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 その日の午後一番の授業は世界史だった。学生の数少ない休息のひとときである昼食の時間もすみ、昼休みのけだるさを引きずったままでの授業だ。しかも、それが教師の解説(マシンガントーク)だけで授業の大半が占められる世界史ともなると生徒たちの眠気は最高潮へと達していく。

そんな催眠にも等しい授業を窓際の後ろの方の席で受けている空波(そらなみ)刀熾(とうし)も例外ではなくうとうととしていた。

眠たいのは何も今日に限ったことではなかった。世界史があるのはどういうわけかいつも午後だ。そのため、刀熾は高校に入学した四月から今日に至るまで、ろくに世界史の授業を真面目に受けたことがなかった。くわえて、今日は気温が高めだ。窓から暖かい日差しが差し込み、その心地よさのせいで眠たさはさらに増す。うなだれた頭がぷかぷかと浮き沈みする。

それでもなんとか刀熾は起きようと努力した。

いつもなら眠たさのままに、夢の世界へと落ちていくのだが、今度ばかりはそういうわけにも行かない。あとほんの僅かで期末考査があるのだ。悪あがきだと分かっていても、すこしでも授業を頭に入れておきたかったのだ。

眠たさに対抗するために、刀熾はシャープペンシルを取り出した。カチカチと芯を眺めに出すと軽く頬に突き立てた。チクリと痛みが走る。あまり効果はなかったが、それでも少しだけ目が覚めたように思えた。

刀熾はなんとか気力を振り絞り黒板に目をやった。黒板にノート。前世紀から結局なくなっていない学校の必須アイテムである。

今日の授業は試験範囲のほぼ最後。どこの学校でも一学期に習う、近代史についてだった。具体的には二十一世紀前後の歴史。

約百年前の話である。

「それで、一九九〇年代から各国の様々な研究者が集まり極秘裏に進められていた世界規模のプロジェクトがあった。それがいわゆる【統一言語】プロジェクトだな。つまり【統一言語】の開発ということだ」

 ここ重要な、と教師は赤のチョークで黒板にに統一言語プロジェクトと書いた。

「【統一言語】は研究途中の二〇〇〇年五月二十三日に国連を通じてその研究内容が世界に向けて発表された。そして二〇二〇年あたりに実用段階にまで完成し、それから異常な早さで広まったんだ。ちょうど同じ頃【自動学習装置(ブレインストーラー)】も開発されていたし、当時なぜかほとんど反発もなかったことから先進国中心に広まり約五年で世界中で用いられるようになった。しかし、なんらかの重大な欠陥が【統一言語】に発見され、人々の記憶から抹消された」

 【統一言語】。それは当時世界の約七割の人間が、ほんのわずかな間ではあるけれども、使用していた世界共通言語である。すべての人類が単一の言語で意思疎通をできるようにすることを目的として研究され完成したものだった。

「現在では、すべての情報が破棄されていて【統一言語】は歴史から姿を消した。それで次に覚えていて欲しいのは……」

 よどみなくスラスラと話を続ける世界史教師。今日もその噛むことすらないトークは冴えている。あんなにしゃべり続けてよく喉がかれないな、と刀熾はどうでもいいことを考えていた。無意識に手の中でくるくると回り始めるシャープペンシル。

「――で、ここの範囲な。テスト前ということもあるし、次回小テストやるぞー。ちゃんと勉強しとけよ」

 そんな教師の声が聞こえ、刀熾はさっそくカンニングペーパーの作成にとりかかる。

「――ときに、空波。そこ、また火屋(ひのや)はいないのか?」

 突然名前を呼ばれどきっとしながらも、刀熾は教師の視線の先――顔を上げ前を見る。誰も座っていない席。そこは、クライスメイトである火屋操佳(そうか)の席。

「ええっと……、知りません。いつものことじゃないですか、先生。登校だけはしているみたいですけどね……」

 刀熾は投げやり気味に返したが、教師もそれでうなずき、また違う部分の解説を始めた。

火屋操佳。刀熾は授業を受けている彼女の姿をまだ一度も見たことがなかった。それは刀熾だけでなくクラス全員がそうだろう。朝と帰りのホームルームそして、授業合間の休憩時間や掃除時間――授業以外の時間には確かに彼女の姿を見かける。しかし、授業の時間となるとふっとどこかへ消えてしまう。入学当初こそ可愛いと、男子から評判だった彼女も今となっては「幽霊」というあだなである。

こんなことを続けていても彼女はなぜか退学にならないし、教師たちもも無視している。彼女の家が相当な金持ちで学校に多額の寄付をしているというのがもっぱらの噂だった。



なんとなくぼうっとしたまま授業時間は、チャイムの音とともに終わりを告げた。

「きりーつ……、きょーつけ……れい」

 学級委員である古雅美里が元気のない号令をかけ、世界史の授業はようやく終わった。号令をかけた本人が真っ先に教室を飛び出していく。刀熾はそんな彼女をなんとなく目で追いながら背伸びをした。

