移り変わる年と変わらぬ考え 【2】
「わぁ……」
十二月三十一日、午後一時三十七分。 俺とクレアは近所のスーパーへとやって来ていた。 というのも、俺が食料危機に瀕しているのをクレアが救うべく、クレア様が手料理を振る舞ってくれるとの案によって。
そういや、こうやって誰かとスーパーに来るのは久し振りか。 西園寺さんと一緒に買い物に来て以来だ。
で、俺はてっきりそのまま食材コーナーに行くのかと思ったのだが、クレアが途中で足を止める所為で、俺もそこで足を止める羽目になる。
「クレア?」
「成瀬、見てください。 これはなんですか?」
「ああ、食玩か。 そんな珍しいか?」
クレアが魅入っているのは、棚に陳列された食玩たち。 どうやら、その一つがとても気になるらしい。
「あまり、スーパーには来ないので。 これはこの玩具が入っているんですか?」
その一つを手に取り、クレアは俺の眼前にそれを差し出す。 ええっと、なんだ。
「……にゃんにゃんドリーム。 猫百匹」
要するに、猫の玩具だ。 小さい猫のフィギュアが全部で百種類、というか明らかに猫じゃないトラとか入っているけど良いのか。 いやあれも一応ネコ科ではあるけどさ。
「ふふ、良いですね。 揃えたいです」
「てか、そういやお前って猫好きだよな」
「そりゃもう! 私の家でも飼いたいんですけど、神田が許可しないんです。 いつかぶっ飛ばしてやるです」
「食べ物扱ってるしな……仕方ないだろ」
シャドーボクシングを始めたクレアの背中に俺は言う。 このままでは喫茶店殺人事件が発生し兼ねない。 動機は猫を飼ってくれないから。 どこかの推理漫画の動機くらいぶっ飛んでるな。
「……じゃ、これ買ってくか。 この分は俺が金出すから」
「え、でも悪いですよ。 成瀬は貧乏なのに」
いや言いたいことは分かるよ。 でも言い方もっと考えろよ。 まるで俺の家全体が貧乏で生活が苦しいみたいな言い方やめろ。 今日このときに限って貧乏なだけだ。
「飯作ってもらうんだし、俺も何かしないとあれだろ。 これだけでお礼ってわけでもないけどさ。 今度、飯を一回くらい奢ろう。 ファミレスな」
「……そういうことなら、良いですけど。 ファミレスという部分にケチ臭さを感じますけど」
クレアは言うと、すたすたと歩き始める。 声も小さかったし、なんか不機嫌ポイントでもあったのだろうか。 俺が無理矢理意見を通したのが不満だった……とかかな。
「めんどくせぇ……」
遠くなったクレアの背中にそう呟いて、俺はクレアを追いかける。 これほど面倒なことは、この世に多分存在しない。 クレアに限った話ではなく、その全体のことだ。 要するに、人の気持ちってやつ。
それから俺とクレアは適当に買い物を済ませ、二人で帰路に就く。 それからのクレアは本当にいつも通りで、普通だったように思えた。
「というわけで、今日のメニューは鍋です!」
「わー」
「やる気のなくなる拍手はやめてください。 殴りますよ」
その脅し方はどうかと思う。 それに俺としては結構やる気の出そうな拍手だったのに、クレアから見たらそう見えるのか。
「よっし、時間も丁度良いですし、下準備を始めましょうか」
クレアは食材を台所に並べ、俺が用意したエプロンを付ける。 真昼が使っているものだけど、それでも大きいくらいだな。 こいつって本当に体ちっこいよな。 旅行カバンとかに収まってしまいそうだ。
「ちなみに、色々買ってたけどなんの鍋を作るんだ?」
「冬ですし、体が温まる鍋ですね。 なので、石狩鍋を作ります!」
石狩鍋って、確か北海道の鍋だっけか。 そんなことまで知っているなんて、本当に日本が好きなんだなこいつ。 なんだかクレアのテンションも上がっているみたいだし、後は任せて俺はテレビでも見ておこう。
そう思い、ソファーに移動しようとしたときだった。
「なにしてるんですか、成瀬も手伝うんですよ」
「……はいはい」
そんなわけで、ほぼ強制的に二人で料理をすることになる。 クレアは意外と作り慣れているのか、動きは自然で包丁の使い方もかなり綺麗だ。 喫茶店の手伝いをしていると前に言っていたし、その関係もあるのかな。 ただ、問題は一々動作が大雑把なところだろうか。 女子の料理というより、男の料理である。 切り方、適当。 調味料、適当。 火加減、適当。
そう思いつつ、俺もクレアの横で包丁を握る。 すると、クレアは俺の方を見てこう言った。
「なんだか、成瀬が包丁を持つと顔の所為で犯罪性が増しますね」
「そのコメント酷すぎるな」
加えて言わせてもらうと、犯罪性が増すということは、包丁を握っていなくても犯罪性があるということだ。 どんだけ怖いんだ俺の顔は。
「てか、お前はなんつうかさ」
