一話 鬼と呼ばれた子は夢を見て
その村には、ある噂があった。
外側は白の土壁、内側は剥き出しの木材に囲まれた、たった六畳ほどの広さの土蔵が村長の屋敷の裏手にひっそりと佇んでいる。ねずみが開けたような穴や天井から時折ぽろぽろと剥がれ落ちる壁土の欠片、更にそこらじゅうに張られた蜘蛛の巣などお世辞にも居心地が良いとは言えない場所。そこに、鬼の子が住みついているというのだ。
「髪の毛は風の黒でも火の金でもなくて、銀色だって」
「おめめはぎらぎら、みかん色にひかるんだぜ」
村の子どもが二人連れ立って、まだ朝の早いうちから件の蔵の周りをうろちょろとしていた。高いところにある小窓から中を覗こうとしているのだ。まだ九つかそこらのいがぐり頭はすばしこく、でこぼことした壁に器用に草履の裏を引っ掛けて登ってゆく。五つにもならないおちびはそれを下から見上げて野次を飛ばす。中にいる鬼に聞こえてはいけないと彼なりに声を潜めてだが。
やがて窓に嵌った木の格子に手を届かせたいがぐりの小僧は、勢い込んで自身の身体を引き寄せそして薄暗がりに目を凝らすようにして伸び上がった。
そいつは噂通り、そこにいた。
古い箪笥に大きな瀬戸物が三つか四つ、そして足の踏み場も無いくらいに積み上げられ並べられた大量の書物、その真ん中でほっそりとした四肢を窮屈そうに折りたたみ、小さな背中を丸めてすやすやと眠っている。体格よりも幼く見える寝顔に長い睫毛が影を落とし、悪い夢を見ているのか凛々しい眉はぎゅうっと寄せられ苦悶の表情だ。小窓からこぼれ落ちた朝陽の粒が、その柔らかな髪を滑り落ちてきらきらと――銀色に鈍く――光った。
弟の呼びかけに答えるのも忘れて格子を掴んだまま彼はその光景に見入っていた。自分たちの黒い髪の色とは異質な、銀に彩られた鬼の子ども。角も無ければ牙も見えない。まるでただの人間のようだ。
「にいちゃん! みえたの!」
痺れを切らしたのか大声を出した弟に、我に返り慌てて返事をする。
「お、おう。見えた見えた」
もう一度だけ、と蔵の中をちょっとのあいだ眺め、そして彼は格子から手を離して地面に飛び下りた。
*
寒さ厳しい冬の夜、黒煙が群青の空を塗り潰してゆく。数時間前まで夜を彩っていた無数の星々は、今にも自分たちを掴もうとする炎の手から逃げるように姿を隠してしまった。見て見ぬふりの眼下には轟音と共に燃え上がり、崩れ落ちる一軒の家。たとえその中に小さなこどもを抱きしめ涙をこぼす母親が居ようと、拳をきつく握りしめたまま唇を噛む父親が居ようと、空の上の彼らには全く関係の無いことだった。誰も助けになど来ない。
少年はぼんやりと瞬きをした。母親の涙、父親の背中、壊れた我が家、そのすべてが橙色。僕の瞳の色と一緒だ、などと呑気なことを考えてまた眠気に目を閉じそうになる。
――私たちは間違っていたの? 罪を犯してしまったの?
