145 心の炉
階段を抜けた先は氷に包まれた玉座だった。
これは玉座の裏側?
玉座の裏に尖塔へと繋がる道があった? 何故?
いや、今はそれどころじゃない。
戦いを……。
かなり広めに作られた玉座の間、その場にあったのはスコルと――そのスコルと同じような姿の青い狼たちの戦いだった。
無数の青い狼たち。それらを相手にスコルが戦っている。
そして、その戦いを見ている、スコルよりも一回り大きな青い狼。
その巨大な狼の背には……、その背には、背には……。
その姿を見た瞬間、心が凍った。
スコルとともに戦おうと思った気持ちが凍っていく。
心が凍る。
それは人の形をした異形だった。元々は少女の姿だったのか、その原形は残っている。しかし、その体は、その肌は、裂け、そこを埋めるように氷が張り付いているような状況だ。
まるで氷の塊が少女の皮を被っているような――そんな異形だ。
その姿は、その姿は……見ているだけで、戦う為の情熱が消えていく。
その頭には氷で作られた王冠が乗っている。
氷の……女王。
これが、これが、吹雪の元凶!
心が凍っていく。
戦う為に駆け出そうとしていた足が止まる。
あんなものには勝てない。戦いを挑む相手ではない。
その氷の女王がこちらを見る。
ああ、気付かれてしまった。玉座の後ろに隠れてやり過ごせば良かったのに……いや、違う。気付かれる前の隙を突くべきだったのだ。
しかし、もう遅い。
氷の女王の命令で、スコルと戦っていた青い狼の一部がこちらへとやってくる。もう駄目だ。食い殺される。足が動かない。体が凍ったように動かない。逃げないと、せめて逃げないと……。
『ソラよ、どうしたのじゃ!』
銀のイフリーダが現れ、その叫び声が頭の中に響く。しかし、体が動かない。心が凍ってしまって返事をすることすら出来ない。
駄目だ。
青い狼たちが、こちらへと迫る。
と、そこでスコルが吼えた。
スコルの咆哮。
それを聞いた瞬間、凍っていた心に小さな火が灯った。
小さな――それはとても小さいが、戦う為の意志が、生まれた。
こんな、こんなところで死んで、死んでたまるか!
体が動く。まだ、体は凍り付いたかのように固いが、それでも動かせる。
青い狼が、こちらへと飛びかかってくる。それを、すんでのところで回避する。
危なかった。あのままだと、そのまま食いちぎられ、殺されていた。
飛びかかってきた青い狼は、攻撃を回避されたのが意外だったのか、小さく唸り、こちらと距離を取る。青い狼たちが、自分を包囲するように、くるくると円を描いて回る。その数は四匹。スコルが相手にしている数と比べれば、たいしたことのない数だ。
しかし……。
『ソラよ、大丈夫なのじゃな?』
銀のイフリーダが心配そうな顔でこちらを見ている。
『大丈夫じゃない。あの、あれの上にいる、あの姿を見た瞬間、戦えなくなったんだ。今も、恐怖で……立っているのがやっとだよ』
そうだ、自分はあれに恐怖している。
吹雪の元凶、氷の女王。
強大なマナの持ち主。
吹雪を止めるために、語る黒さんを救うために、戦わないと駄目な存在だ。
なのに、なのに、なのに。あの存在を見た瞬間、心が折れた。戦う意思が砕けた。
自分の周りを――取り囲んだ青い狼たちが、こちらの隙を狙って動いている。
駄目だ。体が思うように動かない。重い。こちらは、未だ武器すら構えていない状況だ。
青い狼の一匹が飛びかかってくる。
動け、動け、動け!
何とか体を動かし、身を捻り、青い狼の攻撃を回避しようとする。しかし、回避しきれない。その牙が左腕の一部を切り裂く。毛皮のマントが裂け、血が飛び散る。
熱い、痛い、重い。
攻撃してきた青い狼は再び、こちらを取り囲む円に戻る。このままではなぶり殺しにされてしまう。
『ソラよ!』
銀のイフリーダの叫び声が頭の中に響く。
無理だ。
『体が動かない。心が動かない。駄目だよ、心が凍ってしまった』
それを聞いた銀のイフリーダが心配そうな顔を止め、ニヤリと笑う。その銀のイフリーダの不敵な笑みに、少しだけ心の中がざわめいた。
『分かったのじゃ。ソラよ、今、お主は、あれから攻撃を受けているのじゃ』
銀のイフリーダが、指を伸ばし、突きつける。それは見てはならない、あの恐怖の存在――氷の女王を指差しているのだろう。
『それは戦う意思を挫き、心を凍らせる邪法なのじゃ』
今の自分の状況が氷の女王からの攻撃?
この心が折れた、心の凍り付いた状況が?
『ソラよ、あれの攻撃を跳ね返す神法も、強い戦う意思を生み出す神技もあるのじゃ』
なら、それで自分を強化して……。
しかし、銀のイフリーダは首を横に振る。
『ソラよ、お主は、それを自分の意志で、自分の心によって打ち破らねばならぬのじゃ。これは、この先に進むために必要なこと。お主には『必ず』必要になることだったのじゃ。それが今、来ただけなのじゃ。これを機会とするのじゃ』
戦うための意志。
こんな恐怖を自分の心だけで跳ね返すなんて……無理だ。
自分の心は、もう折れてしまっている。
銀のイフリーダは不敵な笑みを浮かべ、言葉を続ける。
『ソラよ、心に、自分の中の炉に火をともすのじゃ。マナに頼らぬ、人の意志、それが魂――くべるのじゃ、それが、お主の言葉なのじゃ』
銀のイフリーダの言葉。
魂。
心の在処。
戦う力……。
心を強く持とうと、戦う意志を甦らせようと考える。願う。
しかし、こちらを囲んでいる青い狼たちは、それを待ってはくれない。
青い狼たちが飛びかかってくる。それを何とか回避しようとして、回避しきれず、切り裂かれる。先ほどと同じだ。
自分の血が周囲に飛び散る。
血、血だ。
血が流れ落ちている。
このままでは、不味い。
何とか、何とか、しなければ……。
重い体を動かし、緑鋼の剣を鞘から引き抜き、構える。何とか構えてみたが、油断すると、その構えが崩れそうになる。あんなに軽かった緑鋼の剣が……重い。
心。
魂。
意志。
分からない。
こちらを取り囲んでいる四匹の青い狼は未だ健在だ。
当たり前だ。
自分は何も出来ていない。あらがえていない。
何とか……。