001 人化
気がつくとそこは見知らぬ場所だった。
空が――青い空が見える。
青い、何処までも続くかのような空。流れる雲が、とても綺麗だ。背中に感じる草の感触と青臭い匂い。体を起こす。で、ここは何処なんだろう?
ん? 視界が――見えているものが思っていたよりも、想像していたよりもずいぶんと低い。自分の背が縮んだのかな? 自身の手を見る。思っていたよりもずっと小さな手のひら。握り、開く。うん、普通に動く。
自分の体を見る。記憶していた体よりも明らかに小さくなっている。それに自分の着ている物だ。何だろう、肌触りが悪くゴワゴワとした、少し茶色く汚れた、ただの布を人の形に切り抜いただけ、そんな形の簡単な布の服を着ている。自分は、いつ、何処で着替えたんだろう? 分からない。
不安に思い周囲を見回す。自分が寝転がっていた、そのすぐ近くに湖、そして、湖の周囲に――取り囲むような形でたくさんの木々が生えている。ここは森の中のオアシスなんだろうか? 木の上にはリスのような小さな動物も見える。生き物。そして自分の記憶にない場所。
湖の方へと歩く。向こう岸が遠い。本当に遠い。泳いで渡るのは苦労しそうな距離だ。湖の、水の中は澄んでいるのに、底が薄暗く見通せない。かなり深いのかな? そして、うっすらと魚らしき影が見える。生き物がいるってことは飲める水なんだろうか?
湖の前でしゃがみ込む。そして、水面に映った自分を見る。これが俺? ある程度予想していたが、凄く幼い。黒髪、黒眼の10歳にもならないような子どもの姿。小さな自分の姿。
手を伸ばし湖の中へと差し入れる。冷たい。そして、そのまま掬い飲んでみる。やっぱり冷たい。
……。
大丈夫だよね? 飲める水だよね?
少しだけ待ってみるが、お腹が痛くなるようなことは無かった。これは飲める水だということなのかな?
ほっ。少しだけ、水が飲めたことで少しだけ安心する。
にしても、本当にここは何処なんだろう?
湖と森。自分の記憶の中には無い場所だ。ん? そもそも自分は……そうだよ、記憶がない。俺は誰なんだろう?
いや、考えるのは後だ。それよりも、自分はここから生き延びないと……。
まずはどうしよう?
森を抜けて人里を探す? 人里がある保証も無いのに?
湖を見る。そう、ここには幸いにも飲める水がある。ここを拠点として、探索範囲を広げ、そして人里を目指す。それが一番だろうね。
となると見るべきは森かな。
森を見る。森は深く、陽射しを遮るほど深く生い茂っている。この中を進むのは少し怖い。でも、この湖の周りにずっと居続けるわけにもいかない。だから少しずつ様子を見よう。
森の方へと進む。すると木の下に光るものが見えた。近寄って、確認する。それはボロボロになった金属鎧だった。鎧? 装飾が剥げ落ち丸くなった兜にベコベコの鎧、小手、具足。人の手による加工品があるってことは人が居るってことだよね? 金属で作られた重装な全身鎧をよく見る。って、ひっ。金属鎧の下には骨があった。白骨死体だ!
骨、骨、骨、骨だ!
ボロボロの金属鎧の下から骨が見えている。丸くなってしまった兜の下から骨が恨めしそうにこちらを見ている。そして、その骨の近くに折れた剣があった。武器……だけど、余り近寄りたくない。近寄りたくないよ。この骨を見ていると不安に――嫌な気分になってくる。
骨を避け、森の中に入る。その瞬間、寒気が、体の上を怖気が走る。ひっ、何かに見られている?
すぐに森から出て湖の近くまで戻る。今、森の中に入るのは不味い。まだ早い。今の自分では森の中の何者かに食い殺されるだけだよ。怖い、怖い。この何者かの視線が消えてから、それから森の探索だ。
湖の近くまで戻り、視線が、体に走った怖気がおさまるのを待つ。
日が陰り、世界を紅く染めていく。
「夕暮れ……? こんな、こんな状況で夜になるの?」
なんとか、なんとかしないと……。
そして夜の帳がおりる。何も解決策が思いつかないまま、夜になってしまった。どうしよう?
って、ん?
