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銀狼伝説―Queen loved the Silver Wolf―  作者: 水崎涼
<第一章 風竜の加護>
4/5

三話 竜神が導いた先に

 柔らかく降り注ぐ春の陽光が木々の葉のあいだを抜けて黄や薄緑に色を変える。静かな昼下がりだった。


 青年は目を閉じた。誰もいないここは居心地が良い。もうずいぶん長いこと、この場所に居るような気がしていた。


 ざわ、と強い風が森を駆け抜け、植物がそれに合わせて一斉に騒ぎだした。ああ、誰もいないというのは違ったな、と。そばに何者かの気配を感じて彼は大儀そうに瞼を持ち上げた。

今日(こんにち)は」

「ああ」

女とも男ともつかない透明な声が彼に語りかけた。

「きみは何時(いつ)まで此処(ここ)でこうしているつもりなんだ。故郷へは、帰らないのか」

ぴくりと眉が動く。嫌なことを、思い出させる。

「帰らない」

「そうか」

風は絶えず吹いていた。


 「アンタは、自分の存在と引き換えにしてでも守りたいと思うものが、あるか」

珍しく青年の方から問いを投げかけられ、声の主は大きな目を(またた)いた。彼がこの場所へやってきてからずっと何かを抱えているようではあると感じていたが、この問いはそのことに関係があるのか否か。

「わたしを信ずる人の子達の(ため)ならば出来る限りのことはするだろうね。けれど、この地から私が消えてしまえば彼等(かれら)を守るものが居なくなるだろう。()れはいけないから、引き換えには、出来かねる」

淡然とした答えに、ふ、と彼は息を吐いた。それは失笑じみたものではありながらその表情は変わらぬままで、心の内を窺い知ることはできない。



 急に何かに反応を示し後ろを振り返ったそいつに、青年は如何(いかん)した、と視線を向けた。

「何、わたしの主の子孫が助けを求めているようだから出張って来ようかと思ってな。君も来るか」

「断る」

「そうか。それではまた」

声が遠ざかる。引っ張られるようにして吹き荒れていた風が青年から遠ざかってゆく。長い二本の角と、透き通った若草の鱗を持つ、人の姿を模した竜の神の後姿を見送りながら青年は目を閉じて再びの平穏に身を任せた。







 豊作の知り合いがいるという南望村。そこを目指して二人は森の中、生い茂る草木を掻き分け走っていた。


 どのくらい経っただろうか。太陽もそろそろ真上を通り過ぎる頃、凪の目があるものを捉えた。

「風竜様の祠だ!」

彼より早く狼が声を発した。近付いてみると確かに木造りの小さな殿舎だ。扉は左右に開け放たれていて中には一つの、両手で抱えられるくらいの大きさの水晶玉が鎮座している。その周りには随分昔に供えられたものなのか、すっかり枯槁(ここう)し変色した草花が散らばっていた。



 風竜というのは、この森に住むと信じられている神のことだ。風を自由自在に操る気儘な性格の竜神で、時折人の姿に化けては人前に姿を見せるとも言われる。風竜村の人々が守り神として深く信仰しており、村や竜守一族の名もここからきているのだろう。


 言い伝えによれば、この祀られている水晶玉には竜がとぐろを巻いた格好の台座が共に有ったらしい。畑の土を持っていってしまう強風に困り果てた人々が、村の占い師に頼みこの水晶玉で行く末を占おうと思念を込めたとき、台座は本物の竜となり風を引き連れて森へと姿を消したというのだ。



 凪はぐるっと周囲を見渡し、傍に咲いていた可愛らしい白の野春菊を数本折り取り水晶の前に供えた。彼の隣にしゃがんだ狼と、手を合わせて風竜に願いをかける。どうか無事に、すべてが、上手くゆきますように。


 騎士たちを打ち負かしたとはいえ、異変に気がついた他の騎士が追ってくるかもしれない。出来るだけ早く、普通ならば三日はかかるが、寝ずに進むとしてできれば明日の夜までには南望村に辿り着きたいものだ。