「ああ、やっと終わった……。また眠たくなってきたな」

 刀熾は目をこすりながら、片手で次の授業の準備のためにカバンから教科書を取り出し――――顔を上げたところで、いつの間にか目の前にいた火屋操佳と目があった。

「え……?」

 あまりにも突然で刀熾はうろたえる。

授業の終わりのときに彼女はもちろんそこにはいなかった。授業が終わってまだ五分と経っていないのに、彼女はいつの間に現れたのだろう。

 操佳は刀熾から視線をはずさない。しばらく見つめ合ったまま、刀熾は声すら出せずにいた。

気のせいか周りからの視線も感じる。ほとんど教室に姿を表さない不思議少女操佳。彼女が教室にいるだけで、彼らにとっては十分すぎる話題となるのだろう。

「ねえ、」

 先に口を開いたのは操佳だった。

「ちょっと聞きたいことがあるのだけど、いいかな。空波くん。大丈夫、時間は取らせないわ」

「え、あの……」

「最近、なにか変わったことはない? 何か今までと全く違うようなこと……。非日常的なことが怒ったりしていない?」

 声は極めて静かだ。しかし、なぜか殺気じみた視線だった。刀熾は彼女の真意がわからないまま、問に答えざるを得なかった。

「いや……、ない…………と思うけれど」

「そう」

 その答えが彼女の求めていたものかは分からないが、彼女は目を伏せうなずいた。

そして、次には顔をぐいっと近づけて囁くように、

「近いうちに、そういうことが起きるかもしれないから、注意しておいてね」

 くすくすと笑う操佳。

刀熾はなんだか寒気を感じた。

訳の分からない言葉だけを残し、操佳は無表情で教室を出て行った。

心なしか、教室中がざわついているように思えた。

「なんだったんだ……?」

 少し考えても、彼女の言葉の意味は分かりそうになかった。



 †



 定型文(テンプレート)のように繰り返される毎日は、時間の経過を早く思わせる。

 授業も嫌だ嫌だと思いつつ、しかしすぐに一日は終わってしまう。

刀熾は帰宅の途についていた。

刀熾の自宅は学校からほど近い大きなマンションの一室だ。街のシンボル的存在になっている高層マンション。通称枢木マンションはこの街の建物の中で群を抜いて大きい。

学校からは徒歩で約二十分ほど。自転車を使っても良かったのだが、刀熾はいつも歩いて通学をしている。

帰りは基本的にいつも一人だ。友人がいないわけではないが、仲の良い友人は皆帰る方向が違ったため一人で帰らざるをえない。

いつもどおりに、無言で歩く。

いつもどおりの道のりをいつもどおりに歩き、いつもどおりの時間で家につくはずだった。

 しかしその日、刀熾はちょっとした異変に遭遇した。

帰り道にある、小さな公園の前に差し掛かったときだった。たまたま公園の方へ目をやると、そこにいた少年と目があった。

坊主頭の少年だった。よく見ると自分と同じ制服を着ている。同じ学校の生徒なのらしい。

刀熾はなぜか、彼とは目を合わせてはいけないような気がして、さっと目をそらした。理由は分からないが、直感がそう教えていた。刀熾は彼を見なかったことにして、その場を去ろうとした。

スッと、耳元を風の切る音が通りすぎたのは、ちょうど歩き始めたときだった。

カランと後ろのほうで何かが落ちる音が聞こえた。刀熾はぎょっとしてそちらを見る。底に落ちていたのは綺麗に装飾された銀色に光るナイフだった。フレンチなレストランででも使われていそうな代物。しかし、その刃は鋭く研ぎ澄まされていた。

刀熾はハッとして公園の方に目をやる。目を向けたと同時に目の前には刀熾めがけて飛んでくるナイフがあった。刀熾はとっさに屈み避ける。

「なんだってんだ――!」

 公園には先程の少年。野球部にでもいそうな風貌の彼の手には野球ボールではなく、ナイフがいくつも握られていた。

そして――刀熾を見据えるその眼は赤色に爛々と輝いていた。その輝きは見る者をぞっとさせる恐ろしさがあった。心の奥底まで見透かされているような不快感を与えるのだ。

刀熾は逃げようと思った。

あの少年が自分を殺そうとしているのは確かだった。理由なんかわからない。だが逃げなくてはいけない。

しかし、足が竦んで動けない。

少年は不格好にナイフを構え――投擲した。

「刀熾――、伏せて」

 ふと聞き覚えのある声が頭の上から降ってきた。刀熾が顔をあげると、顔の上に影が落ちた。

「はっ……?」

 そこには、どこからか飛び降りてきた人影。軽やかに刀熾の前に着地すると、迫り来るナイフに手を向けた。

「危ないっ!」

 刀熾は叫びつい目をそらした。

「大丈夫だよ。私は問題ない」

 優しい声が聞こえる。刀熾は前を見た。

「火屋操佳……」

 そこにいたのは紛れも無く彼女だった。じっとその場所に構え、手にはナイフが握られていた。そのナイフはあの少年の投げているものだった。

「お前、受け止めたのか……。いや、まさか」 ありえない、と刀熾は操佳を見る。操佳はちらと刀熾の方を見て意味深ににこりと笑ってみせた。

「そこでじっとしていてね」

 操佳は勢い良く前へ飛び出した。

一直線に少年の方へ駆けた操佳は、飛来するナイフを全て手で弾きつつほんの一瞬の間に少年の懐に潜り込んでいた。操佳は握った拳を少年の腹部に打ち当てる。小さな動作だったが、それだけで少年ははるか後方へ吹き飛ばされた。