言いながら、クレアを見る。 頭にバンダナキャップをかぶって、体にはエプロン、そして呼ばれたクレアはそんな姿で俺を見ている。
「……いや、案外似合うんだな」
「……そうですか、それは、どうも」
なんだこの空気は! 文句の一つでも言ってやろうかと思ったのに、予想以上に似合っていて何も言えない……。 唯一の欠点としてはその体の絶壁っぷりだが、言ったら俺自身が絶壁に立たされる可能性があるからやめておこう。
それから特に会話をすることもせず、俺とクレアは淡々と料理を作り始める。 クレアの手捌きはやっぱり慣れたもので、俺が随分楽をさせてもらったことには、なんだかちょっとだけ申し訳ないと思うのだった。
「できましたっ!」
言って、クレアは鍋の蓋を取る。 立ち上がる湯気と一緒にいい香りが辺りを覆い、自然と腹も減ってくる。 てか、なんだかんだ言ってこの夕飯が今日の初飯だ。 腹が減るのも当然か。
「お、美味そうじゃん。 さっすがクレア先生。 けどやっぱり男の作った料理だな」
「ふふ、当たり前です! 私が作ったんですから! それは褒め言葉として受け取っておきます!」
「おう、愛情たっぷり入ってるわ」
「いえ、愛情なんて一ミリも入れてないです」
そう冷静に返されるとすげえ悲しい。 もっとこう、可愛い反応が欲しかった場面だ。 まぁ良いさ、別にそれでも。
「私の愛情は有限ですので。 なので、料理に使う愛情はないんです。 もっと他の物に使います」
「そーですか。 それじゃ……って、お前どこ行くの?」
クレアの言葉を適当に返し、俺が茶碗などを用意しようと思ったときだった。 クレアがなぜか、今日着てきたショートコートを羽織っていた。
「どこって、そりゃ帰るんですよ。 もう外暗いですし」
「え? 食っていかないの?」
「へ? 良いんですか?」
いやそりゃ当然だろ。 というか、どう考えてもこれ一人で食いきれねえよ。 お前一人でどんだけいつも食ってんだよ。 軽く一つの家族の夜飯補えるぞこれ。
「一人で鍋とか寂しすぎるだろ俺……しかも大晦日にとか」
「……そういうことなら、分かりました。 私も食べていきます」
クレアは言い、ショートコートを再度脱いでソファーに置く。 そんな姿を見て、俺は茶碗を持って炊飯器へ。
炊飯器へ。 炊飯器……なんか、炊飯器さん静かなんだけど、これってもしや。
「そういやクレア……ご飯炊いた?」
「ご飯……わ、私はパン派なので」
「その誤魔化し方は斬新だな」
鍋と一緒にパンを食うのかお前は。 本当にそうなら、是非とも見てみたい光景だ。
「ま仕方ないか……。 鍋だけ食おう」
「……すいません」
「別に、謝ることじゃないだろ。 俺だって忘れてたんだし」
出した茶碗をしまい、鍋の取り皿と箸だけを持ち、食卓へ。 こんな感じで一人っきりの予定だった一日がなくなるのはどこか寂しい気もするが、こんな感じで少し騒がしい一日になるのはあまり悪い気がしなかった。
「あ、そうでした」
取り皿と箸を置いたところで、クレアは何かを思い出したかのように席を立つ。 なんだろう?
「これ、帰ってから開けようと思っていたんですけど、今開けます。 良いですか?」
クレアが俺に見せたのは、今日スーパーで買った食玩、にゃんにゃんドリーム猫百匹。 ちなみに超レアはトラである。
「俺に許可取らなくても、お前のだろ」
「ふふ、そうでした」
にっこり笑って、クレアはさぞ嬉しそうにそれを開ける。 どんだけ猫大好きだこいつ。
「これは……」
そして、クレアが取り出したそれは。
「……トラ、だな」
「……鍋、食べましょうか」
「……だな」
だからなんだよこの空気は。 くそ、あの猫だらけの中にトラを入れようと考えた奴を俺は恨むぞ。 考えた奴出てこい。
そんな微妙な空気の中、俺とクレアは二人で鍋を食べる。 食べ終わった後は雑談やテレビなんかを見たりして、気付けば時計の針は十一時を指していた。
「では、私はそろそろ一度帰りますね。 初詣にも行きたいですし」
「そっか。 今日はありがとな、いろいろと」
「いえいえ、私も楽しかったですし。 それより三が日の間、私の喫茶店に来て頂ければご飯くらい出しますよ」
「……申し訳ないけど、多分世話になると思う」
「ふふ、それで良いんです」
こいつはやっぱり、優しい。 いつだってそうだったんだ、初めて会ったときから、今日に至るまで。 いつでも優しくて、どこまでも優しい。 俺なんか結構酷いことを言っているのに、そんな俺の飯を作ってくれたり、今も喫茶店に来ればご飯を出すとまで言ってくれている。 それが優しさ以外の何者だというんだ。
そういう優しさに触れると、俺が余計に小さな人間にも思えてくる。
「……なぁ、クレア」
玄関扉を開けたクレアの背中に声をかける。 扉を開けて繋がった外から流れてくる空気はとても冷たく、体の芯まで冷えそうな冷たさだ。 雪はもう止んでいるが、結構な量が降った所為で外の景色は銀世界だ。 そんな外に出たら、折角温まった体も冷えてしまうだろう。
「はい?」
目をぱちぱちとさせ、クレアは俺の方を見る。 まだ何かあるのか? といった感じの表情だった。 ああくそ、今日はもうテレビでも見ながら寝ようと思っていたのに。
「……着替えてくるから、ちょっと待ってろ。 俺も行くよ、初詣」
「……はいっ!」
けどまぁ、そんな笑顔で言ってくれるのなら悪い気はしない。 それに、俺が受け取った優しさも少しくらい返さないといけないだろうから。 だから別に、これはクレアともう少し一緒に居たかったとか、そんな気持ちでは断じてない。 そんなこと、俺が思うわけがないのだ。 俺はいつだって物事を冷たく見ていて、今回のことだってそうだ。 貸しを作ったままだというのが嫌なだけで、それ以上でもそれ以下でもない。 いつだって、俺は実直ではない、曲がったことを考えて、曲がったやり方をしているだけ。 だからこそ、俺は西園寺夢花という真っ直ぐな人に惹かれたのだ。 けれど、それすら本当のところはただの憧れに過ぎなくて。
俺はきっと、人を好きになったことなんてないのだろう。
それから。
それから、俺はクレアと初詣に行った。 そこはやっぱり人が大勢居て、どこもかしこも夜中だというのに喧騒が絶えない。
そんな中、はぐれたら困るとの理由でクレアから手を繋ごうと提案され、俺はそれを受け入れる。 握った手は暖かくて、この寒さが嘘のようにも感じられた。
クレアと俺は一緒にお参りをして、クレアは破魔矢を買って、俺は寒さに耐え切れずに自販機で暖かいお茶を飲んで。 そうやって過ごしていく時間は、無駄には思えなかった。
「では、そろそろ帰りましょうか」
「だな。 夜遅いし、家まで送ってく」
寒さの所為か、クレアの顔は少し赤かった気がする。 クレアは俺の提案を最初こそ断ったものの、さすがの俺でもこんな夜中に一人で帰らせるわけにもいかず、ほぼ無理矢理意見を押し通す。 後味が悪いから、それだけの理由だ。
二人並んで、街灯だけが照らす住宅街を歩く。 もうはぐれる心配なんてないのに、不思議と手は繋がれたままだった。 俺はそれに気付いていたけど言い出せず、クレアの横顔をちらっとみたら、クレアもそんな表情をしていた。 なんとなくだけど、そう思った。
「あ、ここら辺で大丈夫です。 もう、そこなので」
クレアが指差す先には、明かりが消えた喫茶店。 どうやら、本当に家の前まで気付いたら歩いていたらしい。
「そっか、じゃあまたな」
言って、俺はクレアから手を離す。 そして振り返って、歩き出す。
「成瀬」
そんな俺の背中にクレアは声をかけ、俺は振り返った。
失敗、だったかな。 ここで振り返ってクレアの顔を見てしまったのは、きっと失敗だったんだ。 その次に、クレアが何を口にするのかが分かってしまった。 俺が苦手としている人の気持ちが、分かってしまった。 こんなのは、初めての経験だ。
「あの、今日実は言おうと思っていたことがあるんです。 年を越える前に、言おうと思ってたことが。 ……ふふ、もう、年越ししちゃいましたけど」
クレアは言って、恥ずかしそうに笑う。 俺は一体、今どんな顔をしているのだろう。 俺は一体、今何を思っているのだろう。 ああ違う、分かっている。 クレアが何を言うのかなんてことはさすがの俺でも分かっている。 そこまで馬鹿ではないから。 でもそれを言われてしまったら、言わせてしまったら何かが崩れてしまいそうで、俺たちの均衡が取れている関係が揺れ動いてしまいそうで。
俺と、クレアと、西園寺さんと、今では柊木も加わった四人の関係が決定的にズレてしまう予感がした。
だから俺は言う。 そのズレをなくすために、正すために、調和を元に戻すために、間違いを犯さないために、俺たち四人の、暗黙のルールを破らないために。
「あーっと……わり、帰って新年の番組見ないと。 それに、ちょっと疲れたし」
素直に向けられたその気持ちが、怖かった。 俺に対する純粋な想いが、怖かった。 だから俺は、答えられない。 クレアの気持ちに答えられないのではなく、それ以前の問題だ。 俺は、クレアの言葉に答えられないのだ。
「あ、そうですよね。 ごめんなさい、今日はもう私も帰ります」
そう言って、クレアは俺に背中を向ける。 俺は黙って、それを見ていることしかできなかった。 少しだけ、本当に少しだけ、クレアの横顔は涙を堪えているように見えた。
問題終了。 俺、成瀬陽夢が人の気持ちを知れることができるか? イエス、オア、ノー。
答えは、ノーだ。




