四話 火と水が残した言葉の意味を
時間は少し、遡る。
凪と狼はもう森へ入っただろうか。山々を覆い尽くす広大なあの森に入ってしまえば人に目撃されることも無く、無事に隣村へ辿り着けるはずだ。今しがたの別れに思いを馳せながら豊作は土蔵へと足を運んでいた。二人の騎士を閉じ込めた後始末をせねばなるまい。
重い錠に鍵を差し込んだときだった。カシン、という鉄の音と共に彼は何者かが自身の首筋に刀を当てたことに気がついた。
「先程のはどのような御積りでの行動だろうか、御老体」
怒気を含んだ声はリンという騎士のものだ。重石を排除し小窓から蔵を脱出したのだとしたら、もう一人も近くに居るだろう。あの状況で箪笥や壺を動かせた人間は彼女しか考えられないのだから。
刃が皮膚を切らないよう注意を払いながら豊作は軽く両手を上げて見せる。
「あれは私がやったことではないもので、お答えようがございません」
「貴様!!!」
「まあまあ落ち着きなさいって」
語気を荒げた彼女に、のんびりとした声がかけられた。マーシィだ。
「おじいさん一人斬り殺したって何にもならないでしょうがあ。むしろその人は尋問しなきゃだから殺さないー。分かったら返事は?」
「は、はい」
冷たい刃物の感触が消え、彼は二人を振り返った。未だ憤怒に緑色の瞳を濁らせているリン=アコネイトと、食えない笑みを浮かべるマーシィ=アンパイア。
「銀髪の子をね、ワタシはこの目で見たわけよ。目的かは分からないけど、銀色だった」
「な、隊長それは!」
「ほんとだよん。けどねえ、この分だともうこの村にはいなさそうだねー? 逃がしたよね? 多分」
言いながらその目はずっと豊作に留められたまま。彼もまた彼女の真意を窺おうとその紅い目を強く睨み返していた。
「リン=アコネイト、追跡を開始致します」
「よろしくー。生きたまま捕まえてね。身体の欠損も許されないから、カタナ取り扱い注意」
「承知致しました」
びっ、と敬礼をしたリンがすぐさま疾風のように駆け出す。その間も二人は互いに視線を逸らそうとはしなかった。
先に口を開いたのはマーシィだった。
「何か聞きたいことがあるでしょ、村長殿」
「ええ勿論」
「いいよー全部お聞きくださいなあ」
墓穴を掘らぬよう細心の注意を払いながら、彼は言葉を選ぶ。
「騎士団のではなく、おまえさんの目的は、本当に銀髪の子を捕獲することですかな」
「ほー、そういう聞き方をしてきたかあ」
くっくっと可笑しそうに笑って彼女は分かった、と両手を上げた。
「そうだね。火の国の騎士団の意思とワタシの意思に、多少の違いはあると言っても良いかな」
「というと?」
「あの子ね、ワタシたちを見事に嵌めた銀髪のあの子、八割がた目的。だから村長殿もそういう質問の仕方してきたんでしょー」
狼の姿を見た瞬間、マーシィは驚愕と歓喜の色を露わにしていた。何と言ったか言葉は分からずとも、彼女は間違いなく狼を宿願と見咎めたのだと、豊作は確信できた。それなのにリンに指示を出す際に『目的かは分からないけど』と言ったことが引っ掛かっていたのだ。
さらに、顎に一発を入れられて気絶したのだとしたら復活が早過ぎる。あのとき本当は気を失っていなかったのだと考えるのが妥当だろう。それならばなぜ豊作が鍵をかけたあとにすぐリンを救出しなかったのだろうか。まるで凪と狼がこの村から出られるくらいの時間を待ってから重石除けに取りかかったように感じるのは気のせいなのだろうか。
「ワタシはね、賭けてみたいのかもしんない」
ふと、マーシィの瞳に影が差した。何かを嘆くような、悲しむような表情で彼女は言う。
「世界が自分の思い通りになると思ってる馬鹿どもに一杯食わせたいのかも」
意味を分かりかねた豊作が問う前に彼女は元通りのへらっとした笑みを浮かべて顔を上げた。
「勘違いしないでねえ。ワタシはあくまで火の国に忠誠を誓ってるから、捕まえられる状況で見逃すなんて真似はしないよー。今だってうちで一番追跡に長けてるリンを遣わした」
「風竜様が守ってくださいます」
「カミサマってやつ?」
「ええ。それに、そもそもお探しの子ではないかもしれないですよ」
「まだ言うか!」
「性別を伺っておりませんし」
彼が言うと、マーシィは一瞬だけぽかんとし、盛大に笑い始めた。
「あっはははは! それもわざとか! 性別に言及しなかったの、わざとかあ! やるじゃん!」