「使われてた道はすっかり雑草だらけになってて、これじゃどこ通るのが一番近道か分かんねえ」

「火の国から『旅人狩令』が出て十数年、人がそれだけ長いこと通らなかったら、まあそうか」

凪の愚痴に狼が相槌を打つ。


 『旅人狩令』はその名の通り、集落と集落を行き来することを禁止する法令だ。『反乱の元となる情報のやり取りや武器の運搬が行なわれないため』だと駐屯騎士は言っていた。これに逆らい、騎士に暴力をふるわれたり監禁されたりした人間を二人は何人も知っていた。


 つまり風竜村を出てしまったからにはこれからどこへ行こうと火の国の監視の目を避け続けなければならない。見回りが比較的手薄になる夕刻から早朝にかけて南望村に入ることが必須だ。


 更に言えば、その村の住人が狼たちに好意的とは限らない。騎士からの褒美欲しさに売られる可能性もあるため、なるべくなら豊作と知己である村長一家とのみの接触に抑えたい。

「兎にも角にも進まなきゃ。行こう、凪」

「おう」

凪は返事をしながらも、何やら思案顔で花を見つめたまま動こうとしない。

「どうしたの」

「いや」

がしがしと頭を掻き、勢いをつけて立ち上がる。おもむろに懐に手を差し込んだ彼は、取り出した紙包みを狼に押し付けた。手に取ってみると、手の平に収まるくらいのそれには重さはほとんど無いようだ。開くと、

「わ、きれい!」

出てきたのは、紅、黄そして橙の糸で編み込まれた組紐(くみひも)だった。三つの色が上手く混ざり合い、光にかざすとまるで狼の瞳のよう。

「どうしたのこれ?」

貸せ、と手振りで示した凪は、その紐を狼の右手首に結び付けながら決まりが悪そうに口を尖らせる。

「作ったんだよ、おれが」

「うそつけ」

「ほんとだ馬鹿。糸染めも編み方も母ちゃんに教わってな。おまえの目、綺麗だから」

誕生日にでも渡せりゃ良かったんだけどいつだか分からないし、もたもたしてるうちにこんなことになるし、と、やたら早口で言い訳を続ける凪が可笑しくて狼は笑みをこぼした。

「やっぱりこれ僕の目の色なのか」

「まあ一応」

「ふふ、ありがと」

結ばれた紐を手首ごとぎゅっと握る。縁というのは目に見えるものではないけれど、もしも触れられるのだとしたら、こんな風にあたたかいのだろう。


 びゅう、と吹いた強い風が組紐のほぐれた先を揺らした。巻き上げられた土埃が入らないように二人はぎゅっと目をつぶり、そしてゆっくりと瞼を持ち上げたときに『そいつ』は、まったく突然、そこに現れていた。



 身の丈は七尺を優に超える大男が、数秒前までは誰もいなかった風竜の祠の上に――そもそもここに座ろうと考える人間はいないだろうが――腰かけているのだ。


 最初に目を引いたのは、白磁の如き二本の鋭い(つの)だった。額から前髪を分けて突き出しているそれは人の形をした身体にそぐわず、首から腕に広がる鱗よりも異彩を放っていた。頬笑を描く口元から覗いている鋭い牙も、爬虫類のように細い瞳孔を孕んだ大きな瞳も、猛獣の(たてがみ)のような深い松葉色の長い髪も、男の容姿すべてがまるで――

「竜、みたい」

狼の呟きに凪が、まさか、と大男を振り仰ぐ。堂々たるその姿は威厳に満ち、圧倒的な存在感を放ちつつも、どこか、ここには居ないような不思議な虚構を醸し出すこの男は、まさか。

「風竜、様……?」

男は答えなかった。ゆるりと立ち上がると凪と狼のあいだに立ち、凪の肩に手を置く。触れられている感覚はまったく無く、手の重みすら感じることはできなかったが、それでもなぜか彼がこの場に居るという確信があった。理屈では説明のつかない神秘。それこそが男を形容するに相応しい言葉だった。


