死んで初めてわかることもある。
俺はようやく平凡な人生を手に入れた。
平凡な家、平凡な部屋、平凡な机、平凡な布団、平凡な……。
これで俺は幸せになれる。
なんて、そんなこと一度も思ったことはない。
結論として、欲しいものを手に入れても、それで幸せになれるわけではないということを、思い知っただけだった。
俺は幸せになりたい。
▼▼▼
俺の人生は、平凡とは程遠かった。
死んでから振り返ると本当にそう思える。
幼いころはよく泣いていた。
家族間での衝突が絶えない家だった。特に、親父と爺さんの喧嘩は毎日見ていた。俺はそれを見るたびに泣いていた。ただでさえ泣き虫なのに、いやになるくらい涙も鼻水も止まらなかった。
けれど、夕食の時だけは家族全員がテレビの前に集まった。テレビの音がうるさく感じるくらい、みんな黙々と食べていた。不思議と俺はその時間が好きだった。今になって思えば、それは歪なことだとよくわかるが、誰も怒鳴り声を出さないその時間が好きだった。
そんな時間が在ることも長くは続かなかった。
俺の好きな時間が無くなったのは、中一の時だった。お袋が姉と弟を連れて出ていったのだ。俺も半ば無理やりに連れていかれそうになったが、頑なに拒んだ。子供ながらに、壊れていく日常に抗おうとしたのだ。そんなことをしてもいずれは出ていくことになるとわかっていても、何もせずにはいられなかった。
家族が完全に袂を分かったのは、俺が中三の時。それも進路を決めるというちょっとした、子供だった俺にとっては重要な岐路に立った時だった。親父とお袋が離婚を決めたのだ。家を出たときから、こんな日が来るのだろうとは思っていた。けれど、それが来てほしいなんて望む子供はいない。
俺は受験なんてどうでもよくなっていた。心底どうでもいい。家族が一緒にいてくれるなら、俺はそれだけでよかったんだ。
なんで俺は頑張らなきゃいけないんだ?
頑張って勉強して、いい高校、いい大学に行って、大手に就職してそれで?
働いて帰って来ても、家族には会えないじゃないか。
「頑張ったな」って言ってもらいたい人には、会えないじゃないか。
たった15年しか生きていない俺にとって、それはすべてをどうでもよく感じさせるほどに悲しいことだった。その時から俺は、あまり涙が出なくなった。
高校に入った俺は、まるで人が変わったように明るく振舞った。今までの自分ではありえないほど、他人と接することが増えた。
勉強も頑張った。受験から逃げて、単願で私立に入った負い目も感じていたからか、ひたすら勉強をするようになっていた。頑張って、頑張って、家族をもう一度仲直りさせよう。俺が頑張っているところを見たら、家族₍みんな₎目を覚ましてくれるかもしれない。そんな幼稚な思いを原動力にしてひたすら頑張った。
今思うと、それも現実逃避だったんだろうな。
そんな頑張りからか、彼女もできた。でも、すぐに別れた。
原因はもちろん俺だ。気づいてしまったんだ。自分が本当の意味で人を好きになれなくなっていたことに。
それから、俺が人と付き合うことはない。何度かいいなと思う人がいても、すぐに頭が、心が、冷めてしまう。そして、ますます勉強だけに執着していく。
そんな高校生活だったが、結局のところ、ただの独りよがりで終わってしまった。
大学受験はものの見事に失敗した。当たり前だ。誰のいうことも聞かず、ただ独りで勉強しても自分の器ではたかが知れていた。そんなこと、とっくの昔にわかっていたはずなのにな。
そんな虚しさと共に、俺の高校生活はあっけなく終わった。
大学は滑り止めで引っ掛かったところへ進んだ。あえて「進んだ」と言ったのは、俺は大学へ「行って」いないからだ。正確には「行かなかった」のだ。
俺はどうでもよくなっていた。自分の器もたかが知れているものだと確認できた。どんなに頑張っても、俺では無駄なのだ。
そんな言い訳と共に、俺はバイトとギャンブルだけをやっていた。月の食費と家賃だけ残して、すべてギャンブルに突っ込んだ。勝っても負けても、何も思わない。そんなところまで浸かっていた。
いつの間にか、俺は常連から店員になっていた。どんどん自分が屑になっていく自覚はあったが、それを止めようとは思わなかった。むしろ、加速させていくことを選んでいた。
もちろん、そんなことをやっていてまともに生活ができるわけがなかった。給料はでるが、家賃だけで食費はギリギリだった。出勤の前だけ軽くご飯を食べ、休日は寝て空腹をごまかす。そんなどうしようもない生活を送っていた。
自分はクズだ。カスだ。ゴミだ。いや、ゴミのほうがまだ価値がある。
どんどんそんなことを考えるようになっていた。
俺はまた、そこから逃げ出した。そして、最低なことに、家族へ頼った。家族は何も言わず、俺を受け入れてくれた。その時はそう思っていた。
だが、現実はもう少し違うところにあった。
姉は遠くへ行き、仕事に専念しているようだ。ここには帰ってこない。
弟は大学生になっていた。俺が家を出るときは確か中学……いくつだったかな。とにかく、大きくなっていた。俺と接するときに、赤の他人として扱うくらいには成長していた。
だれも、こんなクズをまともに見る奴はいなかった。俺はクズから空気、塵芥へと、物の見事に進化をしていたのだ。
俺はひとまず働いた。運よく事務所を持っている方に拾われて働きだした。当然、知識などないから、雑用ばかりだった。そこに残るために必死に勉強して、必死に食らいついた。それは本当に大変だった。
でも、久しぶりに楽しかった。楽しいと感じた。高校の時、勉強ばっかりやって楽しいなんて思ったことはなかったけれど、今思えば、それ自体は嫌いではなかったのだろう。嫌いなものを三年も続けられるわけないか。
俺はついている。扱いはひどいが、――それも自業自得――家族にも受け入れてもらい、仕事ももらえた上に、楽しいとすら感じさせてもらっている。
そうそう、大事なことを一つ忘れていた。家も買ったんだ。それも新築。
ははは、もちろん俺じゃない。お袋だよ。コツコツ溜めてたんだと。
女手一つで、子供三人も育てて本当に大した人だよ。
それに甘えてる俺は本当にクズだなと思う。お袋ごめん。
俺さ、なにも返せないまま死んじまったよ。
仕事ついて、家も新しくなって、これからだって時にさ。あっさりと死んじまった。
確かに、ろくな生活してなかったからさ。家を出てから、病院も一度もいかなかったからさ。当然、健康診断もしてなかったよ。思いっきり罰が当たったよ。
いきなり苦しくなったと思ったら、止まっちまうんだもんな、俺の心臓。こんなことなら、もっと好き放題してればよかったな。
……そんなわけ、あるか。
もう散々好き放題しただろ!
散々人に迷惑かけて、散々人を悲しませただろ!!
あれだけ人の悲しむ姿が嫌だったのに……
俺、このまま消えるのかな。
このまま誰の記憶にも残らず消えちまうのかな?
嫌だな……
……もっともっと、誰かといたかった。
もっともっと、誰かと話していたかった。
もっともっともっと、俺と接してくれた人に笑顔でいてほしかった。
神様。
もし、もし今度生まれ変わることができたなら、みんなに笑顔を与えられるような、みんなを幸せにできるような、みんなと一緒にいられるような、そんないいやつにしてくれ。
そんな願いを残して、俺の意識は、世界から完全に消えたのだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。