1.
雲一つない青空がどこまでも広がっている。全ての息吹に等しく恵みを与える太陽だけが天空を支配していた。
照りつける暖かい日差しをかざした手で遮りながら、短い袖の短衣にズボン姿のレイル=フュンフルは緑一面に覆われた丘を越え、釣り竿を肩に担いだまま栗毛色の短い髪を風になびかせて斜面を一気に駆け下る。齢14歳を迎えたものの、まだまだやんちゃなところは抜けきっておらず、そんな彼の活動的な性格を如実に表しているかのようだった。
昨日までの豪雨が嘘のような天気だが、彼の眼前に広がる丘の下を横切る形で流動している川は自然の猛威による爪痕を如実に残していた。
伝え聞く、西の国々を横切る大河ロアヌールの壮大さとは比べものにはならないだろうが、それでも普段より2倍近い川幅となった、サイレア近郊を流れるギョーム川を見るとあの豪雨がいかに壮絶なものだったか窺い知ることができる。普段ならば投げた石が対岸に届く程度なのだが、今同じことをしてもまったく及ぶべくもないだろう。
とはいえ、川に来た目的は石を投げて遊ぶなどという稚拙なことなどではない。肩に担いだ獲物がそれを表している。
本来なら豪雨の後などは川が荒れ濁っているため、魚たちも泳ぎ回らずじっとしており、釣りをするには適さない。
しかし、彼は知っていた。このような荒れた時こそ縦横無尽に泳ぎ回る魚がいることを。それが、この川の名を冠したギョームという魚であるということも。ここぞとばかりに喜び勇んで出かけたのはギョームを釣るためであり、今日ばかりは恒例の『特訓』も休むことにしたのだった。
「この辺りでいいや。ようし、釣るぞ」
竹から作った竿先に括りつけた木綿糸の釣り糸から垂れる釣り針を勢いよく放つ。否、放とうとした。
ところが、レイルの手は釣り針を放つことはなかった。彼の視線は川べりのある一点に凝縮されていたのだから。
それは、本来ならばそのようなところにはありえない光景。
濡れているものの暖かさとどこか優しさを感じさせる亜麻色の髪長い髪。対照的に白磁器のように透き通るようなうなじ。年季が入っているものの、身にまとった小奇麗な薄茶色の旅人が着るドレスは見るものに清潔感を感じさせるだろうし、濡れそぼった衣装のせいで浮き出てしまった身体のラインはほっそりと華奢で、あたかもよくできた人形のようだった。唯一、右手にしっかりと握られた長細いこげ茶色の無骨なトランクケースが清廉さを想起させる彼女とは対極の存在であったが。
レイルの灰色の瞳には、川べりに打ち上げられた1人の若い女性の姿が映りこんでいたのである。彼女はうつぶせに倒れ、身じろぎ一つしなかった。
呆気にとられ、反射的に釣竿と釣ったギョームを入れるために持ってきた木桶を取り落とす。大地に転がった木桶は乾いた音を立て、呆然としていたレイルの意識を逆に呼び戻した。
「し、死んでる、のか?」
死体を見るのは初めてではない。決して何度も見たい代物でもなかったが、今目の前で倒れている女性はかって見た死体とは似て非なるものだった。その肌艶は生きているようであったし、死体の身体が動くはずがない。
「い、息してる!?」
そう、動くはずがないのだ。彼女は死体ではなかった。呼吸をしているために、わずかながら肩が上下している。レイルは躊躇しつつも一大決心をし、恐る恐る女性に近づいた。
腰を屈め、そっと顔を覗き込む。その間にも反応は一切ない。
思い切ってしゃがみ込むと、恐々ながら女性の身体に手をかけ、彼女を仰向けに抱き起こした。彼女の身体はレイルよりも大きく、抱き起こすのに相当な力がいるのかもしれないと思っていたが、それはまったくの杞憂であり、彼女の身体は絹糸のように軽かった。
その身体の軽さに驚いたのもつかの間、レイルはさらに驚く光景を見せつけられることとなる。