「なんのことやら」
「だって、ワタシから目的の子の性別聞き出してその反対を答えるっていう素人みたいな作戦じゃ敵わないって判断したんでしょ。駆け引きの中で相手の力量を見定めるのは簡単なことに見えて難しいしー、あは、やるう」
ひとしきり笑ってから彼女は変に澄まして答える。
「女の子。髪は銀、目は橙か紅、歳は十六の女の子」
「それは無駄足でしたね。あの子は男ですから」
「ふーん」
にやにやと口元を緩めながらマーシィは豊作の表情を観察した。先のやり取りを踏まえ、この老人がしれっと吐いた言葉が真か偽か。それを探りたくなるのは、心理戦を得手とし楽しむ彼女の性だった。
しかし突き詰める必要は無い。十中八九、蔵に現れた銀髪は女と考えられるからだ。ここまで条件が揃った人物は捜索開始以来初であり、遺伝により決定される瞳の色までが合致したというのは大きい。
間違いない。自分たちが捕縛するべきは彼女だ。
とすると豊作が言ったことはやはり虚偽か。いやそう決めつけるのは甘い、とマーシィは考えた。思慮深い彼の言動にはそれぞれに必ず理由があるだろう。よって『彼女』と『男』のあいだに何かしらの関連性があるのかもしれない。彼女を男と述べて良い、何かが。
思いつく事柄が無いわけではなかったのだが、それも未来の手綱を自ら手放した今ではどうでも良いことだった。
「それにしても『鬼の子』なんて上手いこと言うよね……」
「我々の文化では異質なものを物の怪呼ばわりする傾向がありますから」
「モノノケ? よく分かんないけどワタシが言ってるのはそういうことじゃなくて」
マーシィは怪訝な表情の豊作を冷めた目で見返した。
鬼。風の国や水の国の伝承では鉄板の悪役だ。物語の序盤に非道な振る舞いで人間を恐怖させる描写が目立つなあ、と思った記憶がある。
「人に災いをもたらすものが『鬼』なら、間違いなく彼女は『鬼の子』だ」
嫌な記憶がちらつき、彼女は自然と口を歪めていた。酷く不格好で泣き出しそうな笑顔。まるで親に置き去りにされた子どものようだと豊作は思った。誉れある火の国王家直属近衛師団の部隊長を務めるほどの女性が、このような顔をするのか、と。
「おまえさんがそんな顔をしてまでその子を追う理由が、私にはとんと分からないよ」
孫に対するものによく似た、穏やかで寂しい声。
「村長殿、敵に情を抱いたら駄目だよ」
べ、と舌を出して無邪気に言う。
気の抜けたマイペースな女と思えば心の奥まで見抜くような目をし、打って変わってその表情に痛みを滲ませることもある。一番初めに感じた彼女のオンとオフの落差は、今では不安定なものにしか感じることができず、豊作は困惑の色を隠すことができなかった。
それを狼の安否を心配しているととったらしいマーシィは、
「大丈夫じゃない? あの子がワタシの前に姿を現したとき、なんか身体中がざわって沸き立つ感じがしたんだよねー。嫌な予感とかじゃなくて、笑っちゃうくらいのワクワク感っていうか。あの子は強いよ。強く、生きられる子だよ」
嬉しそうにそう言った。
「ま、リンに捕まらなきゃの話だけど! リンなめんなよ、うちで一番優秀な子なんだからっ」
「またそんなことを言う」
大きなため息をついてから、豊作はマーシィをまっすぐに見つめ、そして初めて彼女に笑顔を向けた。
「きっと、大丈夫です」
「ならワタシも期待しとく」
それじゃあ、とマーシィは踵を返した。結んだ髪を払いのけ、背筋を伸ばして長い脚で大きく一歩を踏み出す。その堂々たる姿は騎士の名に恥じないものだった。
最後に、と豊作は彼女を呼び止める。
「その銀髪の子をお探しになっている理由とは結局何なのです」
躊躇いの一瞬ののちにマーシィは、とんとん、と自身の背中を指で叩き、
「第一級国家機密に関わるので言えませーん」
わざとらしくおどけた言葉を残して去っていった。
*
男の、腰まで届く長い髪が風になびく。和服の裾がひるがえり、つられるように彼は狼の方へ身体ごと振り返った。
「あ、あの」
あまりの男の美しさにまごつきながら狼は言う。
「助けてくれて……ありがとう、ございました」
「なるほど」
凪いだ水面のように穏やかで、しんとした冷たさを含んだ低く耳触りの良い声がその場に落ちた。それが、男が発した声だと気がつくのにしばらく時間がかかったが、彼はどうやら狼に向かって言ったのではないらしかった。