焦燥感を覚えるほどの肌のひりつきが消えた。え? 何でだろう? もしかして夜になったからかな?
……。
だからといって夜の暗闇の中、何が住んでいるのか分からない森を抜ける気にはならない。このまま安全な湖の近くで待機だね。そして、朝になって日が昇ったら探索しよう。
湖でしゃがみ込み、体力を消耗しないように膝を抱えてじっと座り込み夜が明けるのを待つ。そして、気付かずにうとうとし始めたところで夜が明けた。
……お腹空いた。
冷たい湖に手を入れ、水を掬う。そして顔を洗い、眠気を取る。その後、水を飲む。冷たい。お腹空いた。
森の中で何か食べられるものが無いか探してみよう。
ゆっくりと森の中へ足を踏み入れる。今度は何も起こらない。鳥肌が立つ、そんな、肌がひりつく――怖気が走る感覚は起こらない。よし、これなら何とかなりそうだね。
湖の位置を確認しながら、場所を記憶しながら、ゆっくりと薄暗い森の中を歩いて行く。そこかしこから色々な生き物の気配がする。音を、身を潜め、こちらを遠巻きに様子をうかがっているような、そんな印象を受ける。
歩く。
森の中を少し歩いていると、何かのしずくが頭の上に落ちてきた。水……?
ポツポツとしずくが落ちてくる。何だろう?
上を、空を見る。木の枝がしなり、葉を揺らし、葉からしずくが落ちてくる。うん? 落ちてくる水の量が増えてくる。ざあざあと何かが空から落ちてくる音が聞こえ始める。
もしかして?
森の中から湖の方を、開けた方を見ると、空からたくさんのしずくが降り注いでいた。あれだけ晴れ渡っていた空も黒い雲によって隠れてしまっている。雨、雨が降っているんだ! 何で、こんな状況でさらに雨が……。
木々の間から、葉と葉の間から雨のしずくが落ちてくる。雨が体に落ち、布の服を湿らせる。濡れて重くなっていく服が気力を削る。雨のしずくが体力を奪い、空腹と眠気が重くのしかかる。木によりかかり、息を吸う。だめだ、心を強く持たないと。
じりじりと身を焦がすような焦燥感。何も出来ていない、何も進んでいない。体力と精神力だけが削られていく。
雨に濡れ、よりかかった木の重さが……っと、そこで目が覚める。うとうとと眠っていたのか? 意識を失っていた? どれくらいの間、意識を――いや、それよりもだ。
初めて森に入った時に感じた視線を感じる。それが、またこちらを見ている。こちらの体力が無くなり弱るのを待っているのだろうか? こちらは睡眠不足に空腹だ。何か食べ物を食べて眠って元気をつけないと、このままでは不味い。
木を背にしてよろよろと立ち上がる。た、食べる物……。目の前にあった木の枝、その枝についていた緑の葉っぱをむしり、囓ってみる。ぺっぺっぺ。苦く、口の中が痛くなる。とてもじゃないが食べられるような代物じゃない。しゃがみ、足元に生えている雑草をむしる。雨のしずくと泥のようになった土が混じり、汚れている。手で泥汚れを落とし、口に運ぶ。苦い。それでも我慢して飲み込む。
……。
飲み込んだ瞬間、お腹の中のものを全て吐き出してしまった。かみ砕いた草と水と胃液だけが混ざった吐瀉物。そのまま濡れた木によりかかる。吐いたことでさらに体力を消耗してしまったようだ。
こんな雨の中、葉っぱや草を食べて、眠気と戦って……。
と、そこで雨音が弱くなってきた。
湖の方を見れば、先ほどまでの雨が嘘のように弱くなり、太陽の光が黒い雲の間から差し込み始めていた。通り雨だったのだろうか。弱り切った体で、よろよろと湖の方へと歩く。
そんな自分の前にそれは現れた。
飛び出すように現れたそれは、大きな、自分と同じくらいの大きさの青い狼。ああ、同じように雨がやむのを待っていたのだろうか。先ほどまでの視線は、この狼だったのか。
荒く伸び、濡れた毛を震わせ、ギラギラと輝く血走った瞳でこちらを見ている。そこにこちらを見逃してくれるような余裕はない。小さくうなり声を上げた口からは、自分なんて簡単に引き裂きそうな牙が覗いている。何で、こんなところに狼が。
考えている場合じゃない。逃げないと。
でも、何処に?
