一 、しるこの想い出
いつのことだったかは覚えていない。
遠い昔のことのようにも感じるし、ついこの間のことのようにも感じる。
ただ、その時の光景はハッキリと覚えている。目を閉じれば頭の中でその時の映像を細部に至るまで再生出来るほどだ。
しかし、いつのことだったかは覚えていない。
僕は何事に対しても無関心であり無責任な性分で、過去のことは次々と記憶から抹消してしまっている。その為、いつのことだったかは忘れてしまったのだ。それではなぜ、その光景を忘れていないのか。理由は分かっている。忘れたくても、アレが視界に入る度に記憶が蘇ってしまうからだ。
その時、僕はなぜか苛立っており、肩を落とし、踵を引きずりながら家までの道程を歩いていた。進行方向には夕陽があった。僕の家は町の西側に位置し、日が沈む頃にはいつだって夕陽を背負っている。その赤い光の中で、家は切り絵のように黒い輪郭だけを現していた。陰気な景色だ。
クルクルと回る小さな換気扇からは湯気があがっていた。
引き戸を開けると、甘い香りがした。
母達が居間でいつものを食べているのだと察し、憂鬱な気持ちになった。誰にも会いたくない。しかし、自分の部屋へ行くには居間を通り抜けなければならない。
僕は黙って襖を開けた。そこには案の定、母と祖母がいた。
「お義母さん、白玉団子は何個入れます?」
二人はしるこを食べていた。母の質問に祖母がゆっくりと答えた。
「白玉は歳の数だけ」
「お義母さん、そんなに食べられませんよ。それにお椀に入りませんよ」
「じゃあ、三万」
「はい。一万、二万、三万ね」
祖母の前に白玉団子の三つ入ったしるこが置かれた。
そんな二人の呑気なやり取りを聞いているうちに、心の底から黒い怒りが込み上げてきた。僕は台所に走り、コトコトと煮える大きな鍋を手に取った。
「しるこなんて食ってんじゃねえよ!」
怒鳴ると同時に二人に向かって鍋を振った。
すると、煮詰まった粘り気のあるしるこが、拡散せずに塊となって、真っ直ぐ二人に向かって飛んだ。咄嗟に母が左手でしるこを払った。塊は砕け散り、辺りに甘ったるい臭いと湯気が漂った。
白い靄の向こうに母の腕が見えた。その腕は黒いビニールが張り付いたかのように艶やかに美しく輝いていた。
大粒の滴のような小豆が母の腕から幾つも落ちて、畳の上をコロコロ転がった。
母は一生消えることのない火傷を負った。今も母の腕は肘より先が赤黒く染まっている。そして、所々に小豆のような突起が出来ている。
まるで、しるこ。
その傷跡が美味しそうに映れば映るほど、僕は、しるこの沼に沈んでいくような心持ちになり、いつも、その日の光景を思い出してしまう。
お母さん、ごめんなさい。