しかし、それだけでは終わらない。

操佳は追い打ちを掛けるように、倒れた少年の元へ跳んだ。

そこから起きたことは刀熾には理解できないような非現実じみたことだった。

操佳が前方に伸ばした手を水平に動かしたかと思うと、彼女のすぐ前方で大きな火の手が上がった。

刀熾はただ地べたに座り、声も出せずに見ていることしかできなかった。

操佳の陰になって見えないが、おそらく燃え盛る炎は少年を焼いているのだろう。操佳はそれを身じろぎ一つせずに見下していた。

やがて火は収まり、まるで何事もなかったかのように操佳は踵を返し刀熾の元へ寄った。

「危なかったわね」

 操佳はゆっくりと屈むと刀熾に手をさしのべた。柔らかな笑顔で。刀熾はどうしていいか分からなかった。今しがた見た光景は夢だったのだろうか? 少年が倒れていた方へ目をやると、そこにはもともと何もなかったようにまっさらだった。

「……お前」

 刀熾は操佳の手を借りず自らゆっくりと立ち上がった。そして無意識の内に何歩か後ろへ下がった。

「お前は……」

 自分でも何かを言いたいのは分かる。しかしうまく言葉が出てこない。さっきの光景が夢じゃなかったとすれば、現実――つまり彼女は人を殺した。わけのわからないままに。非現実的な方法で。

操佳は自分のことを警戒する刀熾に悲しそうな表情を見せた。

「大丈夫だよ。刀熾の言いたいことは分かる。でもね、彼は人間じゃない。あんなのただのガラクタ。だから私は人殺しではない」

「人間じゃない……? じゃあ」

「彼はAH。人に近く創られた、人ならざるモノ」

 意味の分からない言葉に、刀熾は眉をひそめる。

「お前は何者だ?」

「無粋な質問はやめてよ。刀熾、あなたは塔に認識された。統御された円環から外れてしまったの。だから、あなたはもう無関係ではいられない」」

「何を言って……」

「ついてきて」

 刀熾の言葉を遮り、操佳は強引に刀熾の腕を掴んだ。その力は強く、振り解こうにも不可能だった。

「お、おい」

 刀熾の言葉を聞こうともせず、操佳は刀熾を引っ張っていった。





枢木マンション最上階。そこはまるで地上から遠く離れた世界だ。それは物理的高さという意味であるし、さらに社会的地位の高さでもあった。枢木マンションは一般の人間のためのマンションではあるのだが、高層階はとくに高級志向の造りとなっている。それは、刀熾のような一般人が住む下階とはまったく違う。刀熾も一度、物件紹介か何かの広告でその内装の一部を見たことがあった。そのときは単純にすごいと思っただけだが、実際に目の当たりにすると、すごいとか以前にこれといった感想が浮かばないほどに豪華な部屋だった。

広さはどれほどあるだろうか。最上階フロアは一つの階がまるごとひとつの部屋なのである。一部屋一部屋の造りも当然余裕のある作りとなっている。

その豪華さは西洋的にも思えるし、和風の落ち着きも兼ね備えた折衷なものだった。

「ここが君の家?」

 呆然と立ち尽くしたまま、大きなソファーに座ろうとしている操佳に問う。

「うん、そうだよ。ここが私の家」

 さらりと言うと、操佳は刀熾にソファーに座るよう促した。刀熾はなんだか落ち着かなかったが、仕方がなくソファーに腰掛けた。

くるりとあたりを見回してみる。広いせいもあるかもしれないが、家の中はシンとしていて、物音一つしない。

「今日は、誰もいないのか……」

「今日は、というよりもともと誰も居ないわ。私が一人で住んでいるんだもの」

「一人で? ここに?」

 ええ、と操佳はまたうなずいた。

刀熾は純粋に驚いていた。こんなに豪華な空間にひとり暮らし……親が余程の金持ちで且つ放任主義なのだろうか? それにしてもおかしな話だ。しかし、隆希はそれを口にだすことはしなかった。

「さて。では、すこしお話をしようか。そうしないとここにあなたを連れてきた意味が無いもの」

 その言葉を聞いて刀熾は操佳の方をじっと見た。

「なんてことのない話。長い割に面白く無い話だし、あなたにとってはただの作り話のようにしか思えないお話だけれども聞いてほしいと思うの」

 操佳の口調は柔らかだ。しかし、その眼は真剣そのものだった。

 刀熾は拒否することができなかった。拒否する理由もなかったのだ。

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