182 絡新婦の里
「その、里までは距離があるのでしょうか?」
ここは大きな木々が手を伸ばし、陽を遮った薄暗い森の中――そこには腐った落ち葉が敷き詰められ姿を隠した沼が何処までも広がっている。
この先に人が住めるような里があるとは思えない。
「うむうむ。もうすぐなのだ。里は外から見えないように隠してあるのだ。ソラ、もう少しで里に辿り着くのだ」
カノンさんが蜘蛛足をガショガショと動かし歩く。
ゆっくりと動いているようで、それなりの速度が出ている。
そして、徐々に霧が濃くなってきた。
漂う霧、薄暗く、歪に伸びた巨大な木々、腐った落ち葉と落ち葉の隙間から見える毒の沼。毒の沼からは時々、気泡が生まれ、周囲に毒の空気をまき散らしている。
とてもではないが、人が住める場所には見えない。
そんな中を巨大な蜘蛛が進む。この背中から滑り落ちたら大変なことになりそうだ。
「抜けるのだ」
恐る恐る、下に広がる地獄の光景を眺めていた自分にカノンさんの声がかかる。
「え?」
そして、抜ける。
霧が消える。
その先は、木造の建物が並ぶ不思議な場所だった。
振り返る。
振り返った先には石で作られた門があった。石の門には扉が取り付けられていない。ここを通り抜けた? 石の門の姿なんて何処にもなかったはずだ。
そして、その門の先は白い霧に包まれている。こちら側からでは先が見えない。
不思議な光景だ。
蜘蛛糸を伝い宙の浮いていたカノンさんが地面へと着地する。その蜘蛛足が節の部分まで埋まる。ここの地面はドロドロになっているようだ。
ここがカノンさんの種族の里?
「あ、お嬢だ」
「お嬢が帰ってきた」
呆然と周囲を見ていたこちらへ幼い声がかかる。
声の方を見れば小さな子どもの姿があった。仲良く遊んでいたと思われる子どもたちがこちらに手を振っている。その子どもたちは一枚の布を右と左で重ね合わせたような服を着ていた。普通の女の子たちだ。
……?
が、その姿がおかしい。
子どもたちの上半身しか見えない。下半身が地面に埋まっている。
「お嬢、後ろのはおやつ?」
「お腹空いた」
子どもたちはこちらを見て、そんなことを言っている。
後ろのとは自分のことだろうか? 恐ろしい。
「……違うのだ。失礼なことを言うとへし折るのだ」
カノンさんが腰に手を当て、怒るような感じで話しかけると、子どもたちの姿が地面の中に消えた。それこそ、ズボンという感じで埋まった。
「まったくやんちゃな奴らばかりなのだ」
……。
今、地面の中に消えたよね?
カノンさんたちは地中で暮らす種族なのか? でも、そう考えると木造の建物が並んでいるのはおかしくないだろうか。
偽装?
いや、その割にはしっかりとした造りの建物だ。リュウシュの皆さんの技術に劣らない――それどころか細工に至っては超えているように見える。
元からあった建物を利用した? もし、そうだとしたら木造の建物が劣化していないのが説明出来ない。しっかりと手入れされている。
……。
いや、おかしい。おかしいぞ。
地面はぬかるんだ泥のようになっている。その上に、なんで普通に家が建っているんだ? どういう技術だろう?
頭がおかしくなりそうだ。
「この里は良い場所なのだ」
何処か得意気なカノンさんが地面にズボズボと蜘蛛足を埋めながら歩いて行く。
ここでヒトシュは生活出来なさそうだ。
「そうですね。ところで人の姿が、先ほどの子どもたちくらいしか見えないようですけど……」
建物の姿は見えるのに、その通りには誰もいない。
「ああ。なるほどなのだ。ヒトシュのソラには人が居ないように見えるのだな。人は、皆、下なのだ」
下?
地中ってこと?
この泥の中で暮らしている?
「それって服が泥だらけになりませんか?」
そんな自分の素朴な疑問を聞いたカノンさんが大きな声で吹き出し、笑った。
「ソラは変なことを気にするのだ。そこは……うん。他種族には分からないだろうが、大丈夫なのだ」
カノンさんは何処か上機嫌で楽しそうに歩いて行く。
と、その足が止まった。
「ソラを里長のところに連れて行くつもりだったのだが、ちょっと寄り道しても良いだろうか?」
蜘蛛の上にある上半身がこちらへと振り返る。
「あ、はい。そこはお任せします」
「かたじけないのだ」
そして、カノンさんが人部分の腰の辺りを、蜘蛛とくっついている辺りをポンポンと叩く。
「どうにもカ……武器がないのは落ち着かないのだ」
カノンさんが蜘蛛足を泥の地面に突き刺しながら歩き、一つの建物の中に入る。
建物の中には床板がなく、地面がむき出しになっていた。平屋で二階や床板がない建物。側だけを作っている感じなのだろうか?
そこに人の上半身が埋まっていた。そう、埋まっていた。
「お嬢、どうしたのだ? 後ろのは狩りの獲物か?」
埋まっている人が喋る。
「違うのだ」
カノンさんが首を横に振る。
子どもたちの言葉もそうだが、カノンさんの種族は普通に人を食べる種族のようだ。このまま調理場へと運ばれないか、少しだけ不安になる。
「コギツネが折れたので、次が欲しいのだ」
「折れた、折れただと!」
埋まっていた人の周辺の地面がボコボコと盛り上がった。あそこに何が埋まっているのだろう。
「うん。折れたのだ」
カノンさんは笑っている。
もしかすると折れたというのは、カノンさんが持っていた反りのある細身の剣のことだろうか。
「あれほどの大業物を折るとはお嬢の腕を見誤っていたのだ」
埋まっている人の周辺の地面が激しく揺れている。本当に何が埋まっているんだろうね。
「違うのだ。正しくは折られたのだ」
カノンさんはさらに豪気に笑う。
……えーっと、それを折ったのは自分です。
「折られた? お嬢ほどの使い手が!」
埋まっている人は先ほどとは矛盾するようなことを言っていた。
「うん。この背のソラに折られたのだ」
カノンさんは、それを何処か誇らしいことのように――自慢するように伝えた。
「なるほどなのだ。だから、お嬢が背に乗せているのか。分かったのだ」
「うん。分かって貰えて良かったのだ」
埋まっていた人の地面が盛り上がり、その下から巨大な蜘蛛の顔が姿を現す。その蜘蛛の口には鞘に入った剣があった。
やはり簡単に折れてしまいそうな細身の剣だ。
「ユキウサギ。コギツネほどではないが、これも大業物の一つなのだ」
「助かるのだ」
カノンさんが身をかがめ、相手の蜘蛛口から器用に剣を受け取る。
「それにしてもお嬢の技を超えるものが居るとは……しかも、それがヒトシュとは意外なのだ」
「うん。だからこそ、凄いと思ったのだ」
カノンさんは、そんなことを言いながら、鞘から剣を抜き放ち、その刃先を眺めていた。武器の状態を確認しているのかもしれない。
「ソラ、待たせたのだ。では、里長のところに向かうのだ」
「あ、はい。お願いします」
にしても、里長か。
その人物が強大なマナを持っている存在なのだろうか?
それとも?