 風竜は、自分をじっと見上げてくる狼に目を留めた。蜜柑色の瞳に、希望や好奇や畏れが混ざり合い、揺れている。彼はその目を塞ぐように手を置いた。


 「人の子たち、気がついているか。追手が居る。異国の者だ」

見た目から想像されるよりもずっと、澄んだ美しい声だった。男の声とも女の声とも思えるそれがもたらす、とろけそうな心地良さに我を奪われかけ、しかし狼は彼の言った恐ろしい言葉に踏みとどまった。

「追手が居る、だって?」

全身の毛がぞわり、と逆立った。そんな、まさか。いくらなんでも今日のうちに追いつかれるわけが無い。寸分違わず自分たちが通ってきた道を、休まずに辿って来ない限りは。


 無情にも、裏付けるように彼らから少し離れた木の後ろから、赤に彩られた人影が音も無く姿を見せた。短く切られた金色の髪に、緑色の目。

「ほう。尾行に気がつくとは、只の子ども二人というわけではない、ということか」

「なんで、あの人が! 閉じ込めたはずなのに!」

近衛師団の軍服に身を包み、腰には二振りの刀を携えたリン=アコネイトは瞳を怒りにぎらつかせ、狼を見据える。

「あのような姑息な罠に嵌めたければ隊長を殺しておくべきだ。それより……分かっているのだろう、我々の目的が貴様であることを」

彼女の全身から放たれる殺気に狼の足は震えた。完璧に出し抜けたと思っていた。敵わない。かの王国の精鋭と対峙して、生きて帰ることができる確率は、少しも、無い。

「良いか」

風竜の声が静かに響いた。

「わたしが少しばかり手伝おう。走れるかな、人の子たち」

「手伝う?」

「ああ。ほら、ゆくぞ」

言い終わらないうちに、轟音と共に暴風が巻き起こった。物凄い力で背中を押す風につられて狼と凪は走り出した。強烈な追い風は走る速さをぐんぐん上げ、あっという間にリンとの距離が開く。不思議なことに、彼女は同じくらい強い向かい風に行く手を遮られ身動きができないようだった。


 しかしそれも束の間。

「なめるなよ、自然如きが……!」

鞘に収めたままの刀をリンが両手に構える。ざり、と片足を軸に踏み込み、

「っらあああああああああ!!!」

刀で風を薙ぎ払うように駆け出した。両手に握った刀をそれぞれ風避けに使い、一瞬空気が停滞したその隙間に足を、身体を、捻じ込む。

「化け物かよ……」

確実に加速し追い上げてくるリンに凪が舌を打った。このままでは追いつかれ、背後から一閃ということも有り得る。前方の風竜は振り返らない。彼に付き従う猛風に身を任せるしか選択肢は無かった。


 周りの景色が飛ぶように後ろへ流れてゆく。今自分たちがどこを走っているかなど考える余裕は二人にはもう無かった。ひたすらに先行する風竜の背を追うだけ。振り返りたくとも速度が落ちる行動はすべきでない。リンがどこまで迫ってきているのか分からないという恐怖感に駆り立てられるままに、風に振り落とされぬよう足を懸命に動かす。

「……?」

ふと、山道に誰か人が居た気がして、狼は風竜から目を外した。しかしその場所を通ったのはほんの一瞬。確かめることもかなわず再び前方を見て、呼吸が、止まりそうになった。