優しい声が遠い。
――違うよ、ライラ。『親』として当然のことを願っただけさ。
穏やかな声が遠い。
――幸せに生きて欲しいんだ。きっとこの子は強い子に育つよ……僕らがいなくたって。
聞き覚えがある言葉に、意識が急激に輪郭を持った。僕は知っている。このあとに何が待ち受けているかを、知っている。わずかに身じろぎをして彼は母親の腕から抜け出し、何が起きているの、と疑問符を叫んだ。しかしそれへの答えの代わりに告げられたのは。
「良いこと、あなたは裏から外へ出るの。山の方へ、暗い方へ、振り返らずに走るのよ」
従ってはいけないと頭では分かっているのに身体は言うことを聞かない。
「さいごまで僕らに、おまえを守らせてくれ」
後ずさりをするように火が比較的弱い裏手へと近づいてゆく。
煙に霞む視界に大好きな母親と父親の姿。顔が見えない。二人を置いていっては駄目だ。
「生きて、ウルフ。幸せになって……!」
身を切るような母親の声に弾かれたように走り出した。駄目だ、戻れ、一人だけで行くな。そう心の中では叫んでいるのに幼い彼は必死で走る。言いつけ通りに振り返らず走る。
ようやく少年は気がついた。ああこれは、夢だ。遠い過去の夢。今更どうしようもできない。もう両親には会えない。これから僕はひとりぼっちになる。
頬を伝う涙は幼い彼のものなのか、それとも夢を見ている彼自身のものなのか。分からないままに徐々に意識が浮かぶ。もうすぐ目が覚める。
「やっぱり君か。久しいね、かつての戦友たちよ」
「裏切り者は口を開くな。……捕らえろ、そしてこどもを見つけ出せ」
「渡さないよ。妻も、我が子も。僕を誰と心得――」
そういえば遥か後ろで父親が知らない誰かと言葉を交わしていた気がするけれど……もう、関係無いか。だってすべては終わってしまったことなのだから。
必死に暗闇の中で手を伸ばした。誰かがこの手を引いてくれると、幼い彼はそう信じていた。狂い咲く牡丹雪が彼から体温を奪っても、かじかんだ足が痛みすら感じなくなっても、動かなくなった身体が冷たく湿った土に叩きつけられても、彼は信じていたのだ。人が駄目なら或いは神様が、必ず救ってくれるのだと――
ふわふわと幻想の中を漂っていた身体がふいに、ずっしりと重力に沈んだ。ざらついた畳の存在を感覚の戻った腕と足とが拾い上げ、けれど額に滲んだ汗をひんやりとした空気がすくうようにして撫でていくその言い表しがたい心地良さに、目を閉じたまま意識をまた夢と現の狭間に浮かべてしまう。
「にいちゃん! みえたの!」
静寂を突き破った大声に、反射的に指先がびくっと跳ねた。はっきりとした声だがどこか遠い。とすると外から聞こえてきたものだろうか。
「お、おう。見えた見えた」
続いて今度はやけに近くから。どちらもまだ幼い男の子の声だ。しばらくの間ののちガタリと頭上で窓枠が音を立て、ふっと蔵の中が明るくなった。壁をよじ登ってこちらを覗き込んででもいたのだろうか。遠ざかる二人分の子どもの声を聞きながら、指通りの良い短い銀髪をぐしゃりと掻き上げてその少年はようやっと身体を起こした。
彼の名は狼という。名は体を表す……にはいささか華奢な身体つきで、歳もまだ十六ばかり。けれどその大きな橙の瞳は美しく澄み、賢そうな色を湛えていた。そして勿論、人間の親を持つ人の子であって鬼だというのは根も葉もないでたらめだ。
ここも勝手に住みついたのでなく村長が用意してくれた塒で、衣服と食事も一家が面倒を見てくれるため不自由は無い。住めば都とはよく言ったもので、知的好奇心を刺激する書物に溢れたこの土蔵を彼は意外と気に入っていた。
ところが自分の預かり知らぬところで問題とは起こるものだ。彼の持つ銀の髪は、黒が一般であるここらでは異質なものに映るらしく、いつの間にか村中に広まってしまった『土蔵に住みついている鬼の子』の噂を聞きつけた少年少女が代わる代わる見物しに来るのである。初めは正真正銘ただの人間であること、そしてここは村長に許可をもらって住んでいることを伝えようとしたものの、元気の有り余る怖いもの知らずのいたずらっ子たちは聞く耳持たずで諦めた。
それにしても、と彼は天井近くの小窓を見上げた。あんな高いところまでよじ登ってうっかり落ちたらどうするのか。窓の下の地面は硬いからうまく受身を取らなければとても痛い思いをするというのに。
が、そんなことを気にしていてもきっとあのいがぐりの子とは言葉を交わすことも無いのだろう。彼は伸びをひとつすると、鼻歌交じりに左奥の畳の上の壺や本を片付け始めた。朝昼晩の食事と風呂以外は彼の外出は許可されていない。これは村長の意向で、彼が軟禁されているのでも虐待されているのでもなく、そうしなければならない理由が何かあるようだった。よって蔵の戸は外からでないと開かない。