森の中? いや、森の中を彷徨うのは危険だ。あの青い狼も森の中に居たんだ。敵の住み慣れた領域に入る方が危険だ。
なら湖の中は? そんなこちらの考えを見透かすかのように狼は湖を背にしている。あちらは俺が湖の中に逃げたら追いかけることが出来ないと思っているようだ。森の中なら、いくらでも仕留められる、ということだろうか。眠気で頭は回らないし、体力も落ちているし、当然だよね。どうしよう?
何か、追い払うような得物でも……。
と、そこで思い出した。木の下、骸骨の近くに折れた剣があった。剣なんて握ったことはないけど、それでも、このまま逃げるよりは追い払える可能性がある!
折れた剣がある方へ、木の下へと走る。湖を背にした狼とは対角線上になる。こちらが動いたからか、それに反応して狼も動く。でも、森の中に居た分、こちらの方が早い。
骸骨へ。もう嫌な気分になるなんて言ってられない。
走る。
落ちている折れた剣に手を伸ばす。その瞬間、狼の体当たりによって弾き飛ばされた。子どもの姿の自分は軽く、簡単に吹き飛ばされる。そのまま骸骨がもたれかかっている木に叩きつけられる。
自分が叩きつけられた衝撃で金属鎧が、骸骨がバラバラになった。鎧、鎧で、狼の攻撃を防ぐ? 不幸中の幸い?
バラバラになった骸骨へ、金属鎧へと手を伸ばす。
狼は、こちらにとどめを刺すためなのか姿勢を低くし、うなり声を上げている。
骸骨の鎧に手が触れる。
その瞬間、声が聞こえた。
『腕輪を手にするのじゃ』
謎の声が頭の中に響く。無我夢中だった自分は頭の中に響いた声に従い、鎧ではなく、骸骨の腕の部分、小手へと手を伸ばす。
錆びてボロボロだったはずの小手が銀色に輝き、ぐにゃりと曲がる。そして、その姿を銀の腕輪へと変える。
小手が腕輪に?
変化は止まらない。
銀の腕輪は、さらにその姿を変えた――銀の髪と銀の瞳をもった少女の姿に。自分と同じか、それよりも小さな少女の姿に。
「え? 女の子? って、裸!?」
『我に任すのじゃ』
驚いた自分の反応を無視し、銀の少女は、素早くこちらの背後へと周り、俺の首元に手を回し、そのまま抱きついてきた。背中に柔らかな、生き物の、人の感触を感じる。
そして、背中の感触が消え、体の自由が奪われた。
自分の体が、勝手に動く。
『ふむ。この程度で良かろう』
体が勝手に動き、落ちている木の枝を拾う。そして、振り払い、水気を飛ばし、そのまま正面、斜めに構える。
青い狼はこちらを見て、うなり声だけを上げている。
『ほれ、かかってくるのじゃ』
銀の少女の言葉に反応したのか、狼が飛びかかってくる。
『まずはこれじゃ。強い一撃をたたき込む、スマッシュ』
体が勝手に動き、木の枝が狼に叩きつけられる。その空気を切り裂くような鋭い一撃によって狼がたたき落とされる。狼は、きゃいんきゃいんと情けない声を上げ、こちらと距離を取る。
『距離をとった相手にはこれじゃ』
体が勝手に動き、木の枝を下向きに構える。
『エアースラッシュ』
そして斬り上げる。木の枝から衝撃波が生まれ、狼を打ち付ける。頭を下げた狼は、情けない叫び声を上げ、そのまま逃げ出した。
勝った? でも、なんで体が勝手に?
『これで逃げるとは、どうにも最初から弱っておったようじゃのう』
銀の少女が俺の背中から、顔を回し、こちらを見る。近い、近い。
「君は?」
『我はイフリーダじゃ』
銀の少女がにぃっと笑う。何処か誇らしげな笑顔。
そこで自分の体が、視界がぐにゃりと歪んだ。
見えるのは雨がやみ、青く綺麗な空。とても、綺麗な……、
「ソラ……」
空が見えた。
ああ、助かったという、安堵感からか、寝不足だったからか、空腹だったからか、自分は、そこで気を失った。
我様。