「風竜が、消えた!」

その叫びと風が止むのは同時だった。


 一気に間合いを詰めようと地を蹴り加速する音が、背後から。追い風が無ければ逃げ切ることは不可能。応戦するが最善と考え、凪と狼は同時に足を止め振り返る。


 体勢を低くしたリンが、片方の刀を投げ捨てもう一方を鞘から、抜き放つ。ぎらりと真昼の光を反射する、その狙いは、


「狼!」


 緑眼の奥に揺らめく殺意は狼だけを貫き、瞬間、その鼻先まで迫るリン。柄を固く握り、首を刎ねんと腕にすべての力を乗せる。


 時間が速度を緩める中でも騎士の動きは目で追えないほどに速く。身体は、動かず。何も、できず。


「悪く思うな」


 落ち着いた囁きが耳を掠め、刃が空を斬り裂いた――




 びしゃり、と。


 噴き出した、鮮血は。


「っぐ、ぁあ!!!」


 狼のものではなく。

「凪……?」

庇うように前へ出た、彼のもので。動き出した時間の中で狼だけが状況を理解できずに目を瞬いた。


 脇腹を深く斬られた凪はその場に崩れ落ちた。痛みに震えながら傷口を押さえる手のあいだから、鮮やかな赤が溢れ出して草を、地面を、濡らしてゆく。

「見事です、少年」

いやに冷静なリンの声で、狼は我に返った。

「凪! しっかりして、凪!」

「お……う、無事、か。おお、かみ」

「なんで、こんな!」

揺さぶってはいけないと自分に言い聞かせ、なるべく冷静さを失わぬように狼は彼の身体を抱きかかえた。左手に生ぬるいものが伝う。こぼれ落ちてゆく命の温みに意識が遠くなりそうだ。


 リンが払った刀身の血が草の上に斑点を散らした。

「安心してください。貴女に危害は加えません」

殺意が微塵も感じられない穏やかな口調。狼はゆるゆると顔を上げ、彼女の冷淡な表情を見つめた。

「どういう……」

「身体の欠損は許されないと命令を受けておりますので、貴女の安全は約束致しましょう」

「でも、さっきは殺そう、と」

「はい」

女騎士は極めて冷静に言う。

「移動中の二人のやり取りから、自分が本気で貴女を殺そうとすれば彼は間違いなく庇うと踏みました。結果、彼は見事に貴女を守って深手を負った」

ただ事務的に報告書を読み上げるように。

「彼の命が危うくなれば貴女はこちらの言葉に従いやすくなり、迅速に任務が遂行できる、と。このような判断の元の行動です」

リンは足元の凪を蹴り転がすと、腰をかがめて狼と目線を合わせた。

「今は事態が飲み込めないでしょうが、共に来れば隊長がすべて話してくれるかと思います。さあ、手を」


 差し出された手に見向きもせずに、狼は必死に凪の元へ駆け寄った。彼の動いた跡には血の筋。意識も、息も、まだある。けれど間違いなくこのままでは命にかかわる傷を負っているであろう彼を、敵とは言え蹴り飛ばしたリンに、従う気にはなれなかった。腹の奥がぐつぐつと沸騰するような怒りが膨れ上がり、狼は彼女を、激しい憎悪を込めて睨みつけた。

「嫌だ」

「なるほど」

流れるような動作で彼女は刀を抜いた。

「ぅあああああ!!!」

地面に投げ出された凪の腕に突き刺さった刃。

「や、やめろ! なに、して……!」

全身が震え出す。刀を握るリンの表情はまったく変わらず、それが一瞬で憤怒を恐怖へと塗り替えた。

「貴女に危害は加えませんが、貴女以外については特に何も命令を受けておりませんので。……どうしますか。まだ、逆らいますか」

呼吸が、速まる。口が、乾く。喉はヒュウヒュウと掠れた音しか吐き出さない。言葉が、出ない。身体が、動かない。自身の命には安全が保障されているにもかかわらず、目の前で最も親しい人間が死の淵へと一歩一歩押しやられてゆく恐ろしさに、瞬きすらできない。