「だから、わざわざ俺が居るこの場所へこいつらを誘導してきた、というわけか」
その証拠に、いつの間にそこに立っていたのか、狼の背後から風竜が応じる。
「その通り。すまない、わたしは武神ではないから戦いは苦手でね。きみなら二人を救ってくれると思ったのだけれど……この結末は仕方の無いことだとしか言えないか」
平淡に告げられた言葉に、狼はハッとして抱えた凪の顔を覗き込んだ。
「凪! 凪、僕の声が聞こえる?」
「……ぉ、う」
荒い息の下、今にも消え入りそうな彼の返事に狼の肌がざわりと粟立った。未だ止まらぬ血、だんだんと力の抜けてゆく身体に、冷静さを失うまいと必死に奥歯を噛みしめて狼は自身の知識のありったけを引きずり出す。凪を、助けるためには。彼の怪我を、治すためには。両手を濡らし続ける朱を、止めるためには。
「切り傷、薬草、傷口の消毒、違う。最優先は止血。止血方法、傷口を心臓より上。だけどこの重症で無闇に動かすのは身体に負担がかかるから避けるべき? 判断しきれないなら、押さえて止めるしか」
言いながら着物を脱ぐ。凪の脇腹に刻まれた刀傷にそれを押し付け、両手で力を込めた。しかし血は止まる気配が無く、じわじわと布地が染まり始める。冷たい何かが額や背中から噴き出し思考を焦らせた。
「大丈夫、対処法は合ってる、だから次。刀で斬られたのなら切り傷。切り傷、止血、炎症、痛み止め。ガマの花粉、傷口に塗布或いは服用、効能は止血。池や沼は周辺に無い、入手不可。梔子の果実、練って傷口に塗布、効能は消炎、季節じゃない入手不可。弟切草の葉しぼり汁を塗布効能止血沈痛見分けられない入手不可ぜんぶぜんぶ違うこんなの大きな傷に効果を示してくれるわけない手に入ったとしても道具も無いなんで血が止まらないの!!!」
じっとりと重たくなった着物を抱きしめて狼は叫んだ。助けられない。凪が死んでしまう。自分のせいで、自分が何もできないために、命の恩人で大親友でずっと隣に居た凪が、いなくなってしまう。
溢れ出そうな涙が下瞼に留められて揺れていた。噛みしめていたはずの奥歯も、いつの間にか震えて根を合わせることすらできなくなっていた。
「ごめん凪、ごめん、死なないで、お願い、死なないで……!」
悲痛なその懇願に応えるように、ぴくり、と凪の指が動いた。瞼は閉じたまま、呼吸の音は浅く、それでも確かに、温度を失いつつあるその指は狼の手を優しく、握った。
「凪」
声をかけても何も返ってはこない。けれど、それは狼にひと握りの冷静さを取り戻させるには充分だった。瞬きを繰り返し、涙を奥に押し込む。
口を引き結んで狼は風竜を見上げた。
「風竜様、神様。凪を助けてください」
「それはできない」
竜の神は自身の従える風の中で淡く笑っていた。
「きみが持っているような知識はわたしには無いし、人の子に生命を与える術も持ち合わせていない。だから、できない」
「なら、それならせめて、お医者さんを連れてくるか、何かどうにか」
「無理難題を言う。良いかい、顛末がどうであれ、その子どもがここで死ぬのは自然の理なのだと、」
「そんな風に思えるわけない! 凪は、凪が、僕を庇いさえしなければ痛い思いも辛い思いもしなくて済んだ! 自然の理なんかじゃない、僕のせいだ、納得なんてできるわけ無いじゃんか!」
神の言葉に少女は、少年として育てられた少女は、牙を突き立てた。この地の絶対の存在に、否を唱えた。
「殺されるはずだった僕の代わりに凪が死んじゃうなんて、嫌だ!!!」
思いのすべてが込められた叫びに喉は悲鳴を上げた。風が、草木が、ほんの一瞬、その気迫に呑まれる。じんじんと痛む喉にごくりと唾を通して、狼は風竜を強く睨んだ。
「『代わりに』、『死ぬ』。その元凶は、こいつか」
スラリと刃の滑る音が、低くなめらかな声と共に空気に波紋を生んだ、次の、瞬間。
ざくりと、肉を穿つ音。反射的に振り返った先では先の男が、倒れたリンの腹に――凪が斬られた同じ場所に――彼女が握っていた刀を突き立てていた。
「こいつがアンタたちに危害を加えようとしたから、アンタの『代わりに』そいつが『死ぬ』のか」
静かで、しかし深い深い憎悪に震えるその声に、狼は肩を震わせた。まるで雰囲気が違う。初めて見たときの彼は極めて冷淡で、感情も表情も無いような人だったのに。それが今は、
