197 鬼
あのカノンさんと戦ったのだ。撤退した鬼の負傷は大きいはずだ。
……。
カノンさんが鬼を追えと言った理由。
簡単だ。
カノンさんは自分と戦ったことがある。こちらの実力は把握しているはずだ。つまり、今の自分の実力では、銀のイフリーダの力を借りたとしても、鬼が負傷している今しか倒すことが出来ない――そういうことだろう。
だから、この好機を逃さないために追えと言っているのだ。
カノンさんと共闘が出来ていたならば……。
自分があの時、洞窟の探索を行うなんて判断をしなければ……。
首を横に振る。
後悔からは何も始まらない。今は急いで鬼を追うべきだ。カノンさんたちと戦ってからそれほど時間は経っていないはず――それに相手は負傷している。
すぐに追いつけるはずだ。
急ごう。
「ま、待って! 私も行く!」
と、そこへ待ったがかかった。
……真っ赤な猫耳だ。
「あなたはここで待っていてください。ここで負傷したカノンさんや、あなたの妹を守ってください」
カノンさんがやられてしまうような相手だ――真っ赤な猫耳が一緒に来たとしても戦力にならないだろう。
それなら、ここで待ってもらった方が良い。
しかし、真っ赤な猫耳は首を横に振る。
「私も行く。彼女がやられた相手だもの。私程度がここを守っていたところで……」
真っ赤な猫耳がこちらを見る。
とても鋭い、強い意志を感じさせる瞳だ。
「だから、私は行く。私の力が足りないから、だから、少しでも役に立てることをする!」
……。
「それは命をかけると言うことです」
「元からそのつもり」
真っ赤な猫耳は睨むような瞳でこちらを見ている。
守る、鬼を追う、どちらにしても力が足りていない。やられるのが同じなら、少しでも戦力になる方に、か。
「分かりました。好きにしてください」
鬼との戦い、この真っ赤な猫耳を守っている余裕なんてないだろう。この真っ赤な猫耳は一瞬で殺されてしまうかもしれない。でも、本人が、それを覚悟の上だというのなら……。
これ以上、問答をしても時間の無駄だ。
もう、好きにすれば良い。
「ありがとう」
真っ赤な猫耳が頭を下げる。
そして、そのまま妹の青髪の方へと振り返る。
「ラーラ……」
「姉さま……」
青髪の少女が真っ赤な猫耳を見つめている。
「ラーラ、アーケイディアの家をお願いします」
「それは姉さまが!」
真っ赤な猫耳は首を横に振る。
「こんな獣人の血が混じったまがい物よりもあなたの方が相応しいから。私の妹のラーラならしっかりとやってくれるはず」
「姉さま、わ……かりました」
青髪の少女がゆっくりと頷く。
ここから先、本当に命をかけることになる。
急いでいる。急いでいるが、お別れをする時間くらいは……。
「お待たせ。早く、行こう!」
二人のお別れは済んだようだ。
「ああ」
早く鬼を追いかけよう。
「行きます」
海草の森を進む。
海草の森の地面には、ところどころに紫色の液体が付着しており、それが奥へと続く道のようになっていた。
これは負傷した鬼の血か、それとも爛れ人の血か。
どちらにせよ、この跡を追いかければ追いつけるはずだ。
紫の染みを頼りに海草の森の中を進む。
「ありがとう」
しばらく進んだところで真っ赤な猫耳が声をかけてきた。
「お礼ならさっき聞きました」
「今回の旅で私がどれほど力が足りていなかったか、自覚できたの……」
真っ赤な猫耳がぽつりぽつりとしゃべり出す。
「私は、私がどれだけ思い上がっていたか気付いていなかった。私の実力が通じる内はそれでも良かった、でも……」
真っ赤な猫耳は海草の森の中を駆けながら、まるで独り言のように呟いている。
「今だって、私の判断があなたに迷惑をかけている。うん、分かっている」
真っ赤な猫耳と海草の森を進む。
「私は変わりたい……」
海草の森は続く。
負傷したはずの鬼に未だ追いつけない。
「もし良かったら、その手伝いを……」
真っ赤な猫耳と海草の森を進む。
「ううん、そうね。これが、間違っている。私は、私の力で……」
そして、海草の森が途切れた。
途切れた先に、それは居た。
負傷した爛れ人を従えている存在。爛れ人の数は多くない。しかも負傷している。この数なら、自分でも余裕で勝てる。
……。
だが、その中心に……。
その中心にいるものを見た瞬間、体が震えた。
「待てっ!」
鬼の足を止めるため、体の震えを追い払うため、叫ぶ。この強さの相手に自分が不意を突けるとは思わない。
「待てっ!」
だから、相手の足を止めるために叫ぶ。
鬼がゆっくりこちらへと振り返る。
鬼。
これが鬼か。
その姿は……人だった。
全身、黒ずくめの金属鎧を身につけ、角の生えた兜をかぶっている。手に持っているのは人と同じほどの大きさの両刃の斧。それを片手で持っている。
黒く輝く金属製の兜に覆われ、その顔は見えない。兜の下からは長く伸びた黒髪だけが見えていた。
「人が、このような場所に」
鬼から、顔を覆う兜を身につけているからか、くぐもった声が聞こえた。
鬼の言葉には知性がある。意志を感じる。
「……後ろに居るのはアストレアか。追ってきたのか?」
鬼がこちらを見ている。
鬼との距離は……まだ開いている。
攻撃の間合いには……。
ゆっくりと鬼の方へと歩く。
「ここは人が生きていける場所ではない。私たちのことは忘れ自分の国に帰るがいい」
鬼……いや、人だ。
会話が成り立つ、人だ。
「自分は強大なマナを求めて、ここまで来ました」
言葉が通じるのならば……。
「私たちは静かに暮らしたいだけだ。それだけだ。何故、力を求める。あれは、あれには、命をかける価値などない」
ゆっくりと近づく。
この人は強大なマナを持った存在ではない。だが、それを守る者のようだ。
「もう一度だけ言おう。私たちは、この谷で静かに暮らしたいだけだ。命が惜しくば引き返せ」
黒ずくめの鎧が片手で持った巨大な戦斧を持ち上げる。
さあ、どうしよう。
アストレイ。道を外れて、堕落して。




