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「もう、大丈夫だよ。目を開けて」
体がふわっと浮いたかと思うと、もういつの間にか、足にはさっきまでとは違う地の感覚があった。
刀熾はゆっくりと目を開いた。
「ここが……」
目の前はひたすらに大きな壁だった。数メートル後ろにはすぐ波が迫っている。
「すぐそこが入り口だよ。早く入ろう」
操佳はすたすたと前に進んでいくと、そこの壁に手を当てた。その部分だけ、ほかと色が違っている。操佳の言う入り口なのらしい。しかし、鍵穴も無ければ取っ手のようなものもない。のっぺりとした一枚の鋼色の金属板のようで、太陽の光を反射して時折虹色に輝いていた。
「そんな扉、どうやって開けるんだ?」
見たところ、押戸でも引き戸でもなさそうだ。材質が違うだけで、壁にぴったり収まっている。
刀熾の問いに操佳は答えず、扉の表面をゆっくりと指でなぞっていた。刀熾には初め、彼女が何をしているのか分からなかったが、その指の動きにはなんだか規則性があるように思えた。
操佳はふいにどこからか手帳のようなものを取り出し、ペラペラとめくった。
「タロオの扉……開け方はっと」
ぶつぶつと呟きながら、今度はリズムよく扉を叩き始めた。すると扉に変化が現れた。
垂直方向に走査線状に光が走ったかと思うと、中央あたりに文章が現れた。刀熾は操佳のかたわらから覗きこんだ。
「これ、何語?」
「俗に言われる統一言語を、文字表記化したのものだよ。OltanO uto Opand si> acuto<.(オルタンノ ウトゥ オパンド スィズ アクートズ)…… 『扉は認証により開かれる』って書かれてる」
「読めるのか?」
「まあ、完全にではないけれども」
操佳は、手に持っていた手帳を刀熾に示した。
「塔に関するある程度のことはここにまとめてある。ほら、これもそこに書いてあるものと同じ」
手帳には確かに、扉に書かれている文字と同じものが手書きで書かれていた。彼女自身の筆跡なのだろうか。とても丁寧な文字だった。
「この塔には、いたるところにこの統一言語が刻まれている。塔を護る一種の防壁なの。壁にもいくつか刻まれてるでしょう? これのせいで、中にトぶこともできない」
トぶというのは、さきほどの瞬間移動のことだろうか。そういえばそうだ。瞬間移動が可能なら、扉を開けるのに苦戦する必要もなく、建物内部へ移動すればいいのだ。だが、それは無理だという。
「でも、これ開くのか?」
「うん、それは保証できるよ。世界に開かない扉はない。それが扉であるかぎりはね」
扉は開閉しなければ意味が無い。開閉しない扉は、もはや扉ではなく、ただの壁に成り下がるだろう。
「ポイントは、『認証』、そして、【統一言語】。ねえ、刀熾。刀熾は、統一言語についてどれくらい知ってる?」
「どれくらいって、学校で習うレベルしか。たしか、全世界共通語として使用するために開発された言語で、一時は世界に広まったけれど、すぐに削除されたっていう」
操佳はうん、とうなずいた。
「大方そのとおり。でも、今の人類は知らないこともあるの。本来、統一言語は文字による表記がなく、発声もすることがない架空の概念言語なの。なんて言えばいいかな……そう、思念で意思疎通すると言えばいいかな。普通の言語でいう、単語などがもともと存在する意味を表す表意言語ではなくて、言語自体が意味を決定するようなそんな存在。壁に刻まれた文字もそう。統一言語によって、その記号を文字として意味決定したに過ぎないの。力を持つ言語、それが統一言語というものなの」
「なんだかよくわからないけれど、つまり、話したことが現実になるってことか?」
「話したことじゃなくて、思ったことといったほうが正しいかな」
そこまで言われて刀熾はようやく納得した。
思ったことが現実になるなんて夢のようだ。だれでも少しくらいはそうなってほしいと願ったことがあるかもしれない。
しかし、それが扉を開けるのとなんの関係があるのだろう。
開かない扉。思考を現実にする統一言語。
「あ……。つまり、【開け】と思えば扉が開くということか?」
「うん。まあ実際はそう簡単には行かないだろうけど、それに近いと思う。扉を開く合言葉ってこと。【開けゴマ】と同じようなものね。厳密には、【開け】より、【開く】というイメージがいいかな」
「開く……か」
刀熾は扉の方を見つめながら、その言葉を頭のなかに思い浮かべた。強く。強く。
しかし、何の変化も現れない。
「それじゃだめ。単に言葉をイメージしても意味が無い。言葉はあくまで言葉で、所詮思考言語はその人間の母語なのだから。扉の開くイメージを確固として持たないと」
操佳は扉に手を当てながら目を閉じた。すると、すぐに扉に変化が現れた。操佳が手を当てている場所から波紋のように扉が波打った。そして、水の中に手を沈めるように、操佳の手は扉の中に吸い込まれていった。
「刀熾も、試してみて……」
最後に刀熾の方を振り返りながら、操佳は扉の向こうに消えていった。
「あ、おい……」
すぐにあとにつづこうと刀熾も手を伸ばしたが、扉は元のとおりだった。どうすれば入れるのか、操佳の言葉を実践しようとした矢先、激しい音が衝撃とともに辺りに轟いた。
その音は明らかに、今操佳の入っていった扉の中からだった。