「でも引きこもってちゃ、つまんないし」
そう呟いて彼はにんまり笑うのだ。何不自由無く生活している人間と違って、彼にとっての外の世界は色鮮やかに輝く楽園と言っても過言ではないのだから。そうしていつも巧妙に土蔵を抜け出してしまうのだった。
今日も今日とて早朝から息を弾ませ駆け寄ってくる幼馴染みの姿を視界に捉え、村長の孫である青年、竜守凪は苦笑いで縁側から腰を上げた。
「おはよう凪!」
と飛びついて来た彼を抱き上げ、
「おーう狼! この脱走魔め!」
ぐるんぐるんと遠心力に任せて回る。
「僕にかかれば、かんたんな、ぐえ、舌噛んだっ」
「おっと」
凪が半ば放り投げるように狼を地面に下ろすと、勢いを余らせてくるくるりと二回転。大袈裟に両腕を伸ばしてバランスを取ってぴたりと止まると二人顔を見合わせて笑った。
「豪快すぎ」
「おまえも毎日毎日飽きねーよな」
狼よりも三つ年上の凪は家族ぐるみで彼を育て支えてくれた、云わば恩人に当たる。けれど凪は生来の分け隔てない性格もあって恩着せがましい物言いをすることは無かったし、むしろ友達のように時に兄のように、ずっと隣で見守り続けてきた。
「で、坊ちゃまは今日はどんな冒険をお望みかい」
「鍛冶通り見に行く。朝ご飯までには帰ろうな」
「へいへい」
両手を握りしめて目を輝かせる狼の髪をくしゃりとかき混ぜ、凪はその興奮気味な歩調に合わせて歩きだした。
狼が凪と出会ったのは十年前の冬。昔、彼はこの村からひと山越えたところにぽつんと建てられた小屋で両親と三人幸せに暮らしていた。ところがある日何者かが家に火を放ち、両親は行方不明。彼一人が逃げのび、この村へと辿り着いた。
寒い寒い冬の朝、夜の間に積もった雪に埋もれて倒れている小さな彼を家の前で見つけたのが凪だった。ひとりぼっちとなってしまった狼を凪の家族はあたたかく迎え入れ、村人の奇異の目に晒されぬようにと自由を制限しながらも大切に育ててくれた。
本当に長い付き合いだ。幼馴染みで親友で、相棒。お互いのことは何でも分かる……はずなのだが、実は狼にはひとつだけ、言い出すに言い出せないまま有耶無耶にしてきてしまったある問題があった。
鍛冶屋を営む家族の住む長屋への道すがら、凪が今気がついたんだけど、と呟いた。
「おまえさー、こんなに抜け出してんのにじっちゃんと大戦争になったことねーよな。何だかんだでおまえに甘いから……ずりーよなあ」
木の枝を振り回していた手を止めて狼は得意げに胸を張った。
「まーね。でも甘やかされてんじゃなくて脱走経路発見されてないからだけど」
「? 脱走してることはバレてんだろ?」
「そりゃ勿論」
分からない、と首をひねる凪に狼が手にした枝をぴっと突き出す。
「ここからこういう風に脱走してるだろ、ていう根拠が無ければ僕が『ここ外から鍵かかってるんだから脱走できるわけないよ』ってしらばっくれられるからハイ終了無実。な?」
ぽい、と放り投げた枝が土の上を弾みながら転がってゆくのを視界の端に残しながら、凪はなるほど、と片眉を上げた。
「頭良いな。十年間ずっと読書してきただけはある」
「まーね。あの蔵にある物なら全部読んだから」
「けど抜け出してる間に蔵に入られないとも限んない、んじゃねーの? そのうちバレっぞ」
小馬鹿にした表情を作る彼に、狼がむっとして『簡単にバレないようにしてある』と反論を展開しようとしたそのときだった。
がしゃん! と鉄が乱雑にぶつかり合うような大きな音と共に、誰かが怒鳴る声がその場に響き渡った。何、と思う間もなく、
「やっべ、狼伏せろっ」
凪に頭を押さえつけられて狼は勢い良く顔から地面に突っ込んだ。それでもまだ低くとぐいぐい上から押してくる彼に文句を言おうと顔を上げかけ、茂みの隙間からちらりと見えた赤色に慌てて体勢を低くした。
山奥の風景に似合わない真っ赤な軍服をまとった金髪の男が小走りでこちらへ向かってくる。腰のベルトには細長い剣。異国の騎士だ。
「こんな朝早くからも見回りとはご苦労なこったな」
吐き捨てるように凪が言う。騎士はといえば二人が隠れている背の低いクワの木の前を通り過ぎ、先ほどから言い争う声が聞こえ続けている長屋の一角へとまっすぐに走っていった。
「鍛冶屋のじいさんのところかも」
「あー武器作ったらいけねーのにあの頑固ジジイ隠れて作ってるもんな。火の国の連中と揉めると厄介だぜ……この前は勝手に村出ようとした奴が足の骨折られたしな」
「っ、それじいさんが危ないんじゃ……っ」