「今ならまだ彼も助かります。さあ、共に」

「たすかる、な、ぎが」

うわごとのような言葉とともに震える左手を持ち上げる。痺れて動かないそれを懸命に伸ばす、リンの差し出す手を取るために。


 「だめ、だ……狼」

握られた右手のぬくもりに、はっと視線を落とした。

「逃げろ、おまえ、は……おれは、い、いから」

彼がくれた、彼が結んでくれた組紐が目に入る。

「凪、凪!」

「ふ、りゅう……さまが、守っ」

「うるさいですね」

ザシュ、と肉を斬り裂く音。

「が、あああっ」

凪の太ももに刀を突き立て、リンは苛々と狼を睨んだ。

「ほら彼死んじゃいますよ。ほら。はやく」

「っ、ぐ!」

「ほら」

「ぅあ!」

「や、やだ! やだやだやだやめて! やめてよ!」

耐えきれず悲鳴を上げる狼に構わず、何度も何度も振り下ろされる刀。引き抜かれるたびに噴き出る血が狼の着物を、顔を、汚した。

「では共に来る、と。そういうことで良いんですね」

「……っ、なん、で」

「は?」

奥歯を強く噛み、狼は凪の身体を抱きしめた。

「なんで、関係無い凪を、巻き込むの、凪は、関係、なくて、凪は、」

「面倒な……。ですから、」

「初めから僕だけを狙えばいいだろ!!! どうして関係無い人を平気で傷つけられる!!!」

恐れと憤りが混ざり合い、今にもこぼれ落ちそうな橙の瞳。聖母に祝福された花、マリーゴールドの色。その気迫に、リンは僅かに息を飲んだ。が、それよりもその一人称に、彼女は眉をひそめた。

「『僕』?」

刀を鞘に収め、今一度目の前の銀髪の子の出で立ちを観察する。


 前が大きく肌蹴た着物、上半身にはサラシが巻かれている。帯は細く、低い腰の位置で結ばれており、裾をたくし上げるあの着方は尻はしょりと呼ばれるものだったか。知識の範囲で見ても、すべてが男性のそれだ。そして自分が捕獲すべきとされているのは、銀色の髪の……『少女』だった。


 馬鹿な、と彼女は一歩後ろへと下がった。近衛師団の二番隊入りをするほどの手柄を今まで挙げてきた自分が、まさか、頭に血を上らせすぎたあまり観察力を鈍らせたとでも言うのか。だとしたら、もしこの銀髪の子が目的(ターゲット)では無かったとしたら。無関係な人間を傷つけ、挙句殺したと――



 予想外の事態にリンの意識は今完全に乱れていた。よって、いつの間にか狼が彼女でなくその背後に視線を向けていることにも気がつくことができなかった。そう、たとえ忍び寄る人影自体の気配を感じ取れなかったとしても、目の前の子どもの分かりやすい反応を手掛かりに振り返り、敵を倒すことはできたはずなのだ。そして結果から言えば、彼女はそれができなかった。


 首の後ろに、強い衝撃。飛びそうな意識を辛うじて繋げ、振り返りざまに得物を抜かんと腰を探る。が、それより早く彼女の鳩尾に、硬いものがめり込んだ。背中まで貫通するのではないかと思うほどに深く突かれ、呼吸が止まる。同時に体内がひっくり返るような吐き気に襲われ、遂にリンは暗闇の中へと落ちていったのだった。


 不思議なことに、彼女を襲った人間は、目を閉じる最後の瞬間までその視界に映ることは無かった。



 すべてを見ていた狼にもはっきりと理解することはできなかった。リンが動揺を見せたとき、彼女の背後に歩み寄る男を狼は目撃していた。気配を消そうという様子も感じられず、静かに、ただ近付き、そして次の瞬間、長い木の棒のようなものをリンのうなじへと振り下ろしたのだ。咄嗟に応戦しようと動いた彼女をものともせず、続けて腹へと得物を叩きつけ、呆気なく女騎士は敗北した。


 男は、狼と凪には目もくれず、地に伏した彼女を冷淡に見つめていた。つまり、敵ではないのだろうか。助けてくれた、と。そう取って良いのだろうか。疑い半分に狼は男を頭のてっぺんから爪先まで(つぶさ)に見た。


 彼は、この世の者とは思えないほどに美しかった。透き通るように白い肌と灰がかった冷たい水色の瞳、艶やかな黒髪は腰まで届くほどに長く、日の光を受けて、深海の青にも色を変えた。


 男が顔を上げる。長い前髪のあいだから鋭い双眸が狼を射抜いた。けれど物憂げな視線はすぐに外れ、彼はふい、と身体の向きを変え、もと来た方へゆっくりと歩き出す。狼は焦った。礼も言わずに見送ってはいけない。

「待って!」

飛んできた声に、男はぴたりと足を止めた。振り返った彼の目は、信じられないとでも言うように、驚きに大きく見開かれていた。




(続)


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