192 毒の谷
まるで滝のように毒水が流れ落ちている。メロウさんたちが、その崖の上に糸を伸ばし、ゆっくりと降りていく。
何処が毒の発生源かは分からないが、この毒沼で発生した毒水が、こちら側に流れ落ちているということは、ろ過されて小川になっているという自分の考えは間違っていたようだ。
逆方向だ。
……。
いや、そうでもないのか?
この谷の下から回り込むように巡り巡って小川に繋がっている可能性だってある。毒水をろ過するという行程を考えれば、それくらい遠回りしなければ出来ない事かもしれない。
多分、それが正解だ。何故か、それが正しいと思った。
「背から落ちないように気を付けるのだ。堅い外皮に覆われた私たちならまだしも、ヒトシュが落ちれば、その毒によって体が腐れ落ちるのだ」
黄色と緑色が混じった異様な液体がボコボコと気泡を生みながら流れ落ちている。
毒の空気……。
これは、この場所に長居するだけでも危ないかもしれない。
……。
いや、それなら、銀のイフリーダが現れて危ないと教えてくれているかな。
うん、そうだ。銀のイフリーダとしても、強大なマナの近くまで迫りながら、自分に、そんなことで倒れて欲しくないはずだ。
危険なら教えてくれるはず。
つまり無視できるほどの毒素でしかないということだ。
「ごほっ、ごほっ」
と、そんなことを考えている自分の後ろで、大きな咳の音を聞き、そちらへと振り返る。
するとメロウの一人の背中の上で、真っ赤な猫耳が苦しそうに大きな咳を繰り返していた。
「姉さま、癒やしの力を使います」
青髪の少女の言葉を、真っ赤な猫耳が無言で首を横に振り、手で遮っている。
「あのヒトシュは混ざっている分、ここの毒がキツいのかもしれないのだ」
混ざっている?
「大丈夫でしょうか?」
「分からないのだ。私も里長から少し聞いたことがあるくらいなのだ。ここの毒は、元々は獣の体を持った者達を殺すため、近寄らせないため……だったと聞いているのだ」
獣の体?
真っ赤な猫耳は獣のような耳と尻尾を持っている。あの亡霊を小さくしたような感じだ。
「大丈夫か?」
真っ赤な猫耳は口元に手を当て、無言で頷いている。
大丈夫だと思いたいが、どうだろう。
「下の方が毒気は薄いはずなのだ。急いで降りるのだ」
カノンさんたちが気を利かせて、急ぎ、崖を降りてくれる。
落下するような速度だ。
下の方が毒の空気がたまっている分、危なそうなのだが、違うのだろうか?
毒の沼から生まれた毒気は上へと上がっていくから、上の方が毒が濃い? いや、普通は、発生源に近い方が濃いと思う。
謎だ。
どういうことだ?
メロウの皆さんが見えない糸を器用に操り、落ちるように崖を滑っていく。
崖下が、地表が見えてくる。
毒気の謎は――地表が、毒の川と陸地が見えてきたことですぐに解消した。
崖下を流れている毒の川、その陸地部分に、ゆらゆらと揺れる海草のような植物が無数に生えているのが見えた。
その海草の周辺だけは、淀み、重くなっていた空気が綺麗になっている。
海草が毒を吸って浄化している?
海草はかなり大きい。自分の背丈の二倍、三倍? カノンさんたちでも埋もれてしまいそうなほどだ。海草の上部には毒の空気がたまっているのが見える。しかし、下の方は不思議なほど綺麗な空気になっている。
海草の森の中へと降りる。
「ここが鬼の住む谷ですか?」
「うん。間違いないのだ。ただ、私もあまり来たことがないのだ。済まぬが、これ以上の道案内は出来ないのだ」
カノンさんが肩を竦めている。
「メロウの皆さんはあまり来ない場所なんですか?」
「そうなのだ。ここに住む鬼とは敵対しているのだ」
そういえば、カノンさんたちメロウの種族は争いを好まないと言っていた。敵対している種族との争いを避けるために近寄らなかったのだろう。
ただ、それは、つまり……。
「ここからは鬼に襲われる可能性があるということですよね」
カノンさんが頷く。
さて、どうしよう。
真っ赤な猫耳の体調はあまりよろしくない。ここで休憩をした方が良いかもしれない。
それに、だ。ここは敵地――その入り口だ。
奥に行けば行くほど、危険度が増すだろう。
今の、この危険度が少ない段階で休憩をした方が良いかもしれない。
よしっ。
「ここでいったん休憩をとりましょう」
「うん。それが良いのだ」
カノンさんも賛成してくれる。
しかし、それに反対する者が居た。真っ赤な猫耳だ。
「わ、私が!」
首を横に振る。自分が足手まといになったと思ったのだろう。
「違います。ここから先は敵の住処です。安全に休める今のうちに休んでおこうという考えです」
「それはっ!」
真っ赤な猫耳が大きく、その猫目を見開き、こちらを見ている。
「そうなのだ。気にする必要はないのだ」
カノンさんが妙に優しい。
「分かりました……」
真っ赤な猫耳がゆっくりと頷く。
「うんうん。分かれば良いのだ。では、すぐにここに拠点を作るのだ」
カノンさんの指示で野営の準備が始まる。
真っ赤な猫耳とメロウの皆さんの仲は良好だ。ここに来る途中、野宿を行った時に真っ赤な猫耳がカノンさんに謝罪をしたということは聞いている。それが良かったのだろうか?
「では、皆さんが野営の準備を行っている間、自分は周辺の見回りに行ってきます」
「うん、頼んだのだ」
ここの守りはカノンさんが居れば大丈夫だ。その間、周辺の安全を確かめよう。
その見回りへと向かう前に真っ赤な猫耳に声をかける。
「本当に大丈夫?」
真っ赤な猫耳がゆっくりと頷く。
「少し気分が悪くなっていただけだから……」
そして顔を上げ、猫のような瞳でこちらを見る。
「あの人たち、優しいよね。私、酷いことを言ったのに許してくれて、それに話してみたら凄く穏やかな人たちで……」
穏やか?
力こそ全てなメロウの人たちは穏やかという言葉からは遠い種族のように思う。
多分、この真っ赤な猫耳が相手にされていないだけなのだろう。人が小動物を愛でるような、そんな感じでしか見られていないのだ。
いや、それをこの真っ赤な猫耳に教える必要もないか。
「私、足手まといにしかなっていないのに……あなたも優しいよね」
真っ赤な猫耳の意外な言葉。
「あー、はい。そうですね。休憩が終わったら出発しますから、無理せず休んでください」
この真っ赤な猫耳は体調が悪くなって弱気になっているのかもしれない。
さてさて、見回りに行ってこよう。
ここに住む鬼とやらに出会わなければ良いのだけれど……。
いや、出会った方が良いのか。出会って倒してしまえば、後は楽に探索が出来る。
ついに、最後の強大なマナの存在の近くまで――近くまでやって来たのだ。