一瞬の恐ろしい想像に、狼は体勢を低くしながら騒ぎが見えるところまで素早く移動した。あとから苦々しい表情で凪がついてくる。
案の定争いごとが起きていたのは当初目的地としていた、鍛冶通りの中でも腕の良いと評判の老人の作業場だった。通りに大量の鉄製の農具が散らばっており、その中に美しく反った見事な刀が一振り、混ざっていた。言い合いをしているのは老人と、ついぞ到着した騎士とは別の騎士だ。相当頭に血が上っているのか、今にも腰の剣を抜かんばかりの形相で老人に詰め寄っている。それを始めはあとから来た騎士がなだめていたのだが、ふいに彼がその刀に目を止めた。
「もう面倒だから、こんな老いぼれ片腕くらい斬り落としちまえばいいじゃないか」
よく斬れるんだろうこの国の刃物は、と拾い上げた刀を老人にかざす。
「じいさん!」
「馬鹿! おまえは騎士に把握されるなってじっちゃんに言われてんだろ、じっとしてろ!」
飛び出そうとした狼を押さえて凪が駆け出そうと茂みを飛び越え、
「Stand still,guys(そこまでだよ、君たち)」
場に似合わない威厳に満ち落ち着いた声にその場の全員――鍛冶屋の老人、凪、狼そして二人の騎士までも――が動きを止めた。
こつこつとブーツの音を鳴らして現れたのは同じように赤の軍服を着た騎士のようだった。しかし様子がまるで違う。帽子を取り、直立姿勢で彼に向き合う二人の騎士の一人から緩やかな動作で刀を受け取ると、それを老人の前に置きそして目線を合わせこう言ったのだ。
「綺麗な刃物だな。確かカタナというんだったか……いやね、同僚にカタナ集めをしているのがいてね。何でも風の文化が好きなんだそうだ。だからこれを買い取らせてはくれないか、御老体。勿論そちらのつける値段で構わない。そしてこれからもカタナをつくりたいと言うのであれば騎士団の方へ申請をしてくれないか。どんなものをつくってほしいか注文を下ろさせてもらうから。この場はそれで収めてはくれないだろうか?」
すっかりその物腰に呑まれた鍛冶屋がぎこちなく頷き商談に入るのを見届け、凪は狼がいるクワの木まで戻ってきた。やれやれ、とひとまずの安堵の表情だ。
「火の国にも話の分かる奴がいるもんだな」
言いながらまだ伏せた姿勢のまま鍛冶屋の様子を見ている狼の隣にあぐらをかく。
「あの単細胞騎士二人、怒られてやんの」
軽く笑った凪は、そこでようやく狼の様子がおかしいことに気がついた。木の枝の隙間から油断無く左右に視線を走らせながら緊迫した面持ちでいるのだ。どうした、と声をかけると彼は眉根を寄せて、
「この時間帯にしては見回りの騎士が多過ぎる。それにあとから来たあの騎士が着てる軍服、あの二人が着てるいつもの見回り騎士のとは形や色合いが違ってるんだ。その辺にいる騎士も同じように立襟のもの着てる」
などと言う。なるほど帽子を取ったままの見回り騎士二人以外で視界に入る四人の騎士は皆同じ赤色ながら襟を立てた軍服を着ていた。立ち振る舞いもどこか見回りのものとは一線を画しているようにも感じる。
「ねえ、何かが……おかしいよ」
落ちた言葉は不安の色に揺れていた。
*
縁側に腰掛け外を眺めていた老人に、通りがかった女性が微笑みながら声をかけた。
「また狼、脱走したんですか?」
老人、もとい村長である竜守豊作は振り返って肩をすくめてみせる。
「今あっちへ元気に走っていったよ。凪のところだろうね。毎日どうやってあの蔵から抜け出しているのか、居ないあいだに調べてみるんだけれどさっぱりだよ」
安全のためにと彼を閉じ込めた。それをものともせずに彼は強く育った。嬉しいような複雑なような、である。孫のようなものだから余計にだ。
「凪みたいに活発だけならまだしも、あの子賢いですものね」
ふふ、と笑う女性は竜守実、凪の母親だ。春の朝陽が照らす縁側で、子或いは孫の成長を噛みしめるゆったりとしたひとときだった。
けれど災いというのは、いつだって突然に訪れるものなのだ。
「村長さーん、いらっしゃいますー?」
ふいに間延びした女の声が表の方から聞こえてきた。こんな朝早くに来客とは珍しい。あまり俊敏に動くことのできない身体をもどかしく思いながらゆっくりと立ち上がり玄関へと足を動かす。
「私が、そうですが」
首をひねりながら引き戸を開けた豊作の目に飛び込んできたのは、ズラリと並んだ十の赤色。
「どうもこんにちはあ。すみません突然ー」
にへら、と笑みを作りながら一人だけ形の違う軍帽をかぶった年若い女が彼へと一歩を踏み出した。瞬間、彼女の纏う空気がガラリと変わる。
「この村に『銀色の髪を持つ鬼の子』がいると聞きました。即刻、引き渡しなさい」
燃えるような深紅を孕んだ双眸が、老人をまっすぐに射抜いた。
(続)