう。
すぐにでも駆け出し、手合いを止めさせたかった。先ほどから握り締めている拳は、指の色が赤く変色し始めていた
だが、足が動かなかったのだ。一歩を踏み出せなかった。
我が身が可愛いから? 否――レイルの敗北はすなわち自身がグェインの慰み者になるということだが、無論そのような表面的で浅薄なことなど原因ではない。
この、絶望的な状況でも、レイルの勝利を感じる己の心が彼女を留めていたのである。
まだレイルは終わっていない。
ユイリスの教えた全てを、彼は出し尽くしていない。
彼には窮地を脱する手立てを教えてある。今のこの状況を覆せる方法を。
レイルがそれに気づき、実行できれば結果は自ずとついてくる。彼の勝利を邪魔してはならない。
誰が見ても勝負の帰趨、グェインの勝利を疑わないであろう状態の中、ユイリスはレイルが手合いを制することを信じた。
他でもない。とても短い間ではあったが、レイルは彼女が育てた初めての『生徒』なのだから。
何度となく体験した痛みだが、今日味わった痛みはことさら度合いが激しかった。
それは単純な肉体的な苦痛以上に、精神的にとても苦しいものだったからだ。
一時は勝利を確信するほど圧倒的優位に立ったにもかかわらず、今はただグェインの剣を体で受けるのみ。後ほんの少し手を伸ばせば得ることのできたものが失われたのだ。その喪失感は計り知れない。
それでもできることはしようとした。恐らく砂を投げつけられたため、目が開けられなくなり視界を失いはしたが、グェインの気配を頼りに木剣を振り回してみたのだ。
結果は全て空振り。まったく功を奏さず、逆に空振りしたところを攻撃されてしまった。
後は一方的に打たれるのみ。
砂の入った両目の激痛はいまだ癒えず、まったく目を開けられない。かなり涙を流したが、効果は現れていなかった。
体に蓄積したグェインの打撃もじわじわと効いていた。最後のよりどころである自身の木剣を必死に握り締めていたものの、何度か腕を打たれたためにだんだんとその感覚が失われてきていた。
――やっぱり、グェインには勝てないのか。
花開いた自信を無残に打ち砕かれ、レイルはもはや為すがままの状態になっていた。立っていることなど当然できず、河原に倒れ込み頭を抱えて丸くなってできる限りの防御の姿勢を取るのが精一杯。
喪失感に連鎖して、絶望感が急速に胸の内を占めていく。
どうせ負けるなら、いっそ敗北をグェインに認める方がいいに違いない。これ以上、痛めつけられることはなくなるからだ。そこまでの思いが首をもたげ始めていた。
崩れ折れた体の痛みに、心まで折れそうになるレイル。
その彼を、崖っぷちで踏みとどまらせたのは、生涯で初めての、そして最高の剣の師匠の存在だった。
「いつもあっさり勝ってばかりじゃつまらねえからな。お前に花を持たせてやったんだよ。そんなこともわからずに、お前、自分が勝てると思ったろ? 残念だったな。あんないい女が手に入るってのに、勝ちまではお前にゆずれねえよ」
ほぼを勝ちを得たことにすっかりご満悦になったグェインだった。
レイルを打ちすえる手を休め、余裕たっぷりに言い放ったその言葉。もはや風前の灯火だったレイルの『戦意』を蘇らせたのは、グェインの勝利はユイリスの身柄が彼のものになってしまうという現実である。
単に自分が負けるだけならまだいい。
だが、自身の敗北はそれだけでは済まない。大切なユイリスをこのまま無為にグェインへ差し出すような結果に終わることなど絶対に許せなかった。
グェインに勝つしかない。
しかし、圧倒的に不利なこの状況をどう覆すか。
答えは自然と脳裏に浮かんだ。いや、蘇ったと言う方が正しいだろう。
――そうだ、ユイリスが教えてくれた『とっておき』だ。
成功する可能性が必ずしも高いわけではない。
外せば、当然意図することをグェインに気づかれると考えて然るべきだろう。それでもこの状況を打開するには、もはやあの『とっておき』ぐらいしか思いつかない。
打たれすぎてしまった今の体の状態を考えれば、機会は一度きりだろう。二度はないと考え、ただの一度の機会を活かす覚悟をすべき時だった。
レイルの心は一つだった。
「何!? なんだ、まだ動けるのか?」
グェインが驚く声を耳に受けながら、レイルは必死に河原を転がった。『とっておき』を行使するためには彼との間合いが近すぎる。距離を置くためにも、転がって間合いを取ったのだ。
「レイル君、諦めが悪いってのは感心しないなあ。男らしく、潔く負けを認めた方がいいんじゃねえか?」