「また……こいつらか。『火』の下に集う、赤色の騎士か。また、奪うのか」
澄んでいた水色の瞳を暗く濁らせ、引き抜いた刀をまた同じ場所へ振り下ろす。散った鮮血が着物を汚しても、彼は頓着せずにゆらりと顔を上げて狼の目を見つめた。
「アンタ、憎いだろう。こいつを、殺したいだろう。すべてを、こわしてしまいたいだろう」
ぶるり、と森が身体を揺すったように見えた。流れていた風が、統率者を失ったように暴れ出す。木々を揺らし、枝を折り、土を巻き上げ渦を巻く。狼の背後で風竜が息を飲んだ。
カサリと葉が音を立て、そして狼は異変に気がついた。
「よせ、」
植物が、枯れてゆく。
「すべてが、いやになるだろう」
「よせ!」
風竜が叫んだ鋭い静止は、男の耳には届いていなかった。世界が、茶色く変色してゆく。ありとあらゆる植物がみずみずしさを失って次々に頭を垂れ、干からびて塵となり、暴れる風に攫われ消し飛ぶ。
「何千年と生きてきたが、ここまでのものは……っ」
初めて聞く、風竜の感情の滲んだ言葉。目の前に広がる現実とは思えない光景に狼は凪の身体を強く抱きしめた。
「何を、してるの!」
猛風に掻き消されぬよう声を張り上げる。
「僕は、その騎士を殺してほしいのでも、全部壊してほしいのでもない! 今は凪を助けたくて、凪が死なないように、誰の力でもいいから借りたいだけで! ねえやめて、そんなに強い力を持ってるなら、凪を、凪を死なせないで! 助けてよ!!」
瞬間、風が弾けた。
男はふらり、とバランスを崩し、けれど踏みとどまると色の戻った瞳で風竜、そして狼を見た。
「まだ、生きているのか」
彼の問いに狼は大きく頷く。
「死んでない、死んでないよ。今すぐにちゃんとした治療を受ければ、助かるかもしれない。でも風竜村には戻れない、南望村は遠すぎる、お医者さまはいない。僕じゃどうにもならない、だから、だから助けてください……!」
「風竜」
気儘な神は、男に呼ばれて仕方が無いと言うように肩をすくめてみせた。
「運べとでも言うのかな」
「ああ」
「分かった、分かったよ。謎だらけのきみに故郷を荒らされてはかなわない」
やり取りを黙って見上げている狼を一瞥し、風竜は彼らに背を向けると空を仰いだ。
「寿命に抗う人の子を、わたしは好まない。だからこれっきりだよ」
その後ろ姿が、人の形を突き破るようにめきめきと音を立て膨らんでゆく。顔は大きく、身体は長く、手足の指には鋭い爪。皮膚を若草色の鱗が覆い尽くし、瞳は大きく、鬣は光を浴びて見事な色艶を魅せる。
「南望村までかい」
狼が両手を広げても届かないほどに大きく長い胴体をゆるりと曲げて、自然の緑に彩られた美しき風の竜は尋ねた。
「ああ」
遥か頭上にある風竜の顔を、目を細めて見上げながら男は頷く。足元にあった、枯れた蔦を拾い上げ自身の長い髪を一つに束ねると、何、と目で訴える狼と、凪を抱え上げた。
「風竜なら、南望村まで十数えるうちに辿り着ける。行くぞ」
言いながら、驚くほど軽い身のこなしで風竜の背に飛び乗る。自分も鱗の上に降り立とうとした狼だったが、男は狼を右、凪を左の脇にしっかりと抱え直した。
「動くな。『俺に』掴まってろ。守らずに死んでも知らないからな」
「は、はい」
狼がこくりとおとなしく頷いたのを見届け、彼は風竜の背中を軽く叩く。ぶるりと頭を震わせた竜に呼び寄せられた強い風が、背にいる彼らの髪を、頬を、撫で上げそして、風竜は大空へと駆け上がるように、風に乗って飛び立った。
男の腕に力がこもる。
「大丈夫だ」
「え?」
「アンタの『代わりに』、『死な』せやしない」
狼は彼の端整な横顔を見つめる。たったこれだけの短い時間の中で、多くの謎の跡を残した男。そんな彼が紡いだ言葉は、狼に向けられたというよりはまるで自分自身を落ち着けるように、暗示をかけるような響きを持っていて。
「だからアンタはこいつを、アンタの『代わり』に傷を負ったこいつを……忘れないでくれ」
心の奥に何かを無理矢理押し込んだような、不自然に抑揚の無い囁き。
「あなたは、」
何を抱えているの。一体、何者なの。そう尋ねようとした狼の方を見ることもせず、彼はぽつりと呟いた。
「俺は……そう、だな。鏡の如く澄んだ水の地に縛られた、『鏡水』とでも名乗ればいい、か」
その目は遠く空の向こうを見つめていながら、何ひとつ映してはいなかった。
(続)