小ぶりで、それでいてしっかりと高さの自己主張を忘れていない整った鼻筋。首筋と同様、白く透き通るような頬がほんのりと朱色に彩られ、ほっそりとした輪郭に包み込まれている。血色を失ってはいるものの、形の整った小さな唇は小花のような可憐さまでは失くしていない。
見たことがないほど美しい女性だった。閉じられたまぶたの奥にあるまだ見ぬ瞳も、間違いなく見るものを魅了するであろうと、ようやく青年への階段を昇り始めたレイルにも疑いなく信じられるほどに。
旅人から耳にする宮廷の貴婦人たちのきらびやかな美しさとは違う、清楚で気高い無垢なる美しさだった。
我を忘れて20歳前後と思われる彼女の美貌に魅せられ、引き込まれるように見つめてしまう。もっとも、それもすぐに終わることとなるが。なぜなら、彼女の頭から、額を伝って赤い筋が流れでていたのだから。
「た、大変だ! は、早く手当てしないと!!」
その肌とはこれ以上もなく不釣合いなほどの鮮血を見せつけられたレイルは我を取り戻した。
最初、自分より多きこの女性を抱えては連れて行けないだろうと腰を浮かしかけたが、すぐに先ほど見た目とは裏腹に至極軽かったことを思い出し、彼はそのまま女性を両手で持ち上げようとした。
ところがだ。身体自体はやはり驚くほど軽かったのだが、持ち上げようとした最中、彼女の身体に錨がついているかのように上がらなくなった。見ると、だらりと垂れ下がった先にはあのトランクケースがあり、意識を失っているのにもかかわらず彼女の手は取っ手をつかむことを止めていなかったのだ。
よほど大事なものが入っているのかもしれないが、今は中身を心配している暇はない。レイルは中腰になって彼女をかかえたまま、器用に取っ手の根元をつかんで彼女ごとトランクを持ち上げようと試みる。
「な、なんだこれ!?」
つい声を上げてしまう。それもそうだ。なぜなら、そのトランクケースはどれだけ力を込めてもわずかばかりも持ち上がることはなかったのだから。大地に根がはりついたかのような重さに、レイルは目を丸くする。
これほどの重さのあるトランクなど、この華奢な細腕でどのように持ち上げることができたのだろうか。だいたいが川を流されてきたと思われる現状下で、彼女とともに岸辺に流れ着けたということが驚きである。普通ならば川底に沈んだまま絶対に浮かび上がってはこないだろう。
美貌の麗人がこんな川辺で息も絶え絶えになっていることだけでも頭のなかが混乱しているのに、まったく不可解な現象が続き目を白黒させてしまう。
ただ、たった1つわかっている事実も彼は忘れていなかった。すなわち、このままでは腕のなかの女性の命が危ないということを。
レイルは思い立った。一旦女性を下に降ろすと、握り締めた取っ手から指をはがしにかかる。トランクを一緒に持っていけないのなら、ここに置いていくしかない。彼女にとって大事なものかもしれないが、命には代えられないだろう。それに、この辺りをうろつく人間はそうそういないし、なによりこれだけ重ければ容易に持っていけるなどということもないはずだ。彼女が回復したら取りに来てもらえばいい話で、今はとにかく一刻を争う。
固く握り締めた指を解くのは想像以上に困難だったが、それでもどうにか彼女からトランクを離すことに成功し、再度彼女を抱き上げる。今度は彼女の身体の軽さだけが腕の中を占めた。
とはいえ、彼の年齢で成人女性1人の、それも自分より大きい人物の身体を抱き上げるのは大変な労力を要するものだが、どうにか成し遂げられたのは普段から身体を鍛えていたことが功を奏した形だった。
が、自助努力が実を結んだ結果に喜ぶ余裕など今のレイルにあるはずもなく、一目散に小走りで村へと向うのだった。