嫌悪しか抱けないグェインの声。
だが、今はその声がありがたい。なぜなら、気配は読みきれずとも、グェインの声が彼のいる方角、彼と自分とのおおよその距離を教えてくれるのだから。
彼我の間合いが十分取れたことを確認できたレイルは、久しぶりに二の足で立ち上がり木剣を構えた。それがグェインの気に障ったようだった。
「なんだよ、この期に及んで自分の置かれた立場に気づいてないようだな。よし、わかった。そろそろ飽きてきた頃だ。勝負、決めさせてもらうぜ」
舌打ちしてそう吐き捨てた彼が歩き出す足音が聞こえる。グェインはとどめを刺しに来るつもりだ。
それでいい。それこそが『とっておき』を行使するに最も適した状況なのだから。
レイルは一度きりの機会を外さぬためにも、激痛が襲い来る両の目を少しでも開けようと試みた。
右目はあまりの痛さに開けることができなかった。左目も痛みは激しかったが、どうにか薄目を開けることに成功した。涙が溢れ出ているので見える光景も滲んでいる上、視界もほとんどない。
それでも近づいてくるグェインの姿、挙動を確認することができる。それで十分だ。
体中が痛い。立っているのもやっと。ただ、戦意だけは今日最も高かった。それが、極限状態に置かれながらも、冷静さを逆に高めていたのかもしれない。
わずか一瞬の機会を逃さぬべく、研ぎ澄まされた感覚が広がっていく。だんだんと、グェインが河原の砂を踏みしめる音しか聞こえなくなっていった。
その時が、やってきた。
「これで、終わりだ!」
高らかに宣言しながら木剣を掲げ、グェインが飛びかかってきた。頭上に迫る、グェインの木剣。
――今だ!!
ぎりぎりまで引きつけると、レイルは懸命の足捌きで後方へわずかに下がった。
必然、振り下ろされてきたグェインの木剣は目標を失いそのまま下方へ流れていく。その瞬間を待っていた。
持てる最後の力を振り絞って、レイルは腕を振るった。流れ行くグェインの木剣目掛けて。
それはまさに、後ろからの追い討ちとなった。
勢いがついていたところに、さらに強烈な打撃が与えられたのである。そのまま木剣を握り締めていることなど、できるわけがなかった。
あたかも抜け落ちるかのようにグェインの手から木剣は弾かれ、遠くへ飛んでいく。
だが、これで終わりではない。
ユイリスから授かった起死回生の技が真価を発揮するのは、次の一撃だったのだから。
思い切り振り下ろした木剣の力を殺さず、足を踏ん張り、膝のバネを上手く使って全てを反動に変える。
切り返される木剣。
滲む視界の向こうに一瞬垣間見えた、驚愕に染まるグェインの表情。
自然と放たれる絶叫。
鈍い音。
やってくる静寂。
全ては、終わりを迎えた。
人が倒れる、乾いた音が河原に響く。
後は、荒い息遣いだけ。
誰の息遣いか。紛れもなく、それはレイル自身の息遣いだった。
肩を大きく上下させて呼吸を繰り返したレイルは、そこでようやく自分が渾身の力をもって木剣を思い切り斬り上げたままの状態で固まっていたことに気づいた。
「勝負は、グ、グェインは!?」
我に返ると、慌てて宿敵の姿を探す。すると、すぐ目の前で仰向けに倒れ伏している男の姿が視界に飛び込んできた。
全ての力を使い果たしたため、もはや緩慢にしか動かない体に鞭打ち、木剣を捨てて男の元へと歩みよる。ゆっくりとしゃがみ込んで手を伸ばし、男の体を裏返した。
それは、悶絶したグェインだった。もちろん死んでなどいないが、凍りついたその表情には恐怖と、そして苦悶の表情がありありと浮かんでいた。
最後の一撃――まったくの無防備となったグェインへ下から渾身の力を思い切り斬り上げた一撃は、違うことなくグェインの体へと命中し、彼を河原へと沈めたのである。
勝利は、レイルと共にあった。
「やった……、俺、やったのか……?」
信じられない思いが胸一杯に広がっていく。
ただでさえ垂れ流しだった涙が、さらにこぼれた。
だからだろうか。急激に両の目から痛みが引いていく。恐る恐る瞬きをしてみると、左右いずれの目も見開くことができた。
いつの間にか、背後から胸に回されている細い腕に気づいた。背中からそっと抱きしめられていたのだ。
「心配したんだから。でも、本当によく頑張ったわ」
耳元でささやく、彼を心から労う声。顔を見ずとも、もちろんすぐにわかった。
姿勢を少し傾け、首を巡らし振り向く。
「おめでとう、レイル。貴方の勝ちよ」
彼に勝利をもたらした、彼の敬愛する師匠が、これ以上ない温かく優しい微笑みをその美しい面立ち一杯に湛えていた。