249 終焉迷宮
崖を降りていく。
右手を下へと伸ばし、黒の短剣を壁に刺す。そのまま右足を降ろし、左手の石の短剣を壁の隙間に差し込む。左足を降ろし、そこから右手を伸ばし、黒の短剣を壁に刺す。
何度も繰り返し、ゆっくりとほぼ垂直に切り立った壁を、崖を降りていく。
降りる。
降りていく。
暗闇に吸い込まれるように降りる。
もう帰れない。
帰ることは出来ない。
もし帰るとしたら正規のルートを通るしかないだろう。それはどれくらいかかるのか。
……帰ることは考えないことにしよう。
徐々に陽の光が消え、暗闇に消えていく。それでも闇の中に手を伸ばし、降りる。
魔獣の襲撃はない。
穴の中心から押さえつける力が働いているからか、空を飛ぶような魔獣は存在していないようだ。
魔獣に襲われないのはかなり助かる。
暗闇の中を手探りで降りていく。
もう何も見えない。
今、自分が登っているのか、降りているのか分からなくなるような、深い深い闇の中を、それでも、ただただ、同じ動作を繰り返していく。
闇。
暗闇。
深淵。
降りる。
闇の中を、何も見えない中を降りる。
見えない。
光が届かない。
目を閉じる。
見えないなら、目に頼る必要はない。
目を閉じ、マナの光を探る。
深く、深く、地の底に、大きなマナの輝きが見える。無数のマナが蠢いているのが見える。
強大で強力な魔獣の輝きだ。
だが、その輝きは禁域の森で戦った強大なマナを持った四つの王ほどではない。
右腕に巻かれた銀の腕輪を見る。腕輪は何も答えない。
……。
今の自分なら、銀のイフリーダの力を借りなくても倒せるはずだ。
マナの輝きが見えたということは底が近いはず。
降りる。
降りる。
ただ、ただ、崖を降りる。
もうどれくらいの時間をこの壁で過ごしただろうか。何時間? 何日? 感覚が分からなくなってくる。
それでも降りる。
やがて、足が何かにぶつかった。
地面……?
足元に床が――地面を踏んでいる感触。
底に辿り着いた?
しかし、そこに強大なマナの光が生まれる。暗闇で見えないが、何かの影に魔獣が隠れていた?
マナの光は大きな筒のような形に輝いている。
これが強大な魔獣?
魔獣からはコキュコキュと何か呼吸音のような、何かを咀嚼しているような音が響いている。
そして、その魔獣から何かが伸びてきた。触手!?
前転するように飛び上がり、背中のマナの剣を引き抜く。
迫る触手をマナの剣で切り払う。
そのまま駆ける。
迫る触手を切り払いながら、巨大な輝くマナへと駆けていく。
背中の世界樹の槍を引き抜き、マナの力を込めていく。そして、そのまま駆け抜けながら、突きを放つ。
生まれたマナの煌めきが相手の輝きに大穴を開ける。
その一撃で相手のマナの輝きは消え、霧散していく。
恐ろしくも素晴らしい威力だ。だけど、その一撃だけで、自分の中の力がごっそりと奪われたような疲労感に襲われる。
これがマナの力を使った世界樹の槍? 威力は充分だが、何度も使えるようなものじゃない。これは、ここぞというときだけにしよう。
……。
にしても、底か。
ここが底なのだろうか?
それともさらに底があるのだろうか?
周囲は闇に閉ざされている。
そして、その闇に、次々と強大なマナの輝きが生まれていく。暗闇で見えないが、地面に潜って隠れていたのだろうか?
周囲からコキュコキュと耳障りな音が次々と聞こえてくる。
マナの剣と世界樹の槍なら問題無く戦える。でも、ここで消耗するわけにはいかない。
駆ける。
駆け抜ける。
闇の中を駆ける。
そこに上から強大なマナが降ってくる。巨大な――巨人の足のような輪郭を持ったマナの輝き。下半身だけの魔獣?
降ってきた強大な魔獣が、その巨大な足を振り回してくる。暗闇を、空間を震わせるような強力な一撃。
その一撃をマナの剣で受け止め、その勢いを殺すように、自身も後方へと飛ぶ。
勢いを殺したはずなのに、受け止めた一撃だけで意識が飛びそうになる。
気合いで耐え、その蹴り足を掴む。そして、そのまま巨大な足の上へと登り、そこを駆けていく。胴体部分を乗り越え、飛び抜ける。
相手にはしない。
このまま駆ける。
闇の中を駆ける。
いつの間にか、自身の周囲に強大なマナの輝きが増えていく。
カチカチと巨大なハサミを鳴らす硬そうな魔獣の輝き。
ずるずると這いずるような音を立てている蠢く輝き。
暗闇の中にいくつもの魔獣の輝きが見える。
そのどれもが、全力で戦わなければ倒せそうにないほどの輝きを持っている。
確かに、ここは危険な場所だ。
強大な魔獣。
そして、闇。
自分のようにマナの輝きが見えなければ、その強大な魔獣と戦う舞台にすら立てない。
いくつもの輝き。
この暗闇の中にどれだけの魔獣が隠れているのか分からない。
……。
帰ることは考えていない。
このまま駆け抜けるっ!
とにかく奥へ。
目的の場所は分かっている。
穴の中心。ただ、そこを目指せば良い。
感覚が分からなくなるような闇の中でも向かうべき場所だけは分かる。
そこを目指すだけだ。
すぐ近くに強大な輝きが生まれる。闇の中、とっさに見えない壁の影に隠れ、息を殺し――いや、自身のマナの輝きを抑え、隠し、現れた魔獣をやり過ごす。
この暗闇の中で生きている魔獣たちは、目でものを見ていない。こちらと同じようにマナの輝きでものを見ている。
ならば――マナの輝きを抑えれば、何とかやり過ごせるはずだ。
暗闇の中を穴の中心を目指して進む。
と、そこで自分の足が止まった。
……喉が痛い。
腰に付けた水筒を外し、水を飲む。喉が潤う。ほっと一息。
いつの間にか、自分でも気付かないくらい喉が渇いていたようだ。それだけの緊張感の中に、今、自分は立っている。心の疲労と喉の渇きで足が止まったようだ。
走る手さんに作って貰った水筒で命を繋ぐ。
落ち着こう。
周囲には、何処にも、至る所に、恐ろしい魔獣の気配が満ちている。マナの輝きの炎がほとばしっている。
一匹なら全力で戦えば倒せるだろう。でも、その間に他の魔獣が寄ってきたら?
一匹一匹は処理できても、いずれ、その数に負けてしまう。
落ち着こう。
落ち着いて慎重に進もう。
魔獣から逃げるように、隠れるように、闇の中を進む。
慎重に進む。
進む。
隠れて進む。
闇の中を歩く。
歩く。
やがて、前方に光が見えてきた。
目を開ける。
マナの輝きではない、人工の光だ。
ろうそくの明かり? それとも宮殿にあったような暗闇で光る謎の装置だろうか。
あそこが穴の中心だろうか?
光の近くには魔獣の姿が見えない。
魔獣が、あの光に近づくことは出来ないようだ。
光を求めて歩いて行く。
本棚や机、そしてよく分からない器具が並んでいるのが見える。
あれは錬金小瓶?
いくつもの錬金小瓶が机に並んでいる。その錬金小瓶の中にはよく分からない桃色のぐにゃぐにゃとした物体が浮かんでいた。
何だろう?
ここは何だろう?
何処か、懐かしく、何処か怖い。
そう恐怖を感じている。
近寄ってはいけない。
近寄りたくない。
なのに、足が、勝手に、動き、光へと近づいていく。
吸い寄せられる。
ここは――駄目だ。
なのに……。
そして、その光の中、椅子に座った老人が居た。机に向かって何かの作業を行っている。
人、ヒト、だ。
知っている、分かっている。
老人が手にしていた何かを机の上に置き、椅子ごと、こちらへと振り返る。
老人に見覚えはないのに、ないはずなのに!
恐怖で体が動かない。
老人がこちらを見る。
そして、老人が口を開く。
「やっと来たか」
やっと?
この老人は自分を待っていた?
駄目だ、危険だ。
「待っていたぞ、